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遣唐使は物語の宝庫

遣唐使船復元プロジェクト

 先日、遣唐使船復元プロジェクトに関する記事がネット上にアップされた。

 技術の進歩や研究の成果として、遣唐使船に関しても様々なことが解明されてきている。上にリンクを貼った記事によると、2021年2月下旬に20分の1の復元模型が完成するそうである。
 遣唐使船そのものに関して言及することはないが、このnoteの駄文で遣唐使船に乗り唐に渡った僧侶に関して取り上げてきており、また今後も取り上げる予定である。

遣唐使船の航路

 上のリンクの記事に、遣唐使船の航路に関する概略図がある。
 一般的に遣唐使船は「命がけの航海」というイメージがあると思われ、実際に承和の遣唐使でも遭難が相次ぎ、往路だけでも船1隻と多くの人命が失われているが、それはいわゆる「南路」を採ったことで航海の難易度が高かったことも関係している。
 朝鮮半島沿いを航海して大陸に渡った「北路」に関しては比較的安全な航海ができたと言われている。朝鮮半島を右手に見ながら北上し、現在のインチョンあたりで西に向きを変えると山東半島にたどり着ける。
 朝鮮半島の人々は古くからこの間を往来しており、そのルートを利用すれば比較的安全な航海ができたのである。これは後の時代のことであるが、承和の遣唐使は帰路に新羅船を雇って帰国したのだが、やはり山東半島から東に向かっている。そして、山東半島には新羅人のコミュニティがあり、新羅人張保皐が寄進した赤山法華院に滞在した円仁は新羅人の助力を得て抜け参りを敢行している。
 山東半島は朝鮮半島の人々にとって大陸に渡る航海に重要な役割を担っていた。

 しかし、日本と新羅の関係が悪化したことにより、遣唐使船は朝鮮半島沿岸を陸地を見ながら北上する航路を採れなくなった。その後、九州沿いを南下して南西諸島あたりから西へ向かう南島路が採られ、最終的には九州から一気に西を目指す「南路」で航海するようになった。円仁や円載が乗った承和の遣唐使船は南路で航海した。
 北路→南島路→南路の順に航海の難易度も危険度も上がった。

 海図も無ければ羅針盤もない時代である。南路で航海することは、現代的な視点で見れば命がけということになるだろうが、当然のことながら航海の成功のための方策は取られていた。一つは神仏にご加護を祈ることである。これに関しても、現代的な視点で見れば、「なんだ神頼みじゃないか」となるが、神も仏も人々の生活や日常にもっと根ざしていたのである。さらに言えば、僧侶が船に乗ることは留学のためであると同時に、仏のご加護を直接船にもたらす存在として同乗したという意味合いもあったであろう。

 航海の時季と風

 もう一つの方策は、航海にいい風が吹く季節を選ぶということである。しかし、航海にいい風が吹く季節とは、台風の可能性もある季節だとも言える。ここが難しいところである。
 またもや現代的な視点で見れば、気象現象は科学的に説明できるので、気象観測や解析を基にして予報を出すことができるが、これとて100%確実なものではない。「天」の「気」という文字の如く、天の神々の気分次第だったので、そういう意味では神頼みにもつながるが、気候や吹く風が季節的にどうなるかは経験的にわかっていたから、それも十分考慮して航海の時期を決めた。
 だから、別のところで駄文に記した通り、遭難して船が破損すると、翌年に再渡航を延期したのも、船の修復が必要なことに加えて、季節を選んでいたからでもある。

 晩秋から冬は大陸から強い北西〜西風が吹く。いわゆる冬型気圧配置の時の風であるが、これでは向かい風で大陸に行くのは困難である。また、低気圧が発達しながら通過するため、嵐で波も荒れやすい。下手をすると南洋へ大きく流されてしまう危険性がある。余談ではあるが、大黒屋光太夫は白子の浦から江戸へ向かう船に乗り、(恐らくは発達しながら日本付近を駆け抜けた低気圧による可能性がある)嵐に遭って駿河沖で漂流しはじめたのは1783年1月のことであり、このまま7ヶ月漂流し続けアリューシャン列島に漂着した。冬の日本近海で低気圧の暴風で太平洋上に流されるとずっと陸地にたどり着けないのである。

 話をもとに戻すと、承和の遣唐使が最終的に博多の津を出たのは、承和五年6月17日で、順風が吹かなかったため乗船してから三日間停泊して後のことであった。ここで注意が必要なのが日付で承和五年6月17日はグレゴリオ暦に変換すると838年7月16日である。博多の津を出て志賀島についてそこでもまた風を待って5日間も停泊している。

 その後、志賀島を出たのは承和五年6月22日、グレゴリオ暦838年7月21日である。時季的は梅雨末期にあたるだろうか。円仁は「艮(うしとら)風を得て進発」と記録しており、北東の風が吹いて出航できたことがわかる。

 なお、遣唐使船の航海に関する学術的な研究は、トップの画像の上田雄著遣唐使全航海に詳しいので興味のある方は一読されることをおすすめする。

 請益僧や留学僧の冒険譚

 さて、遣唐使船の航海に関して、対外関係も国内状況も影響してさまざまな物語があるわけだが、他の駄文で述べている通り、遣唐使船に乗った人たちは、僧侶だけを見てもいろんな物語があった。

 延暦の遣唐使船には請益僧として最澄が渡航し、帰国後は英雄としてもてはやされた。
 同じく延暦の遣唐使船に乗った留学僧空海がいた。空海は密教を師に就いて学び、師から「もう教えることはない」と言われ(たらしい)、師が逝去したこともあり、2年余りで留学を切り上げて帰国してしまう。このため、なかなか入京を許されない状態が続く。空海が身に付けてきた密教の凄さを理解できるものが全くおらず、しばらく宙ぶらりんの状態だったところに、空海が密教をガチで学んできたことを最澄が知り、空海が入京できるように取り計らったと言われており、そこから最澄は空海に密教の教えを請う事になった。空海にとっては、最澄が請益僧で自分が留学僧だったことが幸いしたわけである。最澄にとっては逆の立場で、請益僧では滞在時間が短すぎて、密教を本格的に学ぶことができなかった。

 また、同じく延暦の遣唐使船に乗った留学僧霊仙は唐でサンスクリット仏典の漢訳で皇帝に認められ、三蔵法師の称号を受け、内供奉の役職に就いた。しかし、時の皇帝が暗殺されると、霊仙は長安を離れ五台山に身を隠すようにして滞在した。しかし、最終的には毒殺されたと言われており、この辺のことは別の駄文で記したとおりである。

 そして、霊仙が毒殺された後に五台山に戻ってきた貞素の詩を、承和の遣唐使船で唐に渡り、抜け参りで五台山に入った円仁が見つけて、これを書き取っておいたことで、霊仙の最期も、貞素の詩も現代に伝わったのである。

 このように、遣唐使船に乗った請益僧や留学僧には、その後帰国して歴史に名を刻んだ人物もいれば、唐で客死した人物もいた。

 大使と副使の物語

 ここで、僧侶以外の人物に目を向けると、例えば承和の遣唐使の持節大使藤原常嗣と副使小野篁も、二人とも面白い物語の主役だと言える。

 一般的には小野篁の名を知る人のほうが多いかもしれない。京都の六道珍皇寺に小野篁が冥府との往来に使ったと言われる井戸があり、小野篁作と言われる閻魔大王の像がある。また六道珍皇寺と千本えんま堂には小野篁の像もある。
 このように、小野篁は冥府通い伝説とともに名を知られ、様々な創作の主人公にもなっている。

 遣唐使の副使に任命された小野篁であるが、実際には唐に渡っていない。最終的に乗るべき船に乗るのを拒否して違勅の罪に問われた。さらに『西道謡』という漢詩を書いて遣唐使や朝廷を風刺したため、本来であれば死罪であるところを罪一等を減じて、官位剥奪の上に壱岐への島流しとなった。余談であるが、死罪から罪一等を減ずると流罪になるというのも、現代的視点から見ると面白い。島流しになれば都から遠く離れて何もできない、ということであるが、実質的には命を助けることで後に赦免を与える余地を残していたということであろう。優秀な人材は使い方次第なので、役職を外して都から追い出すことで頭を冷やしてきなさい、ということにもなる。実際、小野篁は後に赦免され都に戻ると、その能力を買われて要職を歴任した。

 小野篁が渡航を拒否したのは、藤原常嗣に対する反発があったからだと伝えられている。二回目の渡航に失敗して船の修復をした後に、三回目の渡航の際に、常嗣が自分の乗る第一船と篁の乗る第二船を入れ替えたことに端を発していると言われる。常嗣が自分の利益のために他人に損害を押し付けるような道理の通らないことをしたと批判し、自分も母親も病気だということで篁は乗船を拒否した。船の入替えに関しては上奏して了解を得ていることから、これを批判するということは朝廷の判断を批判することにもなる。

 ただ、小野篁が乗船を拒否した本当の理由はこれでは説明つかないように思える。母親や本人の病気とか、藤原常嗣が船の入替えをしたことに対する抗議であるとか、それでも少なくとも官職剥奪や流罪に、普通なら死罪になることを覚悟でやることだろうか。また、船の入替えに関しても、篁が乗る予定だった船のほうが、本当にそこまで破損や修復の状態に差があったのか疑問が残る。実際、入替え後の第二船も篁を残して唐に渡っており、そんなに危険な状態だったとは考えにくい。

 さらに言えば、常嗣は持節大使である。現代的に言えば「特命全権大使」ということであり、持節とは「節刀」を「持たされている」ということで、朝廷からすべての権限を委任されていることを意味する。すなわち遣唐使の使節団では、大使に全ての権限があり、使節団の中で犯罪行為や反逆行為などがあった場合には、断罪する権限がある。とすると、副使である小野篁が持節大使である藤原常嗣に逆らうことは反逆行為にもなりうるのである。

 小野篁は反骨の人であると伝わっているが、果たして実際どういう判断の基に乗船を拒否したのか、こればかりは本人に聞かなければ分からないし、聞いたとしても本心を語ってくれるとも限らない。

 また藤原常嗣の人となりとして、この小野篁との対立の他に、帰国時にも准判官長岑高名と対立して敗れたなど、常嗣の能力の欠如等がいわれているが、それに対して、円仁に対しては終始協力的な行動をしており、そんなに能力のない人物だったとは思えない。小野篁は天才肌、藤原常嗣は秀才肌という感じがするのだが、これはあくまで個人的な思いに過ぎない。

 ちなみに、この承和の遣唐使の持節大使がよほどの激務だったのか、任務を終えて帰国した翌年、承和七年に45歳で亡くなっている。

 同じ承和七年に流罪になっていた小野篁が赦免されて京に戻ったのは、たまたま朝廷の判断がそのタイミングだったのか、常嗣の死がきっかけで朝廷が動いたのか、どんな理由にせよ歴史の皮肉に思えてならない。

 古(いにしえ)の国際交流

 この駄文を書いているのは、コロナ禍の緊急事態宣言の真っ最中である。
 新規感染者は減らず、死者も増え続けており、SARS-CoV-2というウィルスが原因であると分かった現状としては、重症者のケア、新規感染者の抑制にはウィルスにどう対峙していくかが重要であるのはもちろんのことである。

 グローバル化が進み、LCCなどで安価に海外旅行ができ、また日本も海外からの観光旅行客で賑わっていた。いつの時代も、人々の往来は経済的な豊かさをもたらし、文化も技術も大きく進歩する基となった。

 しかし、今世間で声高に言われるのは「不要不急の外出を控えなさい」「大人数での会食は自粛しなさい」「帰省も控えなさい」ということであり、人と人が国境を超えて活発に交流するグローバル時代に大きな打撃を与えている。人と人との接触が感染を広めるパンデミックにおいては、接触を減らすようにしなくてはいけない、という理屈は当然すぎるほど理解できる。

 幸いなことに、現代はインターネットなどIT技術の進歩により、接触を避けても可能な情報交換や交流の手段があり、テレワークでおこなう仕事も一気に増えた。

 ところが残念なことに、人心の荒廃が進んでいるように思える。先に述べたIT技術の進歩が、他人の行動を批判し、そして行動の批判から人格否定にまで至って、その情報が一気に広まってしまうようなことが多発している。そして何より、人の流れが途絶えたことで、仕事を失い行き場を失った人たちも増えている。

 しかし人間はいつの時代でも、危険な航海や航空をより安全なものにしていって、どんどん交流を深めてきた。COVID-19が終息したのちは、様々な感染症のリスクと向き合いながらも、人の流れは再び戻ってくる。人は動かずに生きていくことはできない。誰かに会うために、国境も超えて旅をする。それは、この駄文で扱っている遣唐使を例に取るまでもなく、人間は有史以前から旅をし続けてきたのだ。そのDNAを誰もが持っている。人間には他人との関わりが必要なのだ。

 個人的に遣唐使に関わる人物に興味を持ったのは、青年海外協力隊でモンゴルに派遣されることになり、派遣前訓練中にある方からご著書をいただいたことがきっかけである。モンゴル語を学びながら現地で仕事をしている時にその本を読んだ。
 マルコ・ポーロを超えた男―慈覚大師円仁の旅 という本で、円仁と円載のことを知るきっかけとなった本である。たとえ二年間あまりの短期間であっても、自分が外国人として生きることはどういうことなのか、いろいろ考えている時だったので、この本を読んだことは非常に刺激になった。
 遣唐使という言葉はキーワードとして学校の歴史で習い知っていたが、それ以上のものはなかった。しかしその中に、歴史にも残らず知る人もない数多くの物語があることも知った。

 グローバル時代に大打撃を与えるパンデミックという事象が起こった現代だからこそ、古の国際交流である遣唐使の物語からいろんなことを学び続けたいと考えている。いつの時代でも、人間には物語が必要である。生きていくための指針としての物語が。

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