坪内隆彦

『通信文化新報』編集委員。『維新と興亜』編集長。主著に『アジア英雄伝』『GHQが恐れた…

坪内隆彦

『通信文化新報』編集委員。『維新と興亜』編集長。主著に『アジア英雄伝』『GHQが恐れた崎門学』『徳川幕府が恐れた尾張藩』『水戸学で固めた男・渋沢栄一』『木村武雄の日中国交正常化』。https://tsubouchitakahiko.com

最近の記事

大川周明と平泉澄

 日本精神に開眼した大川周明は、国史尊重の姿勢を明確にするとともに、尊皇斥覇の考え方を展開するようになっていた。  大川は、『日本的言行』(昭和五年)において、保元平治の乱を経て、政権が武門に移るに及んで、朝廷における修史の御企てがなくなり、日本書紀の講義もなくなったと指摘した。そして、後醍醐天皇の建武中興による日本精神の勃興を称え、北畠親房の神皇正統記の重要性を強調した。  「神皇正統記は、建国の精神を明確端的に宜揚せる点に於て、真に空前の史書であり、平泉(澄)博士がい

    • 『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実

       昭和十八(一九四三)年になると、大川周明は日本占領地域における経済政策を厳しく批判するとともに、中国民衆の惨苦を強調するようになる。この変化をもたらした要因の一つとして、石原莞爾らとの意見交換があったのではないか。そうした仮説に立ち、大川の日記を読み込んでいると、昭和十八年の年明け早々から動きがあったことがわかった。まず、日記を追ってみたい。 昭和十八年一月一日  「蒋君輝・川又務両君上海より上京の電報があつたので東京駅に迎へに往く。午後三時二十五分の富士で安着。中山優君

      • 「東洋文化の三聖人」─辜鴻銘・タゴール・岡倉天心

        西本白川と大川周明  東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。  そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類な

        • 大川周明と張学良

          ■支那が真支那を、日本が真日本を回復  大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。  同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。  大川は、同年九月十一日

        大川周明と平泉澄

          上皇后陛下が称えた緒方貞子氏のクルド難民救済

           令和3(1991)年の湾岸戦争直後、イラク北部に住んでいたクルド人は武装蜂起したものの、イラク軍に制圧され、わずか4日間のうちに180万人のクルド人がイランやトルコの国境地帯に逃れました。しかし、トルコが受け入れを拒否したため、彼らは前に進むことも戻ることもできない状況に追い込まれた。その数は約45万人に達していた。  国境地帯は岩山で、夜間の気温は氷点下という過酷な状況だった。こうした人々をどうするかという難題に、国連難民高等弁務官の緒方貞子氏は直面した。  難民条約(1

          上皇后陛下が称えた緒方貞子氏のクルド難民救済

          五・一五事件と水戸学

           五・一五事件は青年将校と民間人の結集による直接行動であった。津田光造が著した『五・一五事件の真相』には、青年将校、橘孝三郎率いる愛郷塾、井上日召率いる血盟団が結集する上で水戸学の國體思想が重要な役割を果たしていたことが示されている。同書はまず、発端となった水戸学再興運動の台頭について述べる。中心となったのが雨谷毅・菊雄親子だ。  〈血盟団と農民決死隊とを動員させたるも一つの大なる力は、実に水戸学研究会の創立とその強化拡大運動である。義公の精神たる尊王と農本主義の二大綱領を

          五・一五事件と水戸学

          大川周明─王道アジア主義への回帰①

          過度の「日本的」思想と一線を画す  大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。  〈アジアの諳民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表

          大川周明─王道アジア主義への回帰①

          右翼と中東イスラム─イスラエル・ハマス紛争と日本人

          日本の右翼・アジア主義者とイスラム  欧米列強による植民地支配の打破とアジアの道義的秩序の回復を目指した戦前日本の右翼・アジア主義者は、東アジアだけでなく、東南アジア、中央アジア、中東などのイスラム教徒(ムスリム)の境遇についても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが頭山満らであった。彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指してムスリムと協力しようとしていた。  明治三十九(一九〇六)年六月には、亜細亜義会という団

          右翼と中東イスラム─イスラエル・ハマス紛争と日本人

          岸田総理は新自由主義者の軍門に降ったのか─彼らがライドシェアを導入したい理由(『維新と興亜』令和5年11月号)

           新自由主義からの脱却を模索してきた岸田総理は、ついに新自由主義者の軍門に降ってしまったのだろうか。岸田総理は、十月二十三日に行った所信表明演説で、新自由主義者たちが待望しているライドシェア導入の検討を表明したからだ。ライドシェアとは、個人のドライバーが自家用車を使って乗客を運ぶサービスだ。  しかし、ライドシェア導入に踏み切った国では、ドライバーによる乗客殺害など深刻な問題が起きている。タクシー業界では運転者の労働時間をきちんと管理し、運転者の健康状態を把握し、疲労、飲酒等

          岸田総理は新自由主義者の軍門に降ったのか─彼らがライドシェアを導入したい理由(『維新と興亜』令和5年11月号)

          「楠河州の墳に謁して作有り」に示された山陽の尊皇斥覇論

           頼山陽は、早くも十八歳にして、忠臣としての大楠公の真価を見抜き、しかも尊皇斥覇の思想を固めていた。そのことは、寛政九(一七九七)年、山陽十八歳の時、江戸遊学途中、湊川を訪れて楠公の墓に参詣し、漢詩「楠河州(なんかしゅう)の墳(はか)に謁して作有り」を詠んでいることに示されている。 東海の大魚 鬣尾(りょうび)を奮ひ、 黑波(こくは)を蹴起(しゅうき)して 黼扆(ふい、玉座のこと)を汙(けが)す。 隠島(いんとう)の風雲 重ねて惨毒、 六十餘州 總て鬼虺(きき)。 誰か隻手

          「楠河州の墳に謁して作有り」に示された山陽の尊皇斥覇論

          尊号宣下運動の密議の舞台となった有馬主膳の「即似庵」

           寛政の時代、尊号宣言運動に挺身していた高山彦九郎や唐崎赤斎は、久留米の同志と連携していた。久留米には赤斎らと同門の崎門学派が存在したからである。その一人が不破守直の門人有馬主膳守居だ。有馬の別荘の茶室「即似庵」こそ、尊号宣下運動に関する密議の舞台の一つとなった場所である。三上卓先生は『高山彦九郎』で次のように書いている。  「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし……筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んで其孫主膳(守善)遂に真木和泉

          尊号宣下運動の密議の舞台となった有馬主膳の「即似庵」

          戦後史観が歪めた頼山陽の真実

          大宅壮一の歪曲 頼山陽は文化四(一八〇七)年に『日本外史』を一応脱稿したが、なおも心血をそそいで改訂を重ねた。そして、執筆開始から二十五年を経た文政十(一八二七)年についに完成した『日本外史』は、幕末の志士を鼓舞し明治維新の原動力となった。  ところが戦後、山陽や『日本外史』を貶める言説が幅を利かせてきた。その発端の一つが、大宅壮一の『実録・天皇記』である。大宅は「…山陽という男は公私文書偽造、詐欺、姦通などの前科を何犯かさねているかわからない。それも決して若気のいたりと

          戦後史観が歪めた頼山陽の真実

          「国家の魂」を取り戻せ(『保守』平成29年6月号)

          明治維新の本義をなぜ語らないのか  明治維新百年を控えた昭和四十一年三月、佐藤栄作政権の橋本登美三郎官房長官は、次のように語った。  「維新百年に回帰しようなどと大それた考えを持っているのではありません。戦後二十年の民主主義の側に私どもも立っております。…ことさら明治維新を回想するというわけではございません」  これに対して、同年三月、憲法憲政史研究所長の市川正義氏は、佐藤首相に質問主意書を提出し、「明治百年の重要性は明治維新にある」と糺している。また、大日本生産党も「

          「国家の魂」を取り戻せ(『保守』平成29年6月号)

          知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩(『日本』令和3年3月号)

          ■敬公の遺訓「王命に依って催さるる事」  名古屋城二の丸広場には、「王命に依って催さるる事」と刻まれた石碑がひっそりと建っている。この碑文は、尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編んだ兵法書『軍書合鑑(ぐん しょ ごう かん)』の末尾に記された言葉である。  「藩訓秘伝の碑」と命名されたこの碑は、昭和九(一九三四)年、歩兵第六連隊の第四中隊長を務めていた片桐寿が私財を投じて建立したとされている。尾張徳川家第十九代当主・徳川義親が揮毫した。  ただ、この「藩訓秘伝の碑」の建

          知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩(『日本』令和3年3月号)

          「楠公精神を体現した真木和泉」(湊川神社社報『あゝ楠公さん』、第10号)

          楠公の真価を説いた山崎闇斎と水戸義公  すでに、皇學館大學文学部教授の松本丘先生が「『望楠』の系譜─楠公奉祀への一道程」(本誌第九号)において、崎門学派の楠公観に関しては十分に説明されているので、本稿では「今楠公」とまで呼ばれた幕末の志士真木和泉に焦点を当ててみたい。  崎門学の祖山崎闇斎と水戸光圀(義公)は、ともに南朝正統論と忠臣としての楠公の真価を説いた先駆者である。  当初、義公が登用していた学者は、父威公の師でもあった林羅山の系統で占められていたが、やがて学派に関わ

          「楠公精神を体現した真木和泉」(湊川神社社報『あゝ楠公さん』、第10号)

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          周恩来は言った。「東亜連盟の同志はどうしていますか」 「八紘為宇と王道アジア主義」❼─知られざる日中国交正常化(講師:坪内隆彦、令和5年7月26日)

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