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【感想】生きてるだけで、愛

日本はいま、様々な背景から「生きづらさ」を感じる人々が増えている。特に東京という経済の中心では、効率化や合理性が求められた結果、常に繋がることが要求されるシーンも多い。更にはネットを通して処理できない量の情報が日々絶え間なく降り注ぎ、SNSを開くと他人の輝かしい(ように見える)人生を用意に受信できる環境により、他人の人生の良い部分ばかりを見せつけられてしまうストレスがある。

映画「生きてるだけで、愛」は、そんなストレスが充満する現代社会にぴったりの作品だった。

2006年に小説家の本谷有希子が発表した同名小説が原作だ。

鬱が招く過眠症のせいで引きこもり状態の寧子(趣里)と、出版社でゴシップ記事の執筆に明け暮れながら寧子との同棲を続けている津奈木(菅田将暉)。そこへ津奈木の元カノ(仲里依紗)が現れたことから、寧子は外の世界と関わらざるを得なくなり、現状の全く働いていない状況から、少しずつ状況が変化していく。

それまで、ほとんど外の世界と関わることなく、ただただ津奈木と同棲をしながら、"ヒモ"として生活する寧子。とくに先の未来や、現状(鬱であり過眠症であること)に対して、内心不安はありつつも、今のような生活がゆるくも長く続くハズだと思い込んでいる。

私も日々の生活の中で、今のままではいけないという状況に立たされていたとしても、昨日と同じ生活が、明日も明後日も予想できるような日々であれば、「なんとかしなきゃ」と思いながらも、ずっと今の環境に甘んじてしまうことがある。寧子もまさにそういった状況の中にいたが、ある日、津奈木の元カノ安堂(仲里依紗)が現れることで、状況は一変する。

安堂は、津奈木に未練が残っており、津奈木と寧子の同棲を知ってから、寧子に接触し、別れろと凄む。しかし寧子は病気のこともあり社会復帰すらままならないので、それを理由に、すぐには別れられないと安堂に伝える。しかし安堂が半ば強引に、その場(会話をしていたカフェバー)の店主(田中哲司)に半ば強引に、寧子を雇うよう促した。

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人は常に立ち直りたい、自分の足で立ちたい

主人公、寧子は躁鬱状態を繰り返して、恋人の津奈木に当たり続ける。完全に津奈木の"ヒモ"状態である。しかし津奈木は常に理不尽な当たり方をする寧子に対して、いつも静かにやり過ごし、怒ったり自分の感情を寧子にぶつけようとしない。

寧子は、そんな津奈木に更に腹が立って、そのストレスは生活の様々な場面で余波として影響を与えている。

寧子がカフェバーで働くようになったのは、安堂の半ば強引な行動からだったが、店主が寧子に一言「立ち直りたいんだろう」と聴き、寧子はハッとする。

私にも、店主のこの「立ち直りたいんだろう」という言葉は、非常に印象的だった。たしかに私達は皆、常に立ち直りたいし、自分の足で立ちたいと望んでいるし、すでに自分で立っていて、現状が、他人から見て、どんなに羨ましいと思われるような状況であったとしても「もっと幸せに」と、願い続けてしまう。そして、常にもっと綺麗に立ち、他人より良い位置に立ちたいなどを考え、結果としてその幻想に囚われ、負のスパイラルに陥ってしまうこともある。

寧子は、まずは自分の足で立ちたい。と思う人間であった。一方安堂は、「もっと幸せに」と願う立場の人間。安堂は現代人そのもののようにも感じた。幸せを追い求めようとすればするほど、不幸になってしまう典型のようにも見えた。

私はこの映画を見ながら、「もっと幸せに」と追求するのではなく、「もっと良くしたい(なりたい)」という探求の考え方にシフトすることが、何か幸せのヒントになるのでは?と考えていた。

追求も探求も、あまり言葉の意味は違わないのだけれど、目的に向かって一直線に走り続けるのが追求だとしたら、目的にたどり着くために試行錯誤して、蛇行しながら前に進むのが、探求だと思う。

冒頭に述べた、「効率化」や「合理性」はどちらかといえば追求であり、求めすぎると何が答えか分からなくなってしまう。しかし探求は、蛇行しながらも前に進み、その経過・道中そのものに価値があり、それが新たな発見につながることや、その過程こそが幸せにもなりうる。

映画の話に戻ると、もう1人の主人公津奈木(菅田将暉)も、文学に夢を抱いて出版社に入ったものの、週刊誌の編集部でゴシップ記事の執筆に甘んじる日々。仕事にやり甲斐を感じることもできず、職場での人間関係にも期待できなくなっていた。

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津奈木は、寧子とは全く違う。仕事もしていて、普通に生活している。ただ、夢を頂いていた。文章に関わる仕事に就いたハズなのに、ゴシップ記事の執筆、そして、過去にはそのゴシップ記事の対象となった人間に自殺者も出ている。自分の仕事の価値とはなんなんだろうと、考える日々。

津奈木は仕事をしているが、寧子はしてない。どちらも悩みの立ち位置は違えど、お互いに計り知れないストレスを抱えている。

そんな津奈木は、常に寧子との衝突を避け続け、人と心から向き合うことを避けており、それは寧子にも透けて見えていて、その津奈木の逃げ腰な態度に寧子はキレるのだ。

物語終盤、寧子が津奈木に言うセリフが非常に印象的だった。

「今から嫌なこと言うけどいい?私、楽されるとイラつくんだよ。
 私がこんだけあんたに感情をぶつけてんのに、楽される。
 あんたの選んでる言葉って結局あんたの気持ちじゃなくて、
 あたしを納得させるための言葉でしょう。なんのごめんなのそれ。
 津奈木はさ、すごい誤解してると思うんだけど、
 私を怒らせない方法はね、やり過ごすんじゃなくて、
 私が考えてるくらい考えて、私がエネルギー使ってるのと同じくらい
 振り回されろってことなんだよね。」

これは、本谷有希子の原作書籍にもある言葉なのかどうかは確認していないが、男女の関係の中で、ここまで言葉にできないまでも似たような思いをしたことがある人は、恐らく相当数いるハズ。

私も漏れなくその一人だ。男女の心理関係は非常に複雑だ。さすが本谷有希子…という所だった。

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この映画はラスト、寧子このようなセリフで締めくくられる。

「多分、私たちが本当に分かり合えたのなんて、ほんの一瞬くらい。でも、そのほんの一瞬で、私は生きている」

現代社会で、幸せを追い求めようとする中で、実は「ある一瞬」のために生きているのかもしれないし、「その一瞬」に生かされているのかもしれない。

その「一瞬」を見つけるために、毎日生きていきたいと、そう思える映画だった。


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