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私が「書ける」ようになった日



先日、10個目のnoteを投稿できた。私にとっては大きな数字だ。だって、1年前までは全くと言っていいほど書けなかったから。

元々、読書が子供の頃から大好きだった。

胸の奥がぎゅっと熱くなる気持ちを教えてくれたのは本だった。感動する、ってこういうことなんだ。それに気付いたのは自分の気持ちを言葉にできるようになった小学生のときだったと思う。

児童書を書いている「おとな」は、小学生の気持ちも分かるんだ。なんてすごいんだろう。

そう思ったあの日のことを私はずっと覚えている。

それから年齢が上がるにつれ、本だけではなく、個人が書いたブログやtwitterでの短い文章が私の中にどんどん蓄積されていった。

自分の容姿や体型に悩んだ時。

好きな子に告白しようか迷った時。

自己嫌悪で潰れそうになって、夜遅くまで眠れなかった時。

父親と衝突して、私の存在を否定する言葉を浴びたとき。

私はそんな苦しさの海を泳ぐたびに、誰かの文章に頼った。私は彼らに励まされ、慰められ、許容されてきた。

本を出すようなプロでなくとも、世の中にはこんなに人を揺さぶる文章を書ける人がいるのだという驚き。

私のために書いた文章かと錯覚するような、大げさな言い方をすれば天啓のような言葉がネットの海には広がっていた。

それに簡単にアクセスできる時代に生まれて良かったと、一人暮らしのベッドの上で、私は何度思ったか分からない。

自然と「自分も書いてみたい」という気持ちが膨らんでいく。
けれど、自信を持って発信できる文章は書けないまま、20代を終えてしまった。

そんな私だったが、ある日から「書ける」ようになったのだ。

「書く」ために大事な要素って、なんだろう


どうして私が「書ける」ようになったのか。それを考えたとき、大きく3つの理由がある。

1.「物事に対する持論」が生まれた


エッセイでも小説でも、文章を書くためには持論が必要だ。

「持論」というのは、要するに自分が持つ、世の中全般に対する腹のくくり方だと思う。

私が文章を書けなかったのは、社会や物事に対して自分なりの考えや答えそれが自分のなかで上手く導き出せなかったから。

他人が自分にどう口出ししようが、理不尽な場面に遭遇しようが、『「私は」こう考える。』という揺るぎない自分。

文章を書くためには、自分なりの一本軸を持つ必要があるのだ。軸がぶれていると、文章もぶれてしまう。

「自己肯定感」とも言えるだろうか。 

元々私は、自分に自信が無かった。子どもの頃から、真面目に話していても、友達に笑われることが多かった。

多分、人よりもペースが遅く、「ズレている」からだと思う。それは今でも変わっていない。

話していても共感されるよりも「ええっ?」と驚かれて笑われることが多く、いつしか私は自分の気持ちをまっすぐに吐き出すことが怖くなった。

自分の感情を笑われることが怖かったのだ。

そんな私も、ようやく「腹をくくる」ことができた。

それは就職して、仕事をしていく中で、人との衝突が避けて通れなかったからだ。

同じ職場の人や電話やメールでしかやりとりしないような関係者と、時には協力し、時には対峙しながら、何とか仕事をこなしていかなければならない。

仕事上での悔しい思いも、学生の頃よりも深くて暗い人間関係のドロドロも、繊細すぎる自分のままでは太刀打ちできず、アップデートせざるを得なかった。

今でも時々傷つきはするけれど、人に笑われても、以前よりは動じなくなってきた。結局、人は経験を重ねると少し鈍くなる。

それは「感受性を失う」ということではく、生きやすい道を自分で作り上げることだと、私は思う。

2.方法論を学んだ


昨年からオンラインのライティングスクールに加入している。その時に、伝わる文章を書く方法論を学んだ。

今まで何万と読んだであろう、Web記事の仕組みを知ることは面白い。そして、「読まれる」為の方法を、筆者はその文章に練りこんでいるのだということを初めて知った。

習い事でも、最初は物事の「型」の習得から入るように、文章にも同じように構成の「型」があり、それに沿えば我ながらすっきりとした記事を作ることができた。

書き上げた後の「これで通じるのかな…」という疑念も解消されてきた。やはり基礎は大事である。

3.読者からのリアクションをもらった


スクールに加入すると、講師の方や同じ受講生の方から感想をもらえるようになった。それが「書ける」ようになった一番大きな理由だ。

スクールでは毎月添削課題を提出する。課題を提出するたびに、添削者の方から嬉しいコメントを頂くことができた。

「私の文章って、褒められるものだったんだ…」

勿論、添削者の方が大変褒め上手だというポイントはあるけれど、私は自分が書いた文章で、人からポジティブなリアクションをもらったのがその時が初めてだった。

同じように、受講生の方からのコメントは、何だかもっと身近な読者の方からの感想のようで、私を更に嬉しくさせた。

そこから私は、急速に書くことが楽しくなっていった。

もっと「面白い」って思ってもらえるものを書きたい。感想を頂ける度に、そんな気持ちに繋がっていく。

一人で書くことに悩んでいるときは、誰かに文章のコメントをもらえるように工夫したらいいのかもしれない。

嬉しい言葉がモチベーションに繋がったり、目からウロコが落ちるようなアドバイスで新たなアイデアが浮かんだり。

読者からのリアクションを受けて、より書くことが楽しく、スムーズに書けるようになれる。

結局、文章は「人に読まれてなんぼ」。自己満足で書いた記事でも、どこかで「誰かに読んでほしい」と思っていることがほとんどだ。

「読んでほしい」ならば、読み手に意識を向ける。その大切さを心から実感している(気を抜くと未だに自己満足になってしまうけれど…)

人生のタイミング


先日、noteでこんな記事を読んだ。

タイトル通り、「ただの憧れか、そうではないのかは当人の行動ではっきりと見える」という内容。大学時代の自分を思い出すとやや耳が痛い。

大学教員8年目やってるとワナビーとモノづくり好きの区別がつくようになってくる→「へえ,〇〇がやりたくて大学に入ってきたんだ,でなんで今まではやってないの?」(次週)「え,どうして今週できなかったの?」|落合陽一|note

「やりたいならやればいい」「やってないならそれは本気じゃない」

SNSでは、そんな言説が至るところで誰かを煽り立てている。

それはある意味では残酷だが真実だ。20代の時の私は絶望した気持ちでその言葉を飲み込んでいた。

行動しなきゃ、とにかく書かなきゃ。

頭では分かっているのに、中々文章が自分のなかで生まれてこない。「なんてつまらない人間なんだろう」と自己嫌悪に陥っていた。

あれから10年経った今。私は少しずつだけど「書く」ことができるようになった。

仕事で疲れて帰ってきても、空いた時間は記事の執筆に費やすような、そんな生活を送っている。

人生にはタイミングというものがある。その時が来るまで、情熱や好きという気持ちだけを絶やさないように、その火に薪をくべ続けていればいい。

自分の「やりたい」という気持ちが芽生えている時と、それが「できる」ようになる時は、必ずしも重なるとは限らない。

気持ちだけが空回りして、中々行動に踏み出せないこともある。頭の中だけでどんどん大きくなって、終わってしまう自分にむなしくなる時もあるかもしれない。

けれど、自然と自分の中でピースが嵌まる時はくる。いつか、何かを生み出せる自分に出会える。

私は自分が書く記事も小説もまだまだだということを知っている。

けれど、未来の自分が納得のいくものを掴める日が来るのを信じている。

昔の自分を救ってくれたような文章を、私もいつかは書いてみたい。

そんな憧れを追いかけて、私は今日もまた文章を書く。

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