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政治(歴史)講座ⅴ384「戦艦ミズーリと神風特攻機。 涙が止まらないお話」

撮影者:田村 司


 日本人にとっては涙が止まらない話がある。それは1機の神風特攻機が祖国を守るために命をなげうったことです。それと敵である戦艦ミズーリの艦長の計らいで丁重に弔われた事である。

1945年(昭和20年)4月11日、1機の神風特攻機が上記の戦艦ミズーリに向けて突入、右舷船尾付近に衝突した。右舷にがその追突跡が残っている。当時の館長はその神風特攻機の操縦者を正式に(旭日旗に包んで)水葬式を全鑑を上げて実施し、武勲を称えた。

(写真は特攻機が衝突する直前に撮られたもの。)

特攻機が積んでいたはずの爆弾は、それまでにすで投下されていたためか、爆発することはありませんでしたが辺り一面は炎に包まれました。乗員たちによってその火もすぐに消し止められました。火災の後、乗員たちがデッキの上で発見したのは、この特攻隊員のご遺体でした。勇敢に自分の使命を全うしたその行為に敬意を表し、艦長は水葬を行う命令を出した。水兵たちは日本の軍艦旗を徹夜で縫い上げ準備をし、翌朝多くの乗員が参加して水葬が行われ、ご遺体は海に静かに戻されました。
 具体的には、特攻攻撃で激突し、零戦のキャノピーを突き破って上半身だけミズーリの艦上に飛び込んできた石野二飛曹を、ウィリアム・キャラハン艦長祖国を守る勇敢な軍人として、五発の弔銃で弔い水葬にしたそうです。

敵艦に突入し氏名が判明した神風特攻隊員

平成14年10月 8日

ミズーリ突入

昭和20年四月11日喜界島南方で戦艦ミズーリ(USS Missouri BB-63)の右舷後部に突入した特攻機は機体の型式および突入時刻から下記石野少尉、または石井少尉と判定される。神風特別攻撃隊神雷部隊第五建武隊(隊長矢口重寿中尉)の零戦五二丙型16機が同日1215鹿屋基地より発進し13機が突入した。その第四班より「1439敵見ユ」「1441敵機発見」と打電。(突入発信はない)ミズーリの日誌には「1446二機目接近」と記録されている。他の同日出撃した各隊各機は1334-1410の間に別の海域で突入を終えていた。
石野節雄 二等飛行兵曹(当時)  乙(特)飛 19歳 岡山県和気町  没後少尉 四班第4番機
石井兼吉 二等飛行兵曹(当時)  乙(特)飛 22歳 千葉県松戸市 没後少尉  四班第3番機
 ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン大佐は翌日、乗員大半の反対を押切り、ただ1人の遺体に対して水葬礼をおこなった。
その五六年後の平成13年4月12日、真珠湾ミズーリ艦上の神風機突入の損傷が残る後甲板で、第五建武隊遺族および米海軍軍人のキャラバン艦長長男ほか日米双方が参列し、儀仗兵が弔銃を発射して追悼式が施行された。
調査者
①エドウィン・カワハラ氏 (ハワイ在住二世)
②佐藤健輔氏(ハワイ在住、元・戦艦武蔵乗組水兵)
③可知 晃氏       (藤沢市在住)
ミズーリに特攻機が超低空で接近し命中、白煙次いで爆発の黒煙があがる光景を撮影した16ミリフィルムが残っている。この経緯をNHKが「神風特攻隊・ミズーリ突入の軌跡」として平成13年8月3日衛星第一放送で放映した。

My opinion

宗教などの違いがあれど、人間としての弔いの精神に感動・感激した。
観光旅行にハワイに行ったら、常夏の行楽地に浮かれることなく、日本兵が生死をかけて戦い命を落としたことを知るべきであろう。
パラオ諸島にも3年前に行ったが、そこにも、日本兵の英霊が眠っていた。

今の平和の礎となった英霊に改めて安らかに眠らんことを願う。

どんとはれ!


参考文献・参考資料

オアフ島パールハーバー(真珠湾)に係留されている戦艦ミズーリ記念館。第二次世界大戦下、一機の神風特攻機が戦艦ミズーリに向けて突入、右舷艦尾付近に衝突しました。 (ussmissouri.org)

海軍大尉小灘利春/敵艦に突入し氏名が判明した神風特攻隊員 (asahi-net.or.jp)

パールハーバーの戦艦ミズーリ記念館 戦争について考えられる場所 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and] (asahi.com)

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