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たかが満ち足りた世界で

一通り書き終えて読み直してみても、自分が表現しようとしていたのは果たしてこんなものだったのだろうか?

駆け出しの時と比べ、ふとしたことで疑念を抱くことが近頃増えてきている。本当にこの内容で世に放つつもりでいるのだろうか…とか。
前面に出そうとしたのは、自ら書きたかったのは、結局この記事が紡いだ文章の着地点は何を目指していたのかなどと。

今の私は物事がはっきりとしない状態のまま、おそらくこの文面を無理やりまとめようとしている。そこには一見すべてが同じ色に写るも、どこが地面なのかあるいは水面なのかすらわからなくなってきている。

初めて、もしくは再び足を踏み入れるなら、こうした文章はまず書こうとはしないだろう。

仮に人に対して「勇気」や「元気」を与えたい立場や、ひたすら数字を追い求める立場にあるとするなら当然、理解不能あるいは意味不明な言語を文字に変換して当てはめたりはしないだろう。

ある程度継続してきて見えてきたものがあれば、未だほんの少ししか見渡せていなかったり、下手したら気付かぬうちに通り過ぎてしまったものだってあるかもしれない。

そんな中でも一つの頂きに少しずつ近づいてきているという感覚が、身体中を巡り巡っている。やりきったあるいは走りきったことに対する達成感でもなく、ありふれた言葉だけでは表しきれないものたちが胸に溢れている。

そしてまた感情がよくわからない方向に進み出そうとしている。

はじめから天井に開いていた小さな穴が、気づいたらスポットライトを浴びているような大きさまでみるみる広がっている。
…なんて、柄にもない台詞を入れてみたら他の皆だけでなく、いずれ振り返る形で見直しに戻ってきた自分はどう思うだろう。

たった一言だけで伝わる人がいたりすれば、かえって何言ってんだこの人?だなんて思われるかもしれない。もしかしたら、一生分かけても理解ですら得られないのかもしれない。

「あの人は、あの時はどうしてこんな文章を書いたりしたのだろう?」と。

けれど今はそれでいいと思う。納得の有る無しなど、この瞬間だけは何もかも無力になる。意味や意図だとか、何一つ伝わらなくても構わない。
こうやって言葉を綴っていること自体が、この場所に生きているすべてなのだから。

だからここで待ってるよ、過去の自分。そして深呼吸したらまた一つ頂きを登りに行こう、今の自分。きっとそこには未来の自分が待っているかもしれないから。


最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!