往復する日々の有効期限について
日曜日の夕方、陽が沈む方角へと進んでいく電車に揺られながら、窓越しに一定の速さで流れていく景色を眺めている。
なぜ人は夕焼けを見ると、何とはなしに悲しい気持ちにさせられてしまうのだろう。同じ場所から何度同じ景色を目にしてきたが、これほどまでに心動かされるような景色はそうそうないと確信している。
だが初めて乗った時と感じた新鮮さは、今と比べてもほとんど感じられない。すっかり慣れてしまったことを、体で持って証明している。
噛みすぎてすっかりふやけてしまったビーフジャーキーを飲み込むと、すぐさまお茶の入ったペットボトルを取り出してはある程度の量を口に含む。
気づけば今のこの生活を続けて丸一年が経過した。かつて自信を掲げていた己の心も、今じゃ不安の方がすっかり勝ってしまっている。
あの時自ら選んだ道とは別に続いていたもう一つの道を選んでいたら、今頃こうして長い距離に渡って長い時間をかけて電車に揺られていることはなく、もしかしたら東京の地で留まってうまくやれていたかもしれない。
…なんて思う暇も一切なく、元に戻るはずと信じていた日常も今はすっかり遠く離れてしまった。自分にとって望まない日々がただ目の前で通り過ぎていくだけで、結局この一年間何も進歩していない。
ただ往復するだけの日々に、自分の手持ちのものもだんだん擦り切れてしまうばかりであった。何一つ取り戻すどころかかえって負の遺産が目立つようになり、今も不安が日に日に膨張していることに怯えている。
かつて旅出す前に満タンにしておいた一つの潤滑剤も少なくなり、じきに切れるのも近い。
何のための決心、何のための移動、何のためのもしも。
自らあるいは他の手で補充されることなく、このままなくなってしまったら一体私はどうやって乗り越えていけばいいのだろう。
誰かに頼るアテもなければ、自らの意志で這い上がろうとする力もだんだんなくなりつつある。
詰め替えのないボトルが空になった後、無惨に捨てられていく様を思い浮かべていた。きっと私も、誰かの役に立つことが全くの意を持ってできなくなってしまったら、こんなふうに切り捨てられてしまうのだろう。
けれどこのまま何もせずにはいたくない。何もできずに自分の人生に泥を塗り続けるようなことはしたくない。
しかしどこで踏ん切りあるいは見切りを付けるべきか、そのタイミングをうまく図ることができず悩み込んでいた。
きっと往復するだけの日々にも、いつか有効期限が切れる形で終わりを告げる日も近い。
そうなれば静かな車両に乗り込んではシートを後ろに倒し、横目で車窓を眺めている時間も、やがて不定期となって頻繁には乗れなくなるだろう。
終点が近づいてくる頃「終わりの始まり」を告げるかのように、私のスマホにある人からのLINEが入った。
それは、今も交信が途絶えたままでいる悪友と共に連んでいた、私のもう一人の友人である。
最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!