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街中で見かけた美しい女性の正体は

父親の職場では、ある一つの噂が立っていた。

私たちが住んでいる地元の街中で、黒塗りの高級車に乗りサングラスをかけた美しい女性がいる、とのことだ。
その姿を同僚の何人かはすでに見かけたそうで、未だお目にかかれてない父は悔しそうに嘆いていた。

ちなみに私の父は、綺麗な女性に目がない。

たとえば家族一緒に一台の車で行動していると、運転中に「その人」を見かけるたびに、

「あ、あそこに綺麗なお姉さんがいるぞ!」

といった具合に、鼻の下を全開まで伸ばす…わけではないが、そんな勢いでよそ見してしまうぐらいだ。その時だけ父の思考は、まるでクレヨンしんちゃんの野原しんのすけと同化しているように思える。

その後ろに座っている母には「ちゃんと前見て!」といつも怒られていた。冗談混じりとはいえ、当然といえば当然の反応だろう。いろんな意味で危ないものだ。

そんな噂話を聞きつけてから何週間ぐらいか経過したものの、父はなかなかその「美しい女性」とやらを見かけることができないままでいた。

母が買い物で留守にしている間、たまに仕事から帰ってくるの父を見かけるたびに私は、今日は例の女性を見かけた?と尋ねてみるが、

「今日もダメだったよ~。なかなか見かけないねぇ」

と、ボウズになってしまった釣り人のように語るも、あまりがっかりしておらず常に陽気でいた。

父は元からポジティブな思考の持ち主だが、ここまで見かけないとなるとそろそろ発狂してしまうのではないかと、私はある意味で少々心配になってきた。

ある日のこと、父は珍しくいつもと違う時間帯に仕事から帰ってきた。いつも通り、今日の成果はどうだった?とすっかり馴染みのある言葉をかけようした。
だがその日の父は、いつもと違う雰囲気を醸し出していた。

「この前話していたことなんだけど…」

徐に父は口を開くと神妙に話し始めた。三度目ならぬ何十回目の正直で、ようやく見かけることができたのだろうか。そして二言目を話そうと口を開けた瞬間、


「あれね、お母さんだったんだよ」


そう笑いながら、さっきまで取り繕っていたただならぬ空気を瞬く間に吹き飛ばしてしまった。何気なく聞いていたはずの私は、一瞬だけ思考が止まったと同時に、口に頬張ろうとしていた煎餅を落としてしまった。

詳細を訊くと、職場にいる同級生との話で明らかになったそうだ。その同級生は父と母が通っていた高校の時からの友人で、市内有数の大型スーパーにたまたま出かけていたところ、母とばったり鉢合わせしたらしい。

我が家にはその当時、2台の車を所持していた。一つは父が仕事用で乗る白い軽トラックと、もう一つは黒塗りの「アリスト」というトヨタから発売していた大型のセダンだ。

父が仕事で軽トラに乗って出ている間、母はスーパーなどへ買い物に行く時にそれに乗って街へと出掛けている。それに母はいつも運転する際は必ず、度付きの黒いサングラスをかけていた。

冷静に考えれば、たしかにその噂されている女性と母の姿は合致していたのだ。思い返せば心当たりはいくらでもあったのに、親子共々なぜ今まで気づかなかったのだろうか。

事実にたどり着けた途端に、家の中はさながらちびまる子ちゃんのとある話の終幕のような空気が漂っていた。そして私が口に頬張るつもりだった煎餅は、今も床に虚しく転げ落ちたままだ。

こうして父が探していた「美しい女性」の正体は母だったという、まさに灯台下暗しと云うに相応しいオチで幕を閉じたのであった。

それにしても自分の妻を「美しい女性」と思い込むあたり、母に対する父の敬愛っぷりは並大抵のことでないと、当時小学生だった私は確信したのだった。



最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!