【随筆】「新宿ホーキ星」の頃
私と「底辺女性史」との関係を語っておこう。
底辺女性史、と言っても、今になってそういう名称になっているのであり、当時はそういう歴史を勉強する女性たちをふくめて、「女性解放運動」と言った。
私より少し前の世代だと、「ウーマンリブ」通称「リブ」と呼ばれた活動だ。
いや、それ以前にも、戦争直後には「女性参政権運動」、その前には、「青踏」の運動があった。つまりは「女性の権利」を主張、獲得するための活動である。フェミニズム、女性学とも言う。
私は、自らその世界に飛び込んだ訳ではない。
同じ故郷の女友達に連れて行かれたカフェが、当時「ウーマンリブの拠点」と呼ばれていた場所だったのだ。
そこは、東京の新宿二丁目にあった「新宿ホーキ星」。
その後国会議員になった、俳優の中山千夏さんと彼女を支持する女性グループが、経営するカフェだった。
カフェと言っても営業は夜のみ、メンバーの女性が交代で作る「ホーキ星ごはん」という夕食を出していた。確か700円くらいだったと思う。コジャレたカフェめしではなく、普通の家庭の夕ごはん。餃子や親子丼や豚汁や、その日のメンバーの得意料理。ビールも飲めた。
そしてここの売りは、メンバーの女性たちによるイベント。
音楽コンサートが多かったと思う。
演奏するのは、プロの女性ミュージシャン。
中山ラビさんなど、何枚もレコードを出しているアーティストが、700円くらいの格安料金で演奏していた。
その料金は、おそらくカフェの運営資金に充てられていたと思う。
カフェは二階建ての一戸建てを借りており、二階の和室がイベント会場。畳の部屋に、アーティストを中心に、客が車座になる。運よくアーティストの隣になると、膝などに気安く触れてくれたりする。マイクはなかった。
私は一度、音楽家の吉岡しげ美さんの隣の席になり、茨木のり子だったと思うが、詩の朗読をさせられたことがある。
大変に緊張したのだが、吉岡さんはたいそう褒めてくれた。
後に吉岡さんは、金子みすゞの詩に曲をつけて発表した。だから私は、ブームになるはるか前から、金子みすゞを知っており、作品(拙著『悪魔の水槽密室ーー金子みすゞ殺人事件』)にできた。
「ホーキ星」のメンバーは、各ジャンルの第一線で活躍する、いわゆるインテリの女性たちだった。
当時私が通っていた法政大学の先輩、学者や助手が四人いると聞いた。現在法政総長の田中優子氏も、千夏さんと近いところでずっと活動しているから、たぶんいらしたと思う。田中さんにホーキ星でお目にかかったことは一度もない。
大学関係者の他には、出版社の編集者、翻訳家など、出版関係者が多かった。あとはミュージシャンやアーティストなどのクリエイター。
時代の最先端にいた女性たちだ。
私はそこで、大変なカルチャーショックを受けることになる。
私の田舎では、存在しえない職業の女性たちばかりだった。
何度か足を運ぶうちに、リーダー格の女性から、
「ねぇ、ここで中国語教室やるんだけど、来ない?」
と誘われた。
私は考える前に、「はい」と返事をした。
特に中国語に興味があったわけではないのだが、とにかく毎週ホーキ星に通う理由ができた。
ホーキ星で目にするもの、耳に入る情報のすべてが、私にとって新鮮だった。そして、私にとって、とても興味深いことばかりだった。
東京に出てきたばかりの18歳の田舎娘が、はじめて触れる「都会の女性たち」の、なんと刺激的だったことか!
とはいえ、フェミニズム、女性学などというものを、時の権力が好ましく思うはずもない。
「ここの赤電話は使わないほうがいい。公安が盗聴してる可能性が高いの」
通いはじめてすぐに警告された。
私が店にいる間に、警察が来たことはない。ただ、メンバーの女性たちの何人かは、公安のブラックリストに載っていたようだ。セクトで左翼活動をしていなくとも、「女の権利」を主張すれば、おかみに監視される時代だった。
これは戦前からの風潮というか、習慣である。
男女共同参画社会などと、名目だけは男女平等をうたっていても、実態が伴っていないのは、女性ならば全員がご存じであろう。
女が集って何か悪いことを共謀しているに違いない。
というのは言い訳で、実際は、優秀な女性たちの共闘が怖かったのだ。その思想はおそらく今も変わっていないと思う。
当時の女性解放運動が主張していたのは、第一に男女同一賃金。男女平等雇用。
1986年に男女雇用機会均等法ができたことにより、一部解消された。
しかし、まったく同じ1986年に、年金の第三号被保険者制度ができた。これは、女を家庭に縛り付ける法律だ。
一方では男と同じ雇用機会を与えるとしておきながら、もう一方で専業主婦奨励。
これでは、本当の女性解放とは言えないし、女性の格差を生んだだけの政策であった。
話が逸れたが、「新宿ホーキ星」で女性活動家という人たちの存在を知った私は、積極的に彼女たちが催す集会や勉強会に足を運ぶようになる。
そこで知ったのが、「底辺を生きる女性たちの歴史」だった。
私が上京した1977年という年に、「従軍慰安婦」関連書籍の、第一次ブームというか、とにかく多くの書物が出版されている。それらを読んで、感銘するところは多かった。
そして当然のなりゆきとして、当時も今も、一番の憧れである、森崎和江という作家の作品に出会う。
『まっくら』。
筑豊の炭鉱での、炭鉱婦(夫の後ろについて石炭を拾う妻)たちの過酷な状況が、まるで映像を見るかのように、鮮やかに切り取られている。
炭鉱内で子どもを産み落とす女、急に生理になって履いていた藁草履を膣に突っ込む女…。
大昔の話ではない、昭和の、しかも九州という土地で、現実に生きた女たちの生き様が、生き生きと描かれていた。読んだのはもう40年以上も前なのに、読んだ時の感動は忘れない。
そしてもう1冊。『からゆきさん』。
外国に渡った娼婦として、「従軍慰安婦」はいろいろあって、すっかりお馴染みとなったが、そのルーツが「からゆきさん」である。
もう1冊、映画にもなった『サンダカン八番娼館』。山崎朋子著を挙げておこう。刊行は1972年。「からゆきさん」について手短に知りたい方には、映画がおすすめだ。
私が「底辺女性史」と聞いて、すぐに思いつくのは、「慰安婦」と「炭鉱婦」である。
森崎和江さんには、一度だけ講演会でお目にかかったことがある。
地味な格好をした勇ましい女性かと思いきや、明るいブルー系の小花柄のワンピースに、白いヒールのあるサンダルを履き、綺麗にお化粧された、とても美しい女性だった。
声はどちらかといえば細い、柔らかな口調で、丁寧にお話しされる方だった。
世間のイメージする「女性闘士」とは、もっともかけ離れた、でも背筋の凛とした、やはり作家だった。
慰安婦と炭鉱婦の他で、底辺女性として思い浮かべるのは「女工」だが、これは卒論に選んだ作家の佐多稲子がキャラメル工場の女工であったため。
佐多さんは小学校を中退して女工になり、そこ後カフェーの女給をしていた時に、芥川龍之介や中野重治からスカウトされたという経歴の持ち主だ。
佐多さんは当時「婦人民主クラブ」の会長職にあり、私もクラブに所属していた。瀬戸内寂聴さんら、有名作家が在籍しており、寂聴さんの話も聞いたことがある。
イベントのしんがりに登場する佐多さんの貫禄にくらべれば、あの寂聴さんですら、まだペエペエの使い走りという感であった。話の内容はまったく覚えていないが、早口でよく喋るなあ、と感じたことだけは覚えている。
婦人民主クラブに在籍してはいたが、活動にはほぼ参加していない。参加者の年齢層が高かったのが理由だ。
ホーキ星も、18歳の私は最年少であったけれど、コンサートや講座など、誰でも参加できるイベントをやっていたから、敷居が低かった。
インテリ女性が集まるというと、小難しく暗い場所のように思われるかもしれないが、新宿という土地柄もあり、何よりメンバーが綺麗でおしゃれだったから、とても華やかだった。
エコール・ド・パリ時代のサロンが実際どんな風だったかは知るすべもないが、例えるとすれば、同じような感覚だろうか。
時代の最先端を行く女性たちが夜ごと集まり、ビールを飲みながら、何時間も、あるべき女性の未来について語り合った場所ーーそれが「新宿ホーキ星」、私の原点の場所だ。
今もし、あんな場所があったとしたら……いや、あるはずもない。
1970年代後半という、頽廃していながらも、どこかでまだ未来を信じられた時代、新宿二丁目の裏道通り、娼婦が立ち、赤線跡が残っていた街角に、確かに存在した。
そして店がなくなった時も、私はそこにいた。閉店の理由は、オーナーの中山千夏さんが参議院選挙に立候補したため、と聞いている。しかし本当の理由は、女性解放運動じたいが縮小、衰退していたからかもしれないと、今にして思う。
1980年の、たぶん夏のことだったと思う。
(以上)
※お写真を勝手に使わせていただきましたyokoichi様、感謝です。
ここ数年で書きためた小説その他を、順次発表していきます。ほぼすべて無料公開の予定ですので、ご支援よろしくお願いいたします。