【随筆】わが郷愁の「南海コレクション」 ⑨
「火のような人」
『南海コレクション』のコレクターである緒方保之院長を知る人が、先生の印象を表現する時に、必ず使う言葉だ。
まさに「火のような人」だったと、私も思う。
ただし、普段は物静かで、ダンディな紳士。
俳優の宇野重吉に、風貌も喋り方も声も、よく似ていた。
が、ひとたび怒ると、まさに烈火のごとく、である。
そういう場面に、二度遭遇した。
一度めは、直接私に関わる出来事だ。
高校生の頃から、生理痛が酷かった。大学に入ってからも治る気配はなく、当時住んでいた東京中野の公立病院の産婦人科に行った。
医師は白いゴム手袋でおもむろに診察した後に、
「嫁入り前の娘が来るところではない。結婚してから来なさい」
と言い、薬も何もくれなかった。
私は、何だかものすごく恥ずかしい、悪いことをしたような気分になり、佐伯に帰省すると、そのことを緒方先生にグチった。
するといきなり先生が立ち上がり、隣の秘書室のドアを開け、秘書さんに向かって、
「中野○○病院の**という医者をここに呼べ!!」
と、大声で怒鳴った。
秘書の方は慌てふためいて、東京に電話をかけた。そして、
「遠くて来られないと言っています…」
まあ、当然である。
「だったら、電話口にその医者を呼び出せ!!」
秘書室で秘書さんはアタフタしている。
「今日は土曜日で、病院はお休みだそうです…」
「ああ、そうか」
休みではしかたがない。
緒方先生は私に向かい、
「月曜日にまた、電話してあげるからね」
と、いつもの優しい声で言った。
月曜日に再び院長室を訪れた。
先生は別の仕事をしていたが、私の顔を見るなり、「あ、そうだった」と、土曜日のことを思い出した。
私はまさか、自分ごときの些細なことを覚えているはずはないと思っていたので、驚いた。
それからすぐに秘書の方に、東京の病院に電話させた。
くだんの医師を呼び出すと、いきなり電話口に向かって大声で叫んだ。
「人間ひとり、殺す気か?!!」
うわっ! 身が縮んだ。
電話の向こうの医師は、抵抗しているようだった。自己弁護を続けているふうなやり取りをしていた。
一時間も押し問答が続いた。
(先生もうやめて、もういいから…)
と止めたくなるくらい、凄まじい剣幕だった。
高級ソファに座っているお尻が、ふわっと浮き上がりそうな気分だった。
先生は怒鳴り続け、結局向こうが折れたらしく、電話を切った。
でも、先生の怒りは鎮まらない。
そして、言った。
「言葉で、人を殺せるんだよ」
この言葉は、その後も強く私の心に残ることになる。
先生は、好きなギリシア哲学、特にプラトンの話をたくさん教えてくれたけれど、どんな偉い哲学者の言葉より、この時の先生の言葉は、私の人生に影響を与えたと、今も思っている。
私の今の職業は小説家であるが、自分の言葉で、誰ひとり傷つけてはならないと、それだけは常に心している。
※本稿は次回でラストです。
なぜ私が『南海コレクション』に関わるのか?
そもそも、なぜ『南海コレクション』は存在するのか?
の謎について、明らかにしたいと思います。
ここ数年で書きためた小説その他を、順次発表していきます。ほぼすべて無料公開の予定ですので、ご支援よろしくお願いいたします。