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【随筆】わが郷愁の「南海コレクション」 ⑦

 当時、南海病院の1階左手に、小さなカフェがあった。

 その頃、佐伯の町にあったのは喫茶店であるが、南海病院のそれは、院長の趣味を反映し、銀座並木通りにあるような、小洒落たカフェだった。

 焦げ茶色の籐のテーブルセットがいくつか、周囲に背の高い観葉植物が並んでいた記憶がある。

 前にも書いたとおり、私は院内を歩き回るのを禁止されていたから、そのカフェに入ったのは一度だけ。
 私の母、院長秘書のごく若い女性、緒方院長、私の四人で、一つのテーブルについた。

「今日は僕がうどんをご馳走してあげよう」

 母のいつもの話し方長くなり、緒方先生はいかにもその話から逃れたい、という風情だった。

 私が度々、院長室に遊びに行っているのを嗅ぎつけた母が、その頃一緒についてくることがあった。

 むろん母も病気ではない。

 先生に話を聞いてもらうのが目的だった。

 とうに現役医師を辞めていた先生はよく、佐伯市民たちの相談にのっていた。

 のちに裁判所の調停委員になったくらい、面倒見のよい人で、とにかく話を根気強く聞いてくれるのだ。

 白衣を着たことがない先生は、外科医というより、精神科医のようだったと、今にして思う。

 母の悩みはいつも同じで、夫ーーつまりは私の父の浮気。

 娘の前であろうがお構いなし、というよりむしろ、私一人に率先して話していた。

 自分を苦しめるのは、あんたの父親なんだから、あんたが責任取れ。

 そういう歪んだ論理が、生涯母から抜けなかった。

 しかし、緒方先生はしごく常識的な人であり、教育者でもあったから、横で母の話を聞いている私に対しての気の遣いようは、並みの男性では決してできない対応であった。

 私が鼻をぐずぐず言わせると、ガラステーブルの下段にあるティッシュの箱を、そっとこちらに押し出してくれる。

 おなかがグーッと鳴ると、テーブルのチップスターのお皿を私の前に寄せてくれる。

 私も半世紀を超えるほど長く生きてきたが、緒方先生ほど気の回る、優しい男性に会ったことは、ない。

 先生を知る人は、豪快な人だった、とよく言う。

 確かに、億単位のピカソをポンとキャッシュで買ってのける、豪放磊落な人であった。

 が、それ以上に、繊細で、思いやりのある人であった。

 ことに私には、優しさのかたまり。

 それ以外の言葉は思いつかない。

 そういう経緯で、カフェに四人で収まった。

「僕はうどんが好きでね、ここにはうどんを置いてもらっているんだ。九州のうどんとは違って、讃岐風だよ」

 と自慢げに言ったうどんには、油揚げとワカメが入っていたと思う。

 その日先生は、いつになくご機嫌だった。

 私たちがズルズルとうどんを啜り上げるそばから、半ば叫ぶように言った。

「玄関にあるの、ヴラマンク! ○○○○万!!」

 あまりにも嬉しくて、隠していられない、という風情だった。

 指を、ヴラマンクが飾ってある、病院玄関のほうに向けた。

 が、話す相手が相手だから、誰も反応せず、ひたすらうどんを啜るのみ。

(先生、ずいぶん頑張ったのねぇ。いつもはゼロが一つ少ないのに)

 私もうどんを啜りながら、思った。

 先生は、私には絵の値段を教えてくれていた。

 なぜなら、私の口から、外に漏れることはあり得ないからだ。

 私は当時、ほとんど喋れない、今で言うと、心因性の発声障害というか、とにかく人と話せない状態にあったのを、先生は知っていた。

 そして、これは想像であるが、私が人にペラペラ喋る性格でないことも、わかっていた。

 大変に図々しい言い方をさせていただくならば、私を信用してくれていたのではないかと、思う。

 私自身はもちろん、先生を誰よりも、親よりも、信用していた。

 ほとんど、べったり、と言ってもいいくらいだった。

 最初に書いたとおり、私は今の今まで、緒方先生から聞いた話はもちろんのこと、院長室に通っていたこと、院長先生と付き合いがあったことすら、誰にも話したことはない。

 先生の絵が有名になり、しかもあろうことか、瀕死の状態に晒されていなければ、生涯話すことはなかった、青春の秘密である。

ここ数年で書きためた小説その他を、順次発表していきます。ほぼすべて無料公開の予定ですので、ご支援よろしくお願いいたします。