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わくわくした予兆に気づく言葉と出会う『別府』

久しぶりの別府で出会った『別府』という本。

別府
芹沢高志 著

別府

https://p3.org/news/n57wyw3zbz/

著者の芹沢さんともたまたま同じ日、同じ旅館に泊まってて、
なんと明日はセッションがあるという。
これはもう、"たまたま"という今、出会うべくして出会った縁という名の本。

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鏡になってくれる場所

この街はまるで湯の上に浮かんでいるようだ。
湯の上に、過去と現在と未来のかけらが混在し、
多種多様な人々が生き続ける。
『別府』P29
私は別府で三年ごとに開催される『混浴温泉世界』という芸術祭の、
総合ディレクターを務めている。
なにをしているのかと言えば、
アートやダンスの専門のディレクターと協力して全体の中身を決め、
プロデューサーと歩調を合わせてその構想を実現させる。
そんな仕事があるのかと不思議に思うかもしれないが、
オーケストラの指揮者とか映画の監督のことを頭に浮かべてもらえばいい。
こう書けば、なにか重要な仕事にも聞こえるが、
それが正直な話、自分でもよくわからないのだ。
(同著 P25)
私はフェスティバルの二回目をつくらねばならなかったが、
実を言えば、なにをしていいのか、よくわからなかった。
(同著 P32)
要するに、私は道に迷っていた。
だからこうして、ひとり別府にやってきたのだ。
なにかを捜しに......。
しかし、厄介なことに、捜しものがなんなのか、
それさえわからなかった。
(同著 P33)

という赤裸々な吐露と共に物語は進んでいく。
・・・”物語”?

この句はいいなあ......。
人間と樹木の関係を考えさせる。
(同著 P69)
あれっ、クロノじゃないか?
いや、クロノのわけはない。彼女は30年前に死んでいる。
しかし、こいつはクロノだと思う。
クロノと呼ぶと、そのネコはニャアと応える。
(同著 P71)
「それで、今度はなにしに来たの?」
「きみの顔を見に」
「ただの酔っ払いね」
(同著 P79)
待ち合わせの亀の井ホテル一階のジョイフルに行くと、
すでに藤田洋三は座っている。
彼と会うのはいつもここだ。
(同著 P105)

芹沢さんは「混浴温泉世界」のコンセプトブックとして本を書くことになったと言っていたが、
この本の主人公は芸術祭であるような、ないような、
別府が舞台の芸術祭を前にして足掻く姿こそ愛おしい、
芹沢さんの私小説のようでもあり、
どこか異世界の物語のようでもある。

別府に行ってみたくなるほど繊細な土地の描写に、
登場人物の存在も、交わされる会話もリアルなのに、
どこか夢のような世界にいる感じがある。

芹沢さんの生きている世界が映画のワンシーン・本の一節と重なり、
"出来事"と記憶と思考と、あらゆる世界を行き来する。

魔法にかけられる一瞬というものは、たしかにある。
人に頼まれたわけでもなく、こんな世界を生み出し続ける人がここにいる。
私はこのとき、別府に引きずりこまれた。
(同著 P104)
映画は私を虜にする。
しかし映画は私の手法ではない。
私は世界をつくりたくはない。
私は世界を生きたいだけだ。
映画にないものはなにか?
この世界にはあって、映画にないものはなんだろう?
(同著 P133-134)
しかし、私はなんでこんなことをあれこれ考えているのだろう?
(同著 P179)
別府。
湯の上に浮かぶ魔術的な港町。
あまりの美しさに、一瞬、この眺めは鶴見岳の夢ではないのかと思えた。
数十億年の時のなかで、火男、火女の両神が見る、うたかたの夢ではないのかと。
(同著 P184)
次に別府は、私に何をさせるのだろう?
(同著 P184)

人との出会い、
土地との出会い、
記憶との出会い。

過去と現在を行ったり来たり、
幻想と現実を行ったり来たり。

自問自答を繰り返しながら、
新たな予兆を感知しながら、
いつの間にか本書は終わりを迎える。

目次もなければ「まえがき」も「あとがき」もない。

この本を読んでいると、
私たちは束の間の夢の世界を生きているという現実に気づかされる。

思い馳せればいつでもどこでも行ける自由自在な思考の世界と、
今、このとき、ここでしか出会えない
場所があり、
人があり、
言葉があり、
今、このとき、ここでしか気づけない
予兆がある。

”今”という時間はどんどん未来へ進み、
”今”という時間はどんどん過去になっていく。
そんな永遠の”今”という時間を生きている私たち。

何とも不思議な心地が残る本。

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言葉を知ることで気づけることがある

彼女は予兆を求めて土地を歩く。
人の話を聞き、かすかな音や匂いや地形の変化を追い、
傾きかけた古い民家や穏やかに曲がりくねった小道に目を向ける。
古書や古地図など、膨大な文献から得た知識を総動員し、
時間軸に並べられた複数の地図の上に、今感じることの世界を重ねあわせ、
目には見えないなにかを見るために彷徨い歩く。
(同著 P144)
対象は違うし、厳密さも違うが、彼女のやり方は私のやり方に似ていなくもない。
見えるものと見えないもの、
嘘と本当、
過去と現在、
現在と未来を頻繁に行き来する。
そしてなによりも、まず第一に歩くのだ。
(同著 P144)

私はいつも、いろんな人と出会い、いろんなことを教わる。

ただその時は、
すぐに気づけない、
そうだと思えない、
そもそもよくわからない、
理解できないことの方が多くある。

そんなとき私は、本に呼ばれる。

何とはなしに目につく本を手に取って、
本を通して言葉を知る。

「私は今何を感じてるかな?」
と自分の心に寄り添ってみたり、

「著者は何を一番伝えたいのかな?」
と著者の願いに心馳せてみたり、

「私はなんで今この本を読んでるんだろう?」
と客観的に自分を見つめてみたり。

著者の言葉を借りながら自分の心と話し合う。

いろんな思いがふわふわ〜ころころ〜と現れては消えていくのだけれど、
一度出会った言葉たちは、
私の記憶と体験と感性たちと結びつき、
確信ある言葉というかたちになって、
ふとした瞬間に内から飛び出てくる。

言葉を知ることで気づけることがある。
その感覚が楽しくて、
私は人と出会い、本を読む。

日常は予兆に満ちあふれるが、
それらは取り立てて神々しいものでもないし、
われわれを神秘に誘ってくれるわけでもない。
(同著 P173)
繰り返される予兆はあまりにも安っぽいが、
それに気づけば、日常は驚きの連続となる。
しかし、予兆に気づくのは難しい。
(同著 P173)
繰り返し現れるサインにしても、デジャヴュのような確かさはなく、
些細で微妙で曖昧な、うっすらとしたものに過ぎない。
それにどうやって気づくのか?
あるいは気づかないのか?
(同著 P173)

いつもいつでもエールを送ってくれている存在は確かにあって、
必要なメッセージはいつもいつでも世界に満ちあふれているのだけれど、
それに気づけるか、気づけないか、
それを受け取れるか、受け取れないか、
それを受け取りたいと望むか、望まないかは自分次第。

言葉を知ることで気づけることがある。
言葉を知らないと気づけないことがある。

そう思うと、
言葉を知ることは新たな予兆に気づくための出発点で、
私が尽くせる努力のひとつなのかもしれないな、とも思う。

美しいなあと感じる言葉に出会うほど、
わくわくした予兆を感じる機会は増えていく。

だから私はこれからも、
微かな予兆に気づけるように、
人と出会い、本を読み、言葉を知る。
わくわくした予兆を信じて突き進む。

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新たな予兆を感じとる

本書を読んでいると「人はその人が考えている通りの存在である」という真理の言葉を思い出す。

そうか。
この『別府』という本は2020年11月の「芹沢高志」氏なんだ。
生身の人間のリアルな思考が、
著者の記憶と表現で編集された魔術がかった本。

タイトルを『別府』とした時点で、
別府の持つ魔術を纏ってしまったのかもしれない。

冷静で情熱的な文章を通して、
美しいなあと感じる言葉に出会える、
新たな予兆を感じとるのにおすすめな一冊です。

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