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リトルプレスなるものを作ってみる

皆さんは「リトルプレス」「ZINE」なるものをご存知だろうか。
いわゆる同人誌のことで、一個人や団体が自らの手で制作した少部数発行の出版物本のことである。

出版社が企画制作する書籍とは違い、発行や販売までを行うこと多い「自費出版」のことを現代風に、もう少しオシャレに、ファッション的に読み替えた、今流行りの出版方法の名称なのです。

はじめてのリトルプレス共同編集部、「はじめてのリトルプレス」、https://www.otegarushuppan.com/lp/littlepress/、 「How To Make "little press"?」

同語として用いられる"Zine"も同様、Maga'zine'には収まり切らないような小さなトピック、個人的な表現方法を散りばめていくというのがこれら同人誌の特徴なのだそうだ。

ただし同じ本とはいえ、通常の運輸システムには組み込まれずリトルプレスを利用した商業活動は一般的ではない。
主に自己紹介、自己表現の場、名刺代わりなどとして用いられているという。



なぜ今、同人誌を?

作り生み出す高揚感

コミケだとかオタク文化だとかでよく耳にする「同人誌」には、全く縁のない人生だった。
そういった即売会には行ったことがないし、読んでいる/書いている人間は身の回りにはおそらくいなかった。

つまり答えを言ってしまえば、私は常にどこか「作り手側」にいたかったのである。
今まで常に読者であり続けた読書体験というパフォーマンスを、あるいは作文は嫌いだと言って逃げて回ってきたようなかの地獄の授業空間を、20歳になった今でもどこかにひきづって回っているような気がしている。

自分でも作品ってつくれるんだ…!と少し客観した喜ばしさと高揚感が、またnoteの一作品を描き終わった感覚として浮き上がってきたりもする。

そんな感覚を得るための手段として、一つ。

物理的証拠を以て死に様を示す

今日までの数週間で、これは真似をしたいと思うようなことをしている人に出会ったのがもう一つの理由である。

1人は大学院の先輩で、最近新しく旅行会社のビジネスを始めたという。その彼女が会社のホームページを見せてくれた時に「一つこれ、だと他人に見せられるようなものをホームページでもブログでもいいから作っておくといい」とのことだった。
当時私はnoteをもう始めてしまっていたし、インスタやTwitterなどのSNSはとっくに汚染されていて今更新しく「私」をプロデュースしていく暇はなかったので断念。

でも心のどこかにはまだやりたいという気持ちがあった。
その半分以上が「新しいプラットフォームを始めることのデザイン」に気力をもっていかれそうだ、という精神的な理由もある。
大体いつも、こういう新しいことを始めるのは大好きなのだ。
企画を練ったりデザインを1から考えたり。でも1人でそれを回していくとなると、しょうもないエネルギーに燃費不良でチリとなった年末の時間が残る。
となれば、少し気持ちの整理がついたりちょうどいいタイミングが回ってくるのを待ったりするのがいいんじゃないのか、となって、結果今日に至る。

こうして書き連ねてはいるが、結局書くことになったんじゃないか、言い訳じゃないかと思う側面も度々ある。ただしそこに至るまでにこのような気持ちがあったのだとどこかに書き連ねておくことは意外と大事で、でなければ人生は意外にも平衡感覚を保ったまま進んで行ってしまうんじゃないのかなあ。


次に会ったのは数ヶ月前に知り合ったばかりの大学の違う知り合いで、高校の同級生同士で地域の中の同人誌を定期的に作っているような仲だった。
自分たち共通の経験を議題を決めてまとめたり、彼ら共通の課題を地域と政策全体に疑問提起したり、とまあとにかく熱量と活気があって面白かった。

なんだか、ものすごく面白かった。
いろいろ聴いているうちに、これだ!と思った。

しかし彼らの同人誌にはもちろん理念もあり、実行委員会と実行できる場所と印刷所が関わっているような、大学生にしてはなかなかに大規模なプロジェクトだ。あいにく私にはそんなものは何一つない。
一緒に同じ雑誌を作り上げるような熱量のある人物と、それを続けていくことのできる気力と、〇〇プロジェクト、程度の名前は欲しい。
そんななか、たったの1人だけ気骨のあるやつがいたのだ。私である。
このプロジェクトを今やらないで、自分には一体どの何に対するエネルギーが残っているのだろう?という漠然として誰の何の解決にもならない不安感を持ち続けていくのであれば、この瞬間に「えいや!」と挑戦してみちゃってもいいんじゃないのか。

とまあこのような気持ちの変化が、ここ2週間の近況。
そしていよいよ書き始めるか、となったのが、ここ2日間の近況。

何を語るか

noteの整理

ノート好きな女子とか、文具女子って「ノート買いがち」「手帳買いがち」なイメージがある。
それはそれとしてもちろんいいんだけど。
ただし、私はすでにある手帳やノートの役割を振り切ってから次の手帳に新しく手を伸ばしたいタイプだ。だから新しくつくることになるであろうリトルプレスも今回のnoteも混同したくはないし、どちらも同じようなことを言っているそれっぽい媒体、にはなりたくはないのだ、絶対。

このnoteというプラットフォームでは私がその時その時思ったことをぐだぐだと書き連ねている。文字数も期間も何も決まっていない。
ということでこのリトルプラスでは、文字数やページ数は設けるとしても本全体の大きなテーマ設定をしてから一つずつの章を書いていこうと思っている。
たとえばこないだ1週間のうちに体験した3つのイベントについて。
そのテーマの移住について、観光について、モビリティについて。
あるいは社会問題について。もしかしたら小説なんかも書くかもしれない。

この場で文章をわずかながらに書いてきて、エッセイ文の難しさを改めて思い知らされたように思う。
ひたすら画面に文字を入力しているうちに、この自己を限界まで曝け出した文章の需要などあるのだろうかと悩み始めてしまう。
出版業界にいる以上紙媒体の文字列を販売することの葛藤からは逃げられないのだろうが、私はそれにしたって、どこへ行ったって「文字を書き続けること」の半ば自己満足的な虚栄心との葛藤から逃げられないのだなあと思ったりもする。
そんな思いも含めて、何か一つの刊行物にでもなればいいなと思う。

それで結局、何がしたいの

私がnoteを書き始めた当初から繰り返している言葉がある。

私の生み出す言葉は全て遺書であり、死ぬ気で、死ぬために書き綴らねばならない。

前々節のタイトルに書いてしまったきり触れてはいないのだが、私には文章を書くということに並々ならぬ熱量を持っていたりもする。齧り尽くすように本を読み散らかす自分ならではの礼儀作法だ。
自分の考えること、思考そのものは単なる電気刺激の作用にすぎない。それはどうしたって私の頭の外を飛び越えることは不可能だし、誰も、何も思考のありようを見ることがあってはならない。
だからこそ言葉や文字というもので紡いできた人間の歴史があるのではないだろうか。
このための思考、自分の「アタマ」なのだと生きていける意味を与えらえたように嬉しくなる。

だからこそ、文字列にして書き表さない限りは私は永遠にこの世のどこにも存在しないのと同義であり、自分の存在証明と存在意義のために文字を書き続けるのだ。

これが、私が文字を書くときの強いスピリットである。
では今回のリトルプレスでは。
この頭の働きをもっともっと加速化させて、論文を仕上げるレベルにまで追い込んでいきたいと思っている。
今の私の文章はただ口先ばかり反抗しもっともらしいことを述べ立てている小娘にすぎない。きちんと自分の文章に向き合ってもらうには、それだけ他人の文章に向き合って考えた上で、先人たちの語りを引き受けなければならないのだろう。
私には、文章を書くということはすなわち、そのレベルの膨大な使命が課せらえれているのだと思わざるをえない。


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