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「学校」という"母性のユートピア"あるいは"ディストピア"―②示された改善の方向性、そしてソリューション。一方学校は・・・。

学校教育を時代に合ったものに

停滞する日本社会。時代に合った力を持った人材を育てられない学校教育。当然、国もこの現状を知っている。
文部科学省は、この現状を打開するために新たな学校教育の方針を打ち出した。
2017年3月、学校が各教科で扱う内容を定めた学習指導要領が改定された。これは戦後9度目の改訂となる。以下、新しい学習指導要領の内容を見ていこう。

まず、学習指導要領が示す方針について。
学校には、児童・生徒の「学力を伸ばす」という目的がある。今回の学習指導要領の改訂は、その「学力」の中身を問い直すことからはじまった。
では、「学力」とは一体何なのだろうか。

これまで学力は、領域ごとに区分された「知識の体系」であるとみなされていた。つまり、社会科なら社会科、理科なら理科と分野ごとの固有の知識を身につけるということが、「学力をつける」ことだと考えられていた、ということだ。「その分野についてたくさんのことを知っている」ということが、旧来の学力観における「学力が高い」ということになっていたのだ。
では、今「学力」はどのように考えられているのだろうか。
現在における「学力」のグローバルスタンダードは、領域ごとに区分された「知識の体系」ではなく、それらの知識や技能を活用して「何ができるか」、より詳細には「どのような問題解決を現に成し遂げるか」という汎用的な資質・能力の体系と考えられているのだ(『「資質・能力」と学びのメカニズム』奈須正裕 2017年)。
簡単に言ってしまえば、「知る」から「できる」へ。ただ単に知っているということではなく、その知識を生かして日常を豊かに変えていくこと、学力の捉え方はこのように変化した。
インターネットの発達によって、今や知識を持っていることに大した価値はなくなった。もちろん、仕事における暗記の効力まだまだ健在だ。だが、変化のスピードが速く、かつイノベーションが求められる社会で必要なことは、その知識を使いこなしたり、ときには知識の全くない領域に対して自らの思考力をフルに使ったり同僚とのコミュニケーションによって課題を発見し解決することであることは、読者の多くも実感していることなのではないだろうか。

ちなみに、このような学力観の変化が起こった土台には、実際に日々現場で問題解決を行なう「熟練者」を観察したり、人間の認知に関する研究をすることで深まった「知識」についての体系的な理解がある。
今回の学習指導要領の改訂では、このような学力観の変化を踏まえ、学校教育の目的が
「子供たちが未来社会を切り開くための資質・能力を一層確実に育成する」(『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』p2 文部科学省 2018年 太字は筆者による補足)と定義された(*②-1)。
確かに改革のスピードは遅いかもしれないが、文科省も日本の学校教育を時代に合った方向に進めようとしているのだ。

ここまで確認してきたように、これからの学校教育のキーワードは「資質・能力」だ。では、学校がその教育活動をとおして育成を図るべき「資質・能力」の中身とは一体何だろうか。
新しい学習指導要領では、「資質・能力」は以下の「三つの柱」に整理されている(太字は筆者による補足)。

ア「何を理解しているか, 何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」
イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)
ウ「どのように社会・世界と関わり, よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」

『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 総則編』p3 文部科学省 2018年

この「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」という資質・能力が「三つの柱」として学校で学ぶべき内容全般の中心に位置づけられている。「学びに向かう力・人間性等」という表現がわかりにくいが、姿勢や態度のことだと理解しても差し支えないだろう。
新学習指導要領は、これら「三つの柱」を中心として、各教科の目標と内容に細分化していくという構造になっている。
ひとつの例として、高校国語の「現代の国語」という科目から、「三つの柱」のひとつである「思考力・判断力・表現力等」に関する部分を一部抜粋する。

「目標」・・・論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力
を伸ばし, 他者との関わりの中で伝え合う力を高め,  自分の想いや考えを広げたり深めたりすることができるようにする。
「内容」・・・ア 目的や場に応じて, 実社会の中から適切な話題を決め, 様々な観点から情報を収集, 整理して, 伝え合う内容を検討すること。

『高等学校学習指導要領(平成30年告示)』(p33,34)文部科学省 2019年

例えば「目標」の「論理的に考える力」や「深く共感したり豊かに想像したりする力」は「思考力」に当たり、「他者との関わりの中で伝え合う力」は「表現力」に当たる。
「内容」は全体として、人とコミュニケーションする状況において必要となる「思考力・判断力・表現力等」の例となっている。
このように、「思考力・判断力・表現力等」という観点から、国語という教科の中で育成すべき資質・能力が定められていることが見て取れる。

ただ、実際に読んでみればわかるように、かなり抽象的な文章となっている。このような抽象的な目標と内容から具体的な授業のプランを設計するためには、教員の側にかなりの知識と経験、そしてスキルが求められるだろう(そして読解力も)。


*②-1 学習指導要領は、文部科学省のホームページからも閲覧が可能。


ここまで確認してきたように、生徒に知識を身につけさせることではなく、「資質・能力」の育成が求められているからには、従来行われてきたような授業スタイル――教師が答えを持っていて、生徒はそれを丸覚えする――では今後は通用しない。生徒たちが「資質・能力」を身につけるためには、新しい学び方・新しい授業スタイルが必要なのだ。

新しい学習指導要領は、新しい授業学び方・授業スタイルの方向性として「主体的・対話的で深い学び」が実現できるような授業を行うことを、教師に求めている。
ただ、学習指導要領を読んだだけでは、「主体的・対話的で深い学び」を実現するために具体的にどのようなスタイルで授業をしたらよいのかということは、よほど優秀な先生でないと実際のところわからないのではないだろうか。

しかし、ある教科においては、「主体的・対話的で深い学び」の具体例と考えてよい「学び方」が示されている。
その教科というのは、小学校と中学校の「総合的な学習の時間」、または高校の「総合的な探究の時間」である。
「総合的な学習(探究)の時間」というのは、特定の教科に限定されることなく、実社会の課題や自分が興味のある物事について学ぶことをとおして、「資質・能力」を鍛えていくための授業だ。
そして、学習指導要領の「総合的な学習(探究)の時間」の章において、その目標として「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という一連の流れを自ら行うことができるようになることが示されている。
この「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」の一連の流れは「探究的な学び」と呼ばれている。
これは実質的には、教員は「総合的な学習(探究)の時間」において、「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という順番で生徒が学んでいけるような授業を自分でデザインして実践してほしい、という国からの要請だ。
現在教育界においては、この「探究」という言葉がひとつのホットワードとなっている。私の実感としても、だいたい2019年頃から、主に私立の中学・高校の先生が「探究」という言葉をよく使用するようになってきたと記憶している。

だが、ほとんどの教師たちは「総合的な学習(探究)の時間」が新設され、「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という学び方が求められるということはわかったのだが、「生徒が実社会の課題解決に取り組み、それをとおして資質・能力を育てられるような授業をつくる」ということは今まで行っていなかったため、新しい学習指導要領への対応ができていない。
そのため、さまざまな教育関連の企業や団体が「総合的な学習(探究)の時間」の授業で使える教材をつくっている。大胆に改革を行い学校を変えた工藤勇一氏も著書(『学校の「当たり前」をやめた。』2018年)にて、外部のプログラムを用いて学校の学びを充実させたことを報告しているが、「総合的な学習(探究)の時間」で生徒の「資質・能力」を伸ばそうと考えている先進的な学校(本来すべての学校が取り組まなければならないのだが、現状、そのような取り組みをしている学校は先進的だと言える)は、多くの場合外部の力を借りてこういった取り組みを行っている。

学校によっては、すべて自前で新しいプログラムをつくっている、というところもあるのかもしれないが、先進的な学校の多くが外部の力を借りて何とか新学習指導要領の内容に対応しているという状況は、現在の日本の教師たちに、そのような授業を行う能力がまだ育っていないということを意味している。

ここまで学習指導要領に関する確認をしてきたが、その最後として、新しい学習指導要領が「いつ」実施されたのかを見ておきたい。
新学習指導要領の完全実施は
小学校=2020年度
中学校=2021年度
高校=2022年度の高校1年生から
である。この原稿を執筆している時点(2023年3月)で小学1年生から高校1年生、そして探究的な学びをとおして生徒に「資質・能力」を身につけさせたいと考えている”先進的な”学校の高校2・3年生が、新しい学習指導要領の内容で学んでいる。
またその内容の一部は、
小学校=2018~2019年度
中学校=2018~2020年度
高校=2019年度から
それぞれ先行実施されていた。

先行実施の期間を入れれば、2022年度までに小学校・中学校で4年間、高校で3年間の準備期間があった。
しかしながら、私は小学校の授業の状況については把握していないのだが、中学校・高校のほとんどの学校において、そして探究的な学びを実施している一部の教科以外のほとんどの教科において、従来の知識を詰め込むスタイルの授業が行われていることが実態だろう。

3~4年の移行期間の間、さらにはそれ以前から、新しい授業スタイルを実践あるいは研究している先生や研究者が書籍を刊行するなど情報発信を行っていた。勤めている学校内に先進的な授業を行える先生がひとりもいなかったとしても、それらの情報を得ることが容易にできる環境が整っていた。それに加えて、先に述べたように企業がつくる新しい形の学習教材もたくさん出た。

にも関わらず、学校は変わっていない。
日本社会全体が30年間停滞状態であることは第一章ですでに見たとおりである。学校だけでなく企業も変われていない。だから、学校だけを責めることはできない。
だが、本来学校とは、最先端の知識や技術を学び、能力を身につけ、次世代の社会をつくる人間を育てる場所のことではなかったか。社会と隔絶された状態で受験勉強に専念するための場所ではなかったのではないか。

なぜ学校は、あるいは教師は、旧来の工業社会モデルの教育手法を使い続けるのだろうか。

教師の学びの現状

学校の授業が「資質・能力」を育成するスタイルに変わっていかない理由はどこにあるのだろうか、ということを考えていくと、学校の先生が新しい授業のスタイルを「学んでいない」「知らない」ことにあるのではないか、ということが予想される。
そこでこの項では、「教員の学び」の現状について確認する。

以下に示すのは、中学校(左:対象者169人)と高校教員(右:対象者182人)の1ヶ月あたりの読書数のグラフである(2019年12月~2020年1月)。

『教師崩壊』妹尾昌俊 2020年 PHP新書 p197より(調査期間:2019年12月~2020年1月)

中学・高校のグラフとも円グラフの構成は以下の通り。

黒=月0冊
オレンジ=月1冊くらい
緑=月2冊くらい
黄色=月3~5冊
水色=月5冊以上

気になるのは、月0冊の教員の割合である。
中学校で約41%、高校で約45%が、ひと月に一冊も本を読んでいない(*②
-2)。
ひと月に1冊も本を本を読めない原因は、部活や生徒指導等で長時間残業が常態化し、疲労困憊したせいで通勤途中や自宅でゆっくり本を読むことができないのかもしれない。あるいは単に学ぶ意欲がないのかもしれない。
原因が何であれ、「学び」に関するプロフェッショナルであるはずの教師の約半分が月に1冊も本を読んでいないというのは、かなりショックな事実である。
当然、このような時代なのだから本ではなくYouTubeの教育系チャンネルで学んでいるという教員もいるだろう。また月に1冊しか読まなくても質の良い本を熟読しているという教員もいれば、月に5冊ほど読んでいてもその行為が知性を磨くことにつながっていない教員もいるだろうから、読書量だけで一概に教員の実力を測ることはできない。
しかしながら、繰り返しになるが中高どちらも40%以上の教員が月に1冊も本を読んでいないというのは、学びのプロフェッショナルとして心許ないという評価にならざるを得ないだろう。試合がないからといって体づくりをしないプロスポーツ選手が心許ないように。

ただ、逆に言えば月に3冊以上読んでいる教員は、中学で約12%、高校で約11%はいるということだ。中高の教員はだいたい10人に1人、しっかり読書をして知識を身につけていると言えそうだ。
月に3冊以上読んでいれば、そのうちの1冊くらいは新しい授業スタイルや「資質・能力」に関する本、あるいは現在の社会状況に関する本を読んでいてもよさそうなものだ。
加えて、本を月に1冊~2冊読む教員も中学で47%、高校で44%いる。月に3冊以上読む教員と合わせれば半数は超える。その1割の教員が授業改革の中心となって、月1冊~2冊読む約45%の層を引っ張ることで学校を改革するというシナリオも十分あり得そうなものだが、今のところそうはなっていない。


(*②-2 全国16歳以上の男女3590人(有効回答数1960人)を対象に行われた文化庁の「国語に関する世論調査」(平成30年度)によると、月に1冊も読まない人の割合は47.3%であるため、教員の読書量が日本人の平均と比べて著しく低いわけではない)


では、読書以外の学びの状況はどうか。

左:『教師崩壊』妹尾昌俊 2020年 PHP新書 p199を参考に筆者作成
右:webサイト『国際日本データランキング』より筆者作成      

まず、左側のグラフから。こちらは、労働時間が週40時間以上あった小中高の教員に対して、直近の1年間で「外部のセミナーや勉強会等に参加しているか」を問うたものだ。
結果は、小学校教員の約25%、中学校教員の約31%、高校教員の約34%が、「まったくない」ということだった。
ただこれも逆に言えば、小学校教員の約75%、中学校教員の約69%、高校教員の約66%は、直近の1年間に最低1回は外部のセミナーや勉強会等に参加しているということでもある。グラフは「参加している」人の割合を表している。
この数字が低いのか高いのかということを判断するためには、他の評価軸を持ってこなければならない。それが右側、②のグラフである。

右側のグラフは、日本・アメリカ・フィンランドにおける「この1年の間に、仕事の技能向上のための教育を受けたという人の割合」を表している(2015年)。これは教員に限ったものではなく、その国の国民全体のデータである。
3ヵ国それぞれのパーセンテージと順位は以下の通り。

日本(左。オレンジで示す):42.1% 37ヵ国中21位
アメリカ(中央:黄色で示す):59.4% 同4位
フィンランド(右:緑で示す):58.1% 同5位

ふたつのグラフで調査内容が完全に一致しているわけではないが、概ね趣旨は同じと考えられるだろう。
右側のグラフの数字と比較したときに、日本の教員の学びの状況は決してわるくない。日本の42.1%に対しては、小中高で最低となった高校でも20%以上高い。
また世界4位のアメリカの59.4%に対しても勝っている。
そのうえ、教育研究科の妹尾昌俊氏によると「小中高とも1割近くの教員は年間7回以上参加した」(『教師崩壊』p199)とのことなので、読書の状況と同様、1割の教員が熱心に学んでおり、その1割と合わせて半数以上が少なくとも年1回は自ら学びに参加している(*②-3)。


(*②-3 公立の教員は、「教育公務員特例法」における「第四章 研修」の第二十一条「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」という規定によって研修が重視されている。それによって小中高教員の数値が高くなっている可能性がある。)


このような状況から考えれば、少なくとも学校の授業の5割から6割は、「資質・能力」を育てる授業に変わってもよさそうなものだ。
しかしその多くは、未だ旧来のスタイルのままである。そこに問題がある。
もし、読書をしたり外部の学びに参加する教員が1割もいないのであれば、学校の授業が変わっていかないことの原因も明らかだ。自ら学び、成長する意欲がないのであれば、教員免許の価値が低いということになるのだから、免許を持っていない人が教育現場に入れるように制度を変えるなど(*②-4)、対策は比較的簡単であるように思える。

むしろ、「学んでいる(あるいは、学びにコストをかけている)のに変わっていない」ことの方が問題である(学校というものは、社会から隔絶してしまいがちな側面を持っている。だからこそ、外部から新しい風を学校に持ち込んでくれるであろう、学びに熱心な先生にはこの場を借りて敬意を表したい)。
このことから、教員そして彼らを取り巻く学校という場所に、変化を阻む構造的な問題があることが推測できる。
その構造については次章以降で詳しく検討していくが、少し先走って結論めいたことを言えば、その構造を生み出した教員たちが、「変えたい」という動機を持てないでいるのではないかということが想定される。それどころか、無意識的に「変えたくない」という強い願いさえ持っているのではないか。本人たちも自覚しないまま、彼らのアイデンティティや幸福の問題として、そのままであってくれる方が望ましいと感じているのではないか。
そうであればこそ、この問題はやっかいなのだ。

ならば、その構造を明らかにすることで、学校、そして授業を変えていくための真に有効な手段も見えてくるはずだ。


(*②-4 教育経済学者である中室牧子氏の著書『「学力」の経済学』(2015年)に示された研究データによると、教員免許を持っているかそうでないかは、教員の質には関係ない。そのため、教員の質を高めるために有効な政策は「教員免許制度を撤廃する」である可能性が高いという。また、別の研究では、教員研修が教員の質に与える因果関係はないという結論が優勢であるという。
ただ、現実的に日本で教員免許制度が撤廃されることはすぐにはないと思われるため、研修の質を上げることも重要であると考える。)


第3章へ続く


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