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「学校」という"母性のユートピア"あるいは"ディストピア"―⑥安西先生から学ぶ学習理論

モデルの提案

「オヤジの道楽につきあってるわけにはいかねーんだよ」
道楽・・・・・・・・・
「疲れたときこそ リズミカル!」
 (スパッ)
「おお!!」
「よーーーっしゃ!!」
道楽か・・・そーかもしれんね
「ラストだァ!」
日一日と・・・成長が はっきり見てとれる
この上もない 楽しみだ

『SLAM DUNK』単行本22巻 p164,165

前章まで、学校における母性のディストピア構造を見てきた。
ここからは、母性のディストピア構造を打ち破り、学校をより魅力的な場所に進化させるための策を考えて行きたい。
とすれば、「いかにして母性のディストピア構造を破壊するか」ということを考察していくことが求められるだろう。しかし、この構造と正面からぶつかって破壊することは、私にはほとんど不可能に思える。

なぜなら、そこには教師のアイデンティティや自己実現の問題が絡んでいるからだ。実際、現在学校で仕事をしている教師は、今のままでもある程度自己実現を果たせているからこそ、苦しいことがある中でも教師の仕事を続けることができるのだと思われる。ならば、そこに真っ向からぶつかっても、無用な反発や分断を生むだけに終わる可能性が高い。
教師個人の心理的な要素に加え、この構造は非常に多くの構造的・歴史的な要因によって構築されているため、それをひとつひとつ解きほぐしていくためにはさまざまな勉強が必要である。それをすることは、忙しい教師にとっても、また我々にとっても少々しんどいだろう。
とはいえ、まずはその構造があること、あるいは自分がその構造に取り込まれていることを「自覚すること」がなければ改善もないのだから、ここまで読んできてくれた読者はそれだけでスタートラインに立つことができたのだと言える。

では、どうすればよいのだろうか。
私が提案したいことはいたってシンプルだ。それは、新しい視点から「教師にとっての喜び」を見つけ、実現するということだ。

第3章において私たちは、教師の喜びの多くが子どもとの関わりの中にあることを見てきた。
子どもとの関わりの中に喜びを見出すことに、何ら問題はない。だが現状、教室における教師の生徒との関わり方を見ると、教師の側が「失敗」を恐れるあまり、教室内の状況や子ども自身をコントロール可能なものに留めようとし過ぎている。そのため、子どもたちが自分で試行錯誤して課題を見つけたり、見つけた課題を解決するためにいろいろと工夫や挑戦をする余白がなくなっている。
このような試行錯誤を経て人は自分自身を知っていくものなのだが、教室の中では試行錯誤がほとんどゆるされないため、子ども自身、自分の特性や特長を見つけることが難しくなっている。

加えて日本の学校教育には、教室の中に「課題が解ける子」と「課題が解けない子」の両方がいることをよしとしない風潮がある。ひとつの教室では平均して30人前後の子どもたち生活している。その中に速く走れる子とそうでない子がいるように、それぞれ得意なことや不得意なことがあるのは当然だ。だが勉強においては、できたりできなかったりすることがゆるされない傾向がある。これは不思議なことだ(かくいう私も塾講師時代、教え子に対して、すべての単元のすべての内容を完璧に理解させようとしていた。その子の力量と志望校を見極めたうえで、「今の自分よりも成長する喜び」を感じる手助けをしてあげることの方がはるかに重要だったのだ。大いに反省している)。
このような風潮においては、「できる子」はドリルなどを自分でどんどん進めていけるのだが、「できない子」には教師がつきっきりになって教えるというケースも生じる。できない子に対していつも教師がつきっきりになっていると、「どうせ先生が教えてくれる」と自ら考えることをますます放棄することになりやすい。
教室の中にできない子が残っているのをよしとしない風潮があるため、教師は自分で考えることを放棄した「できない子」を放っておくことができなくなってしまう。それどころか「手のかかる子ほどかわいい」という心理にもなり得る。一方で、「できる子」は学校が物足りなくなってくる。

このいった状況は、教室全体に停滞した空気をもたらすし、何よりも生徒の自立にとってよくない。学校を出たら、つきっきりで教えてくれる人などいないのだ。受験が終わったら忘れてしまうような「教科のちょっとしたこと」ができないことよりも、”自分で考え、自分で行動し、自分で解決するしかない”ということがわからないまま学校を卒業してしまうことの方が、本人にとって不幸なことなのではないか。むしろ自立する気持ちのよさ、清々しさを味わってもらうほうが幸せなのではないだろうか。加えて、より根本的なことを言えば、教育者たるもの――教師に限らず――手のかかる教え子に一生懸命関わって、「自分(教師)がこの子の成長に貢献した」という矮小な承認欲求を味わうよりも、「この子は私が思ってもみなかったような、すばらしい力を持っていたんだな・・・」という発見をする方が、教育者冥利につきるというものだ。

今、日本のさまざまな教室で起きている負のスパイラルは、母性のディストピア構造によって起きている。それを乗り越えるために、教師は新しい自己実現のモデルを持つ必要がある。
そのために私が提案したいことは、「教室の中に自分がコントロールできる範囲で秩序をつくり、その中で子どもと関わること」ではなく、「子どもが自発的に学習や成長に向かっていく姿に喜びを見出す」という、学校の本質的な意義に基づいた自己実現ができるようになろう、ということだ。教育の「教」ではなく「育」の方をやろう、と捉えていただいてもよいかもしれない。

そして、この教師の自己実現のヴィジョンを実現するためのロールモデルとなるのが、何を隠そう、今映画が大ヒットしていることでも話題の『SLAM DUNK』に登場する教師である、安西先生なのだ。

この章の冒頭に引用したのは、『SLAM DUNK』において、バスケットボールの初心者である桜木花道が、ジャンプシュートで得点ができるようになるために、体育館でシュート2万本を打つという練習をしている場面だ。
漫画の中で起こっていることを文字だけで表現するというのはまた独特な趣がある・・・が、それは置いておくとして、少し状況を説明しておこう。

「オヤジの道楽につきあってるわけにはいかねーんだよ」
と言っているのはこの漫画の主人公、高校1年生でバスケ部員の桜木花道だ。静岡遠征に向かったチームの中から自分一人を学校の体育館に残した上に、運動着姿でそこに現れたバスケ部の顧問である安西先生を見て、「遊んでくれる人がいないから自分を残したんだ」と勘違いして上記のセリフを吐く。
地の文(「道楽・・・・・・・・・」など)の部分は安西先生の心の中の言葉だ。これから鍛えようとしている生徒から「道楽」と言われて一瞬面くらう安西先生だが、その言葉を嚙み締めたうえで、毎日成長する初心者、桜木花道を見ていることは最高の道楽であるかもしれないと、思い直す。

金八先生のような熱血タイプではなく、安西先生をモデルとして提案したのには理由がある。
安西先生は子どもたちの主体性を尊重し、課題を与えたあとには静かに見守る。そして、教え子とのこのような関わり方の中に楽しみを見出している。
安西先生のこの姿勢は、コミュニケーション力や課題発見・解決力といった力を鍛える必要がある今の時代の子どもたちを育てるために、教師に求められている姿勢である。
だからこそ、安西先生はロールモデルになりうるのだ。

第4章で見たような、「教師の質問→児童・生徒の応答→教師の評価」によってつくられた授業では、子どもたちは今の時代をよりよく生きていくために必要な能力を身につけることが非常に難しい。しかし、安西先生のように、「課題を与え、見守る」という形の授業であれば、子どもたちは自然とさまざまな能力を発揮する。
それはリーダーシップかもしれないし、創造性豊かな発想力かもしれないし、あるいは優しさのようなものかもしれない。
そのような力があるとは全く想定できないような子が、思わぬ成長をすることを目撃できる。そんな教室をつくることができたら、それはまさに一生の道楽になるだろう。

教師の「道楽」のための学習理論

ここまで見てきた教師の自己実現のモデルに魅力を感じてもらえただろうか。
「そうは言っても、現実的にはどうすればいいかわからない」という声も聞こえてきそうだ。
この章では、「課題を与え、見守る」という授業を、どのようにして実現していけばよいのかということを見ていく。
なお、この章では各理論について細部まで記すことはしない。それをするには、1章から6章までの分量の文章をもう一度書かなければならなくなってしまうからだ。
それはまた別の機会にゆずるとして、学習理論についてより詳しく学んでみたい方には『学習科学ハンドブック 第二版』の第1巻~第3巻(北大路書房 2016年~2018年)を、国語や社会といった授業での実践に落とし込みたい方には『アクティブ・ラーニング入門』(小林昭文 産業能率大学出版部 2015年)をおすすめしたい。

(最初にお伝えしておきたいが、「講義スタイルの授業を一切するな」ということを言いたいわけではない。文科省にしても課題解決型学習のような学び方を推進するさまざまな識者の方々にしても、それを求めているわけではないだろう。必要なタイミングで必要な内容を講義することは、これからも必要なことだ)

(1)どのような課題を与えるべきか

子どもたちが主体性を発揮して自ら学び、その過程で社会で必要なさまざまな能力を伸ばしていく。
そのために、子どもたちに与えるべき課題とはどのようなものだろうか。

端的に言えば、それは以下の要素を持つ課題だ。

大人が世の中で取り組んでいるものと同じテーマの課題

これは、人がどのように学ぶのかを研究する学問のジャンルである「学習科学」の基礎となる中心的なテーマである「ある領域の専門家と類似した学習活動に取り組むことで生徒はより深い知識を学ぶ」という知見に基づいている(『学習科学ハンドブック  第1巻 基礎/方法編』p4 2018年)。
「ある領域の専門家と類似した学習活動に取り組むことで生徒はより深い知識を学ぶ」というのは、例えば教職を志望する大学生がいるとする。その大学生にある程度現場で通用する授業ができるようになってほしい場合に、教育心理学の細かな知識を教え込むよりも、実際に授業をつくって小・中・高生に授業をさせる方が実践的だし、教育心理学や教育学についてもより深く理解することができる、といった意味だ(もちろん教育心理学や教育学の知識には領域固有の名称や概念があるため、それを実践と結びつけるために一つクッションを入れる必要はあるが、少なくとも授業における知識については、自らそれを活用して実践した方が、座学で聞くよりは深く理解できると言えるだろう)。

では、実際に総合学習(探究)で使える課題にはどのようなものがあるだろうか。
例えば、これはアメリカの学校における例だが、「親友を病気から守るには?」という課題がある(『学習科学ハンドブック 第2巻 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ』p25 2016年)。この課題は「細胞, 組織, 微生物学, 疫病に関する学習目標を持つ8週間の単元」(同著)において扱われた。
基本的に、教室にいる多くの子どもにとって「親友を病気から守る」ことは望ましいと感じるはずだ。その点で、この課題は子どもたちが当事者意識をもって取り組みやすい魅力的な課題だと言える(もちろん、すべての子どもが当事者意識を持って取り組める課題は存在しない。人には得意不得意があるのだ。だが、それで何か問題があるだろうか?)。
日本の高校に当てはめてみれば、この課題は生物や保健、情報といった科目に関わる内容となるだろう。このように幅の広い教科の内容を扱うからこそ「教科横断的」な学びとなり、「総合的な」学習となるわけだ。

他にも「学校周辺の地域の生態系についてのドキュメンタリー番組をつくってみよう」とか「地域の商店街を活性化するための企画をつくろう」といった課題も考えられるだろう。
ちなみに、私がChatGPTに「東京23区の中学生に課題解決型学習を取り組ませる場合、どのような課題が適切だろうか」と聞いてみたところ、公園の清掃不足や地域の高齢化といった問題を解決するためのプロジェクトを考える課題がよいのではないかと提案してくれた。このようにツールを活用して課題を考えるのもひとつの手だ。

ちなみに、このような学習において、教師は課題の答えをわかっている必要はない。なぜならこれらの課題は現在のところ明確な解決策を打ち出した人や組織がまだないために、未だに課題として社会に存在しているからだ。
だからこそ、質の高低はあれど子どもたちが考える多様なアイディアがそれぞれ正解になり得る。
教師は、子どもたちがこれらの課題に取り組む中で思考力を発揮したり、コミュニケーション力を発揮したりするところを無邪気に喜んでいるだけでも、この授業は成立する。

(2)学習に取り組む上での5つのポイント

このような課題を活用した学習の効果を最大限に高めるために行うべき5つのポイントも確認しておこう。

1「目的」を示す
子どもたちも教師も(そして私たちは誰でも)、意味のわからないことに一生懸命取り組むことは難しい。だから、それをやる意味や価値をしっかりと伝えよう。
子どもたちは「これをやることで、自分の将来にいいことがあるんだ」と思うことができれば(つまり課題に取り組む意義を理解できれば)、自ら積極的に学びに向かっていくものだ。
例えば、「みんなが将来社会に出たときには、自分で答えを"つくる"ことが求められる。それができる人は会社でも活躍できるし、普段の人生もより楽しく生きていくことができる。だから、君たちには今から"自分で答えをつくる練習"をしてもらいたい。この課題は、そのためにやってもらいます」といったように、目的を明確な言葉にして、ていねいに伝えるのだ。

安西先生も、ゴール下以外からのシュートが入らないと他校のライバルから思われている桜木花道に対して、ゴール下以外の場所からもゴールを決められるようになることで、インターハイで全国の強豪たちの度肝を抜いてやろう、という目的を提示した。
これは作品内で明確に言語化されていたわけではないが、安西先生の意図はそこにあり、花道もそのイメージができていたことは、その描写からも推測できる。
安西先生は、このように目的を示したうえで「シュート2万本です」と課題を提示した。

2「チーム」で取り組む
数名のチームで取り組むことで、そこにコミュニケーションや役割分担といった社会的な活動が生じる。チームメイトがいるため「この人のためにがんばろう」というモチベーションにもつながるし、能力がそれぞれ違うため、自分の得意なことを見つけるチャンスにもなる。
これらはひとりで勉強をしていては身につけることが難しい能力だが、仕事にしろ恋愛にしろ家庭生活にしろ、社会では非常に重要な能力だ。
また学習科学の知見によると、チームで取り組むことで、自分の視点だけではなく他者の視点を通した理解も構築することができるため、対象についてより深く学ぶことができる、ということが示されている。
そのほか、チームでの取り組みがよりよく機能するためには、「心理的安全性」が重要だということもよく知られている。「参加者が安全に感じることによって, よりリスクをとったり, 自由に考えるたりするようになる」(『学習科学ハンドブック 第2巻 効果的な学びを促進する実践/共に学ぶ』p153)といったことが、組織の行動について研究するエドモンソン教授らによって明らかにされている。
心理的に安全な話し合いができるように、例えばアイディアを出す際には「相手の発言を否定しない」というルールをつくって示しておくというのも手だ。

安西先生も、花道にひとりでシュート練習をさせず、心強いチームをつくった。シュートする動作を記録したり、フォームが崩れていないかを見て伝える役として桜木軍団(花道の中学からの友達)を呼んでいた。さらに、安西先生のアドバイスをメモしたり、シュートの成功不成功を記録する役として花道がホレている晴子も来てくれたため、よりよいチームになった。
またこの合宿に限らないが、安西先生は緊張感を高めるような指導はしない(大学のコーチをしていたころは鬼と恐れられるような指導をしていたが・・・)。基本的に、「ほっほっ」と言って見守っているだけである。おそらくそれが、彼らが「心理的安全」を感じることにつながっているのだと思われる。

3 子どもが学習活動をはじめたら、教師は「観察」をする
課題を受け取った子どもたちは、最初はとまどいながらも徐々に活動をはじめていく。その際に、教師が手取り足取り手伝ってしまっては学びにならない。このようなことをしていると「どうせ先生が手伝ってくれる」と、子どもたちが受け身の姿勢になってしまう。
教師は、子どもたちがうまくいってもいっていなくても、まずはじっくり「観察」する。
観察している過程で、コミュニケーションや思考、協力、リーダーシップなど、社会で必要な行動を取っている子どもがいたら、その点を静かに喜んでいればよい。
安西先生はそのおだやかな雰囲気から、ホワイトヘアードブッダ(白髪仏)という異名を持っている(『SLAM DUNK』単行本2巻)。仏の境地とは「ほっとけ」の境地のことだ。教師は、子どもたちをいい意味で「ほっとく」ことが必要だ。
もちろん、子どもたちが積極的な姿勢を見せたら「いいね!」と伝えたり、おもしろいアイディアを出していたら「おもしろいね」と伝えてもいい。子どもたちのプラスの面を見つけ、それを認めることは教師から子どもに与えられる最高の贈り物となるだろう。だが、それもあくまで子どもたちの活動が主となるべきだ。子どもたちをコントロールしようとして褒めてしまうと、「褒めないとやらない」という「負の強化」が起きてしまう。テストでいい点を取れたかそうでないかという結果ではなく、子どもたちの言動をよく観察したうえで、よいところを見つけよう。

『SLAM DUNK』では、シュート2万本を打つ間のすべての描写はない。だが、安西先生は最初にシュートの打ち方の手本と目的を示した後は、「シュート2万本です」と課題を示し、そのあとは基本的に見守り、必要に応じて助言を与えるということに徹していたのだろうということが予想される。

4「アウトプット」をすること
本を読むときに「読んだ内容を人に伝える」というゴールを設定して読んだことがある人はよくよくわかると思うが、「知る」というゴールを設定したときと、「人に伝える」というゴールを設定したときでは、学びに対する姿勢や効率、発揮する思考力がまったく違う。
だからこそ、学習活動において「アウトプット」は非常に重要だ。
他者に伝えるためには、情報の取捨選択や編集が必要であり、そこには創造性が求められる。
このことからもわかるように「課題を考えてください」ではダメで、「課題を発表してください」という課題である必要がある。「親友を病気から守るには?」という課題を出したら、その課題の集大成として、親友を病気から守るための方策を発表するところまでやることで、学び効果が大きくなる。

花道に合宿でいうと、スポーツなので当然だが、シュートについて学ぶだけではなく、「実際にシュートを打つ」という行為がこれに当たる。

5「振り返り」をする
「やって終わり」では、学びの効果は大きくならない。「やってみてどうだったか」ということを振り返ってみたときに、その人の学びの深さに応じて、自分が学んできたことの「意味」がよくわかるという瞬間が訪れる。
また、ここまでのチームでの取り組みを振り返ったときに「あ、自分はこんなことが得意だったんだ」「そういえば、こんな時に自分はがんばれたんだったな」といったように、自分の能力や個性に気づくことができる。
また、「あいつは人前で話すのがうまかったけど、スライドづくりはおれの方が上手だ」といったように、チームメイトとの比較によって自分の能力に気づくこともできる。自分の中では自信がなかったけど、案外人を助けられるレベルにあるのだ、ということに気づくということも、とてもよくあることだ。
もし自分で気づくことができなくても、チームで振り返りをすれば、一緒に取り組んできたチームメイトから「あのときは助かった」「〇〇がいたからアイディアを出すとき楽しかった」と言ってもらうことで、そのことが自信になるだろう。

このように、自分自身の学習過程を振り返り、そこで考えたことや学んだことを認知することを「メタ認知」と呼ぶ。
自分の考えを他人に伝えてみて(もしくは書いてみて)、はじめて自分が何を考えていたのかを知った、という経験をされた方も多くいることだろう。なぜそのようなことが起こるかというと、そこに「メタ認知」という人間が持つ知的な能力が働いているからだ。
学習科学によると、この「メタ認知」は「学習や問題解決, 課題遂行において基礎となる性質を持っている」とのことで、よりよい学習ができたり、自分を改善するための方法を考えることができる人は、自分をメタ認知することが得意だという(『学習科学ハンドブック  第1巻 基礎/方法編』「第4章 メタ認知」)。

安西先生は、桜木軍団に花道のシュートの動作をビデオカメラで撮影させ、それを花道が自分で確認して振り返ることができるように環境を整えていた(夜、みんなが寝てしまった後にひとりでその映像を確認し、自分が上達していることを確認したときに、花道はひとり静かにこぶしを握り締める。それはおそらく、何事にも本気になることができなかった人生で、彼がはじめて感じた「手応え」だったに違いない)。

これと同様に、教師は子どもたちがメタ認知をできるように、彼らのプレゼンや発表の様子を映像に撮っておくことがとても重要である。

以上が、安西先生から学ぶ学習理論だ。このやり方は、今まで勉強ができなくて自信をなくしていた子や、親や教師からダメだダメだと否定ばかりされて育ってきた子が、自分の中に眠る可能性に気づくきっかけとなるはずだ。
教師は、彼らが学びに向かう姿勢や言葉、行動といったものの中に、ほんの少しでもいい、何か前向きなものを見つけ出すように、子どもたちをよく見ていてほしい。そしてよいところがあったらぜひ伝えてあげてほしい。
ときには、彼らの成長のスピードが自分の思い通りにならずに苛立つこともあるだろう。だが、よく考えてみてほしい。昨日植えたトマトの種が発芽しないからといって、私たちは別に怒ったりしない。
トマトにはトマトの成長スピードがあり、きゅうりにはきゅうりの成長スピードがある。子どもにも、その子に応じた成長スピードがあるものだ。それはそう簡単に早められるものではない。
しかし、植物に水をやるのを忘れてしまえばその植物は育たないように、子どもの内に秘められたよいところを見つけ、そこを指摘することでしか外に現れてこない可能性もある。
そうやって忍耐しながらその子の成長をサポートし続けるならば、その教師にはいつか「教師になってよかった」と思える瞬間がやって来るかもしれない。

史上最強の山王工業戦、シビれる展開の試合の残り10秒を切ったときに、花道は2万本シュート合宿の成果を見せることができた。
そのとき、安西先生ははじめて、両拳を振り上げて大きなガッツポーズをした。
ひょっとしたら、2万本の成果を見せる機会もないまま、試合に負けてしまうこともあるかもしれない。
でも、試してみなければ、真の喜びはいつまでも手が届かないままだ。
もし、ここに書いてあることが少しでも楽しいと思ったならば、これらを試してほしい。そして、教室の母性のディストピア構造を打ち破り、子どもたちの進化・成長を手助けし、本当の意味での教師の幸せを手に入れてほしい。

終わり

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