【散文】愛したFが消えて (2784文字)

ある朝、私は奪われた。
そうと理解するまでに何度、頭が割れそうになるほど大量の涙を堪えたことか…むしろ、割れてしまえばいいのにと思って、ナイフの反射をじっと見つめたことも幾度となくあった。
私の体はどこへ消えたのか?
一縷の望みも与えられることなく、私はある日、自分を「××」と呼べなくなった。

その出会いによって、私は最初にして最大の衝撃を受けた。それは心が読めるはずのない他人にまで伝染するのではないかと思えるほど大きなもので、抽象的に言えば、それまで真実だと信じて疑わなかった世界の反転だった。
可憐で、華奢で、ヒマワリのように眩しい笑顔を振りまいて暮らし、少しお調子者の女の子が、いつも顔色を窺ってくる毎日。席替えでどんな場所に流されても、窓際に座る女の子は絶対に席を貸してくれた。私はいつも、皆に囲まれて笑うだけ。
私の機嫌こそが、あの教室の天気だった。私は別に、自由に、ただ笑って楽しくしていたいだけなのに、なんて窮屈な。皆ももっと、好きにやったらいいのに。そんな風に、学校帰りのスターバックスで親友(だと思っていた、同じ部活のユカ)に零したら、苦笑いで
「それはさあ、××がいるんだから無理でしょ」
 と、的を射ないことを言われ、何となく苛立ったこともあった。
 勿論、ユカもいなくなった。私の隣からも、私の「大好きな人」リストからも。あの朝、訳も分からず泣きじゃくりながらも真っ先に連絡したのに、私の名前を聞くなり『私が××のこと嫌いだって知ってて言ってんの?』と無感情なメッセージを寄越した。
 私に親友なんていなかった。ユカより仲が良かった女の子なんていない。中学校、小学校、幼稚園まで遡っても、いない。
 
その代わりに引いた新しい「友達」のことは、何となくしか知らなかった。いつも私がいたはずの窓際の席の、その前に座っていた、背中の丸い男子。話したことも、声を聴いた覚えもなかった。それでもこの体の友達だというから…何かの助けになってほしいと、あまり期待せずに助けを求めたとき、ユカなんかより余程親身に話を聞いてくれたことは、とても感謝している。
 それでも無力だった。彼を責めるつもりはないが、結局彼も、私の話を聞いて気まずそうに
「面白くないぞ」
 とだけ言った。
本当に悩みがあるならいつでも聞くけど、もっとわかりやすく話してくれないと力になれない、と。
私の話は、彼に話した以上に簡略に、明白にはできなかった。

二日ほど休んでから恐る恐る入った教室のメンバーは、一人増えていた。私だった。
教室に入ったのに、誰からも声をかけられない。一応皆がこちらを目だけで振り返ったのが分かったが、誰にも興味は向けられなかった。
それだけでも私は背筋が凍り付いたのに、それとなく席を探して正解と思われるところに座ったとき、いよいよ心臓が止まるかと錯覚した。
「あ、××!」
 思わず食い気味に口を開きかけ、思考が完全に止まった。
 皆が口々に「おはよう」と声をかけ、それら全てに大きな声で返事をする女の子。××と呼ばれた、私の特等席に歩いていく女の子。一緒に登校してきたらしいユカと入り口で別れると、すぐに今度はクラスメイトに囲まれながら歩く、どこからどう見てもクラスの中心人物の女の子。
 それは、私ではなかった。真っ黒な髪、健康的に焼けた肌、太陽のように眩しい笑顔、ちょっと鋭い瞳。
 その日の天気予報は、晴れだった。

両親は変わっていなかった。それが更に恐ろしかった。この家に娘なんていない。私が生まれた時から、母が熱心に手作業でまとめ続けていたはずのアルバムを見ても、全てが知らない写真で埋まっていた。
『初めて立ったよ!ママも見てみて~』
違う、その吹き出しを添えられたのは、男の子なんかじゃない。
『パパと一緒にボール遊び♪』
 違う、この写真で父を付き合わせていたのは、おままごとだった。
『ママが間違って買った女の子の洋服だって似合っちゃうんだから』
 間違ってなんかない…私は女の子なんだから…。
 今となっては私だけが知っている「私」の記憶の在処が、どこにもなくなっていた。耐え切れずに、今でも大嫌いな野太い声ですすり泣き始めた私に、母が優しく声をかけた。
「どうかしたの?」
 母なら。
 たとえ意味が分からない話でも、いつでも私を目一杯愛してくれた母なら、私の味方になってくれるはず。お願い。
「…ごめんね、***」
 何、それ。私の名前は、××だって言ったじゃない…
「お母さん、***がそこまで悩んでるなんて、ずっと知らなかった」
 どういうことかと聞けなかった。何となく、母が私をどう見ているのかがわかってしまった。怖くて聞きたくなかった。
 それでも、疲弊しきった体はぴくりとも動かず、母は温かな涙を頬に伝らせながら、言った。
「これから、その…××、って名乗ってもいいよ。ずっと女の子になりたかったんだものね」
 視界がぼやけて崩れ落ちた私を、勘違いを重ねる優しい母がきつく抱きしめた。
「素敵な名前だと思う!もし貴方の体が女の子だったら、きっとそうやって名付けていたと思うくらい、素敵な名前だと…」
 当たり前だ。だって××の名付け親は、ほかでもない、お母さんだったのだから。

 抵抗をやめた。××に戻る術は存在しないのだと、はっきりと理解して、私は今も項垂れている。私の恋人だという、××の頃同じ部活だった同級生に、手を強く握られながら。
 私の感性で素敵だと思うものに目線を向けることも憚られ、着飾る道具も素体も無く、今まで愛して大切に育ててきたものがいっぺんに消えた。私は一度死んだのだろうかと考えもしたが、最後に「××」だった日のことならば鮮明に覚えている。
 毎日夢中になってやっていたバレー部の活動が終わり、ユカを含む部活の友達と四人で明るい街を、駅に向かって歩いた。私は駅に行く必要はなかったが、私の親友のユカが電車通学だったから、いつも皆で駅まで歩いた。
 空気が冷たくなり始めた、秋の終わりのことだった。ユカは元気に手を振って私たちと別れ、一人は駅からバスで帰るためにまた手を振って別れた。そして私ともう一人で、それまで押していた自転車に跨って夜風を切って…
「あのさ!」
「なにー?」
 風が強かったから、私たちは大きな声で話していた。
「××は、もし私が――――」
「え?ごめん、聞こえなーい!もう一回言ってー!」
 その子と帰るのはその日が初めてだった。部活終わり、一緒に帰らせてと言われたときから、きっと何か話があるのだと思っていたから、私は必死に話を聞こうとした。
 しかしそれきり、口をつぐんでしまった。何でもない、という声さえ聞けないまま。
 そして翌朝起きると、私は××では無くなっていた。ただわかるのは、私の***という名前が、確かその子の、若くして自殺したと言ってたはずの恋人と同じということと、今の私にはその子という執念深い恋人がいることだけ。

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