【小説】心臓分裂(9074文字)

 今日は特に冷たかった……。もしかしたら俺には無理なのかもしれない……と思ったところで、胃のあたりがぐったりと重くなった。そして、ふと「嫌われている」という言葉が浮かんできた。目に馴染んだ勉強机の散らかりようをじっと見つめる。
 木田さんは、可愛いというより綺麗な方だと思う。教室に居る時は本を読んでいるか、友だちとくっついて喋っているかのどちらかで、俺に気づいたことはほとんどない。でも今日は間違いなく目が合った!木田さんは、廊下からさりげなく覗いていた俺に気づいて――俺は心臓が飛び上がる思いで瞳孔を開いてしまったのに――ふっと目をそらし、どこでもない空間に視線を移した。その時木田さんにのしかかってじゃれていた友達の方を見たわけでもない。ということは、木田さんは俺の顔を見たくないんじゃないか……?机に肘をついた。頭が重い。
もしかして、俺に見られていると分かった瞬間嫌な気分になったから、変なところに目をやったんじゃないだろうか。つまり、実は俺が好きだということに気づいていつつ迷惑だとも思っていて、「あいつ、見てるよ……」と思われたという事は……かなりあり得る。心臓が潰されるように痛んできた。それに反発するように脈打つのが余計に苦しい。
「ごはん食べるよー」
 呑気な軽々しい声で、ドア越しに呼びかける姉。最近になって、俺の姉ちゃんってそんなにいいもんじゃないな、と思い始めた。悪いんじゃなくて、中一位まで盲目的に慕っていたのは違ったな、と。こうして思考をはっきり遮断してくれるのは、時に有難くもあるのだけど。
「あい」
 聞こえる程度に配慮した小ささで返すと、姉ちゃんがドアの前から離れていく足音がした。
 夕飯を咀嚼する口が、なんとなく重たかった。神妙な事態だ。

 人の影がまばらな駐輪場に入る。同じ方面に帰る部活の仲間がみんな徒歩だから一人になるだけなのに、この瞬間はどうしてもなにか、頼りなく感じてしまう。動きの滑らかさを失い始めた銀色の自転車を出すと、人の気配が近寄ってきた。今湧いた頼りなさが反比例していく。
「お疲れー」
「うん、お疲れ」
 暗くても存在感のある白のウィンドブレーカーを着た、俺よりは随分小柄な同級生。いつからか、俺が自転車を出す頃にこの丹羽が近寄ってきて一緒に帰るのが、習慣になっている。
「帰るか」
「うん」
 校門までは無言なことが多い。俺は、近くにからかう奴がいるかもしれないことを気にしている。相手は一応女子だから。
部活が終わる時間が近いからだ。周りにはいじられることもあるが、本当にそれだけだ。気が合わないとは思っていないから、この繋がりを切るのは惜しい。その為、からかいも度が過ぎないので助かっているし、そのままで居させたい。人一人が入れない程度の距離感で走り出す。
「木田さんって分かる?」
「え」
 一つ目の信号に止められた。何気ない振りをして聞いてみると、大きめの声で聞き返される。気を抜いていたのだろうか。
「木田さん、分かる?隣のクラスの……」
「分かる。私、話したことあるよ」
「そうなの?」
 やや声が上ずった。視線を感じる。こいつ、にやにやして……。
「あ、いや違う。違う」
「好きなの?」
 それでも心は懸命に形を保っていたが、続けられた「ふーん」の圧力に負け、あっさりとねじ曲がった。
「違うって……」
「ねえ、いつから?」
 発言に錘を被せられる。ねじまがった心の表面を撫でつけられたような気がした。やめろよ、というせめてもの抵抗で、伏し目がちながらなんとか顔を見ると、その瞬間丹羽は目を開いてこちらをじっと見返す。丹羽はにこりと笑った。その目にまた負けて、俺は黙って自転車を漕ぎ出した。
「ごめんってばー」
 友達の一人が、丹羽のことを無邪気だと認定していた。俺は無邪気というのは小学生とかに使う言葉だと思っていたので、それ以来、こいつは恰好をつけたがるだけの人間じゃなさそうだな、と心に留めている。
「いい子だよね。ちょっと喋っただけだけど」
「あー……うん」
「……喋ったことないの?」
「ない」
 俺は先に走りつつ、いつもと違う車通りの少ない道を選んだ。丹羽が出てきて隣を並走する。少し速度を落とした。
「話したらいいじゃん。ホントにいい子だよ?」
「いやー……ちょっと……」
 少ししか話したことがないと聞いた時点で、もうこの話はやめようと思っていたのだが、丹羽の方はずかずかと潔い。
「緊張するの?もったいなー」
「もったいないって、なんだよ」
「彼氏できちゃうかもじゃん。今は――」
「今、彼氏いないの?」
「……今は居ないと思う」
 空に向かって少しだけ頷いた。俺は何もしないのに満足な気分だ。
「嫌われてる……かも」
 そして口にした瞬間、穴に入りたくなった。下校の時にしかほとんど喋らない相手なのに、丹羽は日ごろから、俺をじっと見る。こちらから見ないようにしても、丹羽の方はひたすら見ているのを感じる。自分の周りの空気が密になったようだ。この居心地の悪さが、俺は正直苦手だ。
「え?喋った事、ないんだよね?」
「ない、けど……なんとなく」
 丹羽の言葉が途切れ、その数秒間、自分との間に正しく自転車分の距離が空けられた気がした。しかし丹羽が黙ると妙に不安になるので、いつも通りにしてほしい。
「何となくって……?」
 説明しようと口を開けて、あ、と口を閉じた。
「話しなよ。せっかくだし」
「せっかくって何が……」
「誰にも言わないよ」
 それなら、ということではない。つくづく分かっていないと感じるが、その分からなさが丁度よいところもあるので、俺は黙った。問題は木田さんの事で……ああ、思い出すだけで心臓に悪い。
「……」
 しかし丹羽の沈黙に負けた。俺は砂を磨り潰すように喋った。丹羽はそれでも黙って聞いている。たまったもんじゃない……。
「俺がその……って、バレてるっぽくて」

 全て喋って俺が出涸らしになったころ、丹羽の家に着いた。結局俺が喋るばっかりで、疲れた。
「ばいばい!」
 心なしか気持ちのこもった挨拶を受けながら、再度ペダルに足を掛ける。
「はいはい……」
 たった今丹羽に話したことをどっと思い出し、ねじ曲がったままの心が茫然と熱くなった。帰ってすぐスマホを開いて『誰にも言うなよ』と、ほとんど何も考えずに送った。
『言わないよ!笑』
 俺は笑えないんだよ、と思うのだけど、丹羽だからな……。

「木田さんね、彼氏いないって」
 翌日の帰り道、突然のことで口元があちこちに歪んだ。
「あのー……それはその、どういう……」
「よかったねって話じゃん」
「それは……そうなのか」
 よりによって唯一の相談相手がこいつだと、周りに知れたりしたらどうだろう。今日一日の周囲の様子をすべて思い返し、特に変わった様子はなかった、と希望を込めて考えた。様々な場面が脳を一瞬で搔きまわして搔きまわして、それが落ち着いた時、木田さんは俺の名前を聞いてはいないか、だけが頭に残った。丹羽は俺の顔を眺めつつ、得意げな笑みを口元で動かす。
「話しかけなよ。男子とも普通に喋ってるよ、木田さん」
「あのさ、どうやって聞いたの?」
「え」
 丹羽が目を開くとき、俺をじっと見るのをやめてほしい。
「えーと…木田さんのクラスの子と私、仲いいから、かわいいよねーって」
 曖昧な答え方、やや苛立ちを覚える。しかしそれを伝える訳にはいかない、こういう時に感情的になると損をするのは自分なんだ。
「うん」
 なので、相槌だけに立場を控えた。丹羽の眉尻が少し下がったように見える。
「で、彼氏とか、いる?って聞いたんだよ」
 丹羽の友達が誰かは知らない。どうやら、いないんじゃない、とか、えーなんで?とか、高値の花タイプ、とか口々に言われたらしい。丹羽が口を割っていなければ俺のことは知れなさそうだった。
「そっか」
「……うん」
 丹羽が力を落として、静かになった。自転車の回転が冬の空気と同化していく。今日はやけに静かだな、と思ったところで、
「また連絡していい?」
「え?」
 俺が素っ頓狂な声を挙げた。
「……どういうこと?」
「いやえっと、なんでもない」
 丹羽が速度を緩めた。顔を上げると、丹羽の家はすぐそこだ。このあたりまで来るともう手袋がいらないくらい体は温まっており、丹羽もそのはずだったが、今日はマフラーをしたまま、俺を見送っていた。

 
 ため息をもらした。思ったより重たくて、我ながら驚いた。こういう風に悩めることにも感謝するべきなのかもしれない……けど、そう思って諦めるのも辛い。辛いよ!と、頭の中に強く思い浮かべてみて、どうして今、私の口元は緩くなるのだろう、と……あまり考えてはいけない予感のする疑問が、ほんのりよぎった。

 
ぐちゃぐちゃ喋るだけのクラスメイトを連れて、なるべくノロノロと、そいつの歩調に合わせて、歩いていく。じゃれついてくるのを躱していると、気配りのかけらもなく「また隣ー?」と大きな声で聞きやがった。俺は地面を歩いているのかもわからない感覚で頭を叩き、雪崩れるように転がって廊下を進む。授業の間にはドアを開放するというルールに救われている。木田さんは今日も友達の話に混ぜられていた。
でも、どうして嫌われてしまったんだろうか……。俺がしたことを思い返しても、やはり見る以外には何もしていない。となると見ているだけで迷惑だという可能性が高い……。
その目はどうしてそんなに丸くて、表情豊かなんだろう。俺がもし、話しかけたとして……その慈悲の少しでも分けてもらえなかったら……見たことのない、嫌な顔をされたら……あるいは、目をそらしたときの様に、見なかった振りを、されたら……。木田さんが友達の話で大きく目を開いて、楽しそうに笑った。胸が焼き付けられたように痛み、その光景も俺の脳の中央へ食い込んできた。

 冬が深まるほど、焼けるような寒さを感じなくなるまでが長くなる。口々に寒いと訴えながらアップを始め、昨日と同じように練習を続けていると、大したことのない理由で、外周行ってこい、と言われた。その顧問の顔もはっきりとは見ないまま、俺はさっと駆け出す。足取りは軽く、顧問の指示にも従順な姿勢を見せられたので、流す程度でも真面目に走れば許されるだろう。
目だけで周囲を確認しきる。一生懸命やっている奴の方が格好いい、とよく教師は言う。俺は息が荒ぶるのを耐えて、なるべく軽快に校舎の周りを走った。女子運動部の間を通るときは肩身狭そうな顔をして、目線に一層気を配っておきつつ、あ、居た……。
バドミントン部の女子は、いつも塊になって何かしている。その上自分自身も走りながら、その中の誰か一人を見つけるのは難しいはずだと思う。誰のためにもならない達成感をじんわりと胸に広げ、少しの間だけ木田さんを観察した。普段は結っている硬そうな黒髪が、実は肩よりも少し長い位なのだと気付いたのも、以前やらされた外周のお陰だ。その髪がやや乱れて、数本顔にかかっている。整えられていない姿もすべて、見ておきたいと思う。その崩れ方をよく目に留めて、何気ない顔で目をそらした。
盗み見るとき、ほとんどの顔がにこやかでしゃんとした木田さんが、この時だけは真剣な顔で一生懸命になっている。それは俺と違って、「格好いい」のかもしれない。また一つ自分のための言葉を見つけて、満足した心持ちになったころ、外周が終わった。周りの目を振り払える空間に戻っていく。

しかし、嫌いになるのはひどいんじゃないか……と思った。思っただけで、俺は格好いい木田さんにそれを押し付けはしない。しかし理不尽な気はする。もし、こういった反応を向けられたら、木田さんは何と返すのだろうか。話したことが無いから、俺には想像もつかない……。
「なんか、あった?」
「は?」
「なんかあったって顔してるの」
 丹羽はいつも質問をなげてくるが、俺はそんなにわからない奴なのだろうか。不機嫌な顔をして、そうしげしげとみられるから、俺も黙りたくなるんじゃないだろうか。第一、自転車で帰っているのだから、あまり深いことを考えさせられると困る。
「別に。お前は?」
「え、興味あるの?」
 ぎょっとして丹羽を振り返った。白いのは上着だけではなく、丹羽は肌も澄んでいた。寒さのせいか、やや赤らんだ頬がマフラーの隙間から覗いている。
その俺におどろいた丹羽が、繰り返すように「え?」と呟く。
「前見なよ」
 お前のせいだろ、とは言わず、前を見た。
「まあ、聞いただけだよ」
「あー、うん。あたしも何もないよ」
「うん」

 廊下を遊び場にする奴らも、このところはさすがに寒がって縮こまり始めた。俺には関係ないという気持ちはあったが、考えなしのクラスメイトにまた余計なことを大声で言われてはたまらないので、一応行動を控えている。暖房が音を立てる教室の中に、俺がしたいことはない。そのため、俺はいつも、その考えなしがいる声の大きいグループで、なんとなく話を合わせている。聞いていないことも多いが、
「只野は丹羽さんと付き合ってるだろ?」
「は?」
「てことは、てことはよ、今一人なのって俺だけ?」
「は?待て待て」
「彼女欲しー!」
 最後まで言い切った勢いで大きく伸びをしたそいつの肩をつかんだ。
「只野が怒ったー」
「ちげえよ、俺付き合ってないんだよ」
 おどけたらこの先どうなるかは分かって居たので、俺はなるべく真剣に訴えた。グループの奴らは、笑いながらも分かったような顔をし始める。
「いやマジで。ていうか、は?何で?」
「だって毎日一緒に帰ってるじゃん!」
「あ、これから?これからですか?」
「違う、違うって、ホント……。何もないんだって」
「えー?変なの」
「でもさあ、丹羽は……」
 俺をからかう方向にはいかなさそうで、ひとまず顔から力が抜けた。しかしそいつの、気持ち程度声を潜めた一言が良くなかった。
「只野のこと、好きだよな」
 目を開き、口も開けたが、何も言えなかった。そうか?とも、そんなわけない、も違う。今、何を言うのが正解なんだ?
「たしかに」
 クスクス笑いながら、盗むように丹羽を見ている。丹羽は大人しいタイプの女子と、何やら小声で盛り上がっていた。
 石が頭を砕いたような感覚だ。思考の塊がバラバラにされ、これまでとは違う形に向かって再構築されて、昨日まで目をそらしていた丹羽の顔へのフィルターが切り替わっていく。丹羽は小学生の頃からの知り合いで、家が程ほどに近いからよく話してもいた。で……いつからだ?……そういえば、俺はどうして丹羽と帰ってるんだ?……その時からか……。
「付き合っちゃえばいいのに」
「お前、適当言うなよ」
「いやマジで。可哀そうじゃね?だって」
 可哀相というパーツが追加された。俺が丹羽と付き合わないと、丹羽が可哀相なのか。そうか。ある程度、再構築しきった気がする。これまでの、どこともないところから物を考えていた俺とは違い、俺自身の更に内側から外が見えるようになったようだ。これからは、秘密の奥に身をひそめたまま世間を歩けるような気がする。可哀相か、俺がそれを知らなかった場合と、どちらの方が可哀相だろうか。

「丹羽さ、なんでいつも待ってんの?」
 自転車置き場で寄ってきた丹羽に声を掛けた。俺とは思えない張りようで少し驚いたが、それどころじゃない。
「どういうこと?」
 いつものように、丹羽はじっと俺の目を見返した。すっかり気を大きくしていたはずが、俺はその目線からは逃げることしかできなかった。
「先に帰ればいいじゃん、俺の方が遅いんだから」
「待たれたら迷惑?」
「いや別に迷惑とかは……」
 会話が途切れた。あっけないもんだった。しかしそれでも丹羽は可哀相なんだと思うとまあ、やっていける。ぽつぽつと、小さな会話を風に流しながら帰宅した。

『やばいかも!』『助けて』
『どしたん?』
 帰宅してすぐ、友人にメッセージを送った。二、三分で返信をくれるところが良い。私はとうとう、只野に気づかれてしまったかもしれない。バレたくないとは思っていたけど、何が起こるのかまでは予想できなかった。しておけばよかった。
『好きバレしたかも』
『えーやば』『なんで?』
『わかんない~』『でも多分バレた…どうしよまじで』
 既読が途切れた。静まり返った白い壁の部屋の中で、スマホを叩く音と時計の秒針が突然クリアに聞こえてきて、その板を机に置いた。今日の昼休み、何となく只野達がこっちを見てる気がしたから、多分それだ。でも私はあの中の誰にも言ってないのに、なんでなのかを考えると……男子が自分たちだけで突然気付くのは考えづらいし、……あの子が言ったのかもしれない。
そこに思い至ったところで、私は体を椅子に預けた。あっちの子の可能性もあるし、最近あの子もちょっと変かも、と削っていくと、何の疑いも残らない子なんて一人もいないのだ。そんなことは分かっていたはずなのに考えてしまった自分も憎い。一番憎い。なんで皆のことを信じていられないんだろう。毎日笑っているのも辛い。最近、あの子はあっちの子のことで愚痴ってきたから……向こうの子との間でうまく立場を固めないとまずくて……。
永遠に解けない毛糸球を、大事にしなさいと言われているような気がする。私はこの毛糸球の中でも、好きな糸、遠い糸があると思っているはずなのに、皆が私に毛糸球を押し付ける。その時、丹羽じゃないとやだ、なんて言われたら、どこにも返せなくなるじゃないか。誰だってそうじゃないか。なのに私にだけそう言うのは、ずるいんじゃないか……と、思うけど……皆が怖がって手をつけられない球体を、私が突き放すのも、いけないとも思う。
いっそ自分も絡めとられてしまったらどうなんだろう。中々そうはならないのに考えては沈んで、夜すらも背負わされているかのような気持ちで部活の輪から離脱すると、そこに居るのだ。只野が。
あいつは賢ぶっているけど相当鈍いから、女子のいざこざに巻き込まれたりはしない。悩みがあるという雰囲気ではなく、何か考えているんだろうという顔はしている。そんな顔に気付いているのは、きっと私だけなんじゃないのかな。私は曖昧な優越感を取り戻した。

しかし、昨日のやり取りを抜きにしても、確かに丹羽は俺のことが好きだと思えばかなり納得がいく。じっと俺の顔を見て喋るところなんかそうだろう。あとはちょっと、上手く言葉にならないが、一晩考えた結果、俺は全体的にそのような確信が持てた。そうだと思ったら気分がいい。
木田さんを見かける機会はこのところ減っているが、その分俺の目は冴えている。移動教室の時、部活の時、学年集会の時、隙を見てすこしでもその姿を目に留められると、俺はじんわりと満たされる。木田さんはまだ俺が嫌いだろうか、それとももうそんな気持ちは忘れてくれた可能性はないだろうか。今までなら苦しんで自分の心臓を押さえたくなったこの葛藤も、今はしびれる程度のやわい痛みで、どうしてか心地よい。丹羽の一部を人質にとったような気分だった。
「そういえばさー」
「ん」
「最近、木田さんの話しないね」
「……ほとんどしたことないだろ」
 丹羽はどうしてそんなことを聞くのだろう。これでもし俺に、付き合い始めたとか言われたら、傷つくだろうに。その顔を想像してやや気が緩んだ。
「そうかもね。もう好きじゃなくなっちゃったの?」
「お前マジで言ってんの?」
 聞き返してしまってから、俺はスッと頭の裏が冷えたように感じた。こういうやり取りで俺はどうしても負けるのだ。
「なにが?私は気にしてたんだけど」
「気にしてたって……」
「嫌なこと言ってたらごめん」
 緩んだ気がほとんど抜け落ちそうになったところで、謝罪の言葉がその隙間に入り込んできた。処理しきれなかった現実が、輪郭をはっきりとさせてくる。
「え、どゆこと?」
「だから、もう好きじゃないのって聞いたら、マジで言ってんのって言ってきたじゃん。……してほしくない話だったのかなって」
「あ、ああ……全然。大丈夫。なにもない」
 丹羽はまだ怪訝な顔をしながらも、とりあえず呑み込んだという空気だった。
「寒いね」
「おー……寒いな」
 まだ処理できない。丹羽の言動がありのままの事実として流れ込んでくる。機械の様に繰り返すと、丹羽はいつもの調子で俺をじっと見て、前に向きなおした。
「なに?」
「ううん。珍しー」
「え?」
 丹羽は答えなかった。鈍い明るさの信号機が、高いところから、早く通れと点滅する。俺の現実は処理落ちして、その輪郭を暗い中に隠していった。
 
 
 只野は最近、性格が悪くなった。恋心を勘づかれて戸惑っていた少女の自分が可哀相に思えてくる。攻撃的というか、ほんの一突きだけで私を刺そうとしているような態度がちらちらとうかがえる。これは何なのだろう、と思ったら友達にメッセージを送りたくなるのだが、やめた。最低じゃん、とか、やっと目が覚めたか、とか言われるのだと分かっているから。只野は他の女子が言うほど悪い奴ではない。
 けど、良い奴でもない……というのはとっくに分かっていたはずだ。その不完全なかたちをこそ、私が支えられたらと思っていた。しかし届かない。その実感が徐々に固まりつつある。ばれたらどうしよう、という焦りには、当初少なからずの期待も込められていた。だが実際に恋心を見破られて、起こった変化といえば……。只野は私自身よりも、私と自分の間を見て喋るようなところがずっとある。
 もうやめよう、と口には出せなかった。

 自転車置き場に着くと、丹羽の自転車がなかった。間違いなく部活には行っていたはずだ。何かあったのかもしれない。カラカラと何かが音を立てる自転車で走り出す。

 やはりいない。今日も部活に出ているところは見た。自転車で来ていないのだろうか?久しぶりに暗がりの中で頼りなさを覚えつつ、走り出す。

 分かった気がする。丹羽は俺に興味が無くなったのだ。今日も自転車は無い。何かしただろうか、と実はここ数日、悩んでいる。しかし何も思い当たらない。話したことのない木田さんとまた目が合った。しかし前と同じようにそらされた。何も変わっていない。丹羽の話を友達としたこともない。何も変わりようがない。俺も、とうとう丹羽を好きにはならなかった。
 最近、自転車が突っ切る空気が、ほんのりと柔らかさを帯び始めている。無視できない心臓の穴に啞然としながら、埋める手立てのないその穴に残冬の風を通した。取り残された。


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