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誰かの便利さは、誰かの不便さにつながっていると気づいた、左利きの記憶

みんなにとって当たり前でも、ほかの誰かにとっては当たり前じゃないということは、この世の中にけっこうあるんじゃないかと思う。

生まれてこのかた、左利きとして生活していると、どうしても小さな困難に出合うことがある。その違和感に出くわした時、実際の大変さ云々よりも、心がショボンとしぼんでしまう。

この世は私のためには作られていないということを、小さい頃から教え続けられているようだった。

最初の挫折は、ハサミだった。

幼稚園の頃、みんなが上手に使えるハサミを、私はうまく使えなかった。作用点への力のかけ方がわからない。

今思えばそれもそのはず、右利き用のハサミなのだから右手で使うように作られていたのだ。そんなこともよく分からず、悔しくて練習した。そして気づいたら、左手で右利き用のハサミを使えるようになっていた。

今でこそ、左利き用のハサミが登場していて、この変化がとても嬉しいのだけど、実際に左利き用を使ってみて驚いた。全然切れない。私の手はもはや、右利き用のハサミを左手で使うことしかできなかった。

次はグローブ。

小学校の頃、体育の授業などで使ったあのグローブ。私の学校には右利き用のものしかなかった。

では、どうしていたかというと、まずグローブを付けた左手で普通にキャッチし、ボールを右手に持ち直す。そしてすぐさま右の脇下にグローブを挟んで外す。右手のボールを左手に持ちかえ、左手でボールを思いきり投げる。

これはロスだ。それもかなりの。野球はグローブを取ったりなんたり、そういうものじゃないだろうと突っ込みたくなる。いや、実際に突っ込まれた気もする。だが、その一連の動作を素早くスムーズにやるワザを身につけて、それなりに楽しんでいたのを覚えている。

そして一番困ったのが、改札。

改札の存在しない県で育ったので、大学生になって実家を離れて初めて、改札というものに出合った。

利き手ではない方の手で、あの狭すぎる口に小さな切符を通す。手がぷるぷる震えて、なかなかうまく入らない。

ただでさえ難しいのに、小心者の私は、改札に並んでいる段階ですでに、うまく入るだろうかと緊張していた。

改札を通る度に、試されている感覚。

立ち止まると、後ろの人を待たせてしまう。人の流れを乱すことはできない。私はあえなく、左手でクロスして差し込む道を選んだ。

最近はICカードが主流になって、驚くほど楽になった。パネルにカードを押し付けるくらいなら、私にだって右手でできる。前を向き、颯爽と通り抜けられた時の小さな達成感を、私は静かに味わっている。

そうだ、注ぎ口の付いた、あの片方とがったお玉もそうだった。

小学校の給食当番で汁物を注ぐ時に出てきて、その度に私を戸惑わせたあのお玉。左手で注ごうとすると、手首を逆にひねらなければいけない。痛い。手首が「こっちは無理だ」と言っている。でも、右手では上手に注げない。手首の痛さを感じながらも、注ぎ続けた記憶がある。

挙げ出したらきりがないのだけど、自販機だって右側にお金の投入口があるし、この前、間違って買った刺身包丁も片刃だった。左手で握ってみたら、刃の斜面が見えず愕然とした。

つらつらとしつこく書いたが、でもだからといって、左利きにもっと寄り添ってほしい気持ちは微塵もなくて、逆にそういうマイノリティだからこそ、工夫して乗り切っていこうとするのも案外面白いんじゃないかと思っている。

ただ、世の中はたぶん、便利さ競争の真っただ中にあって、どうしたらより使いやすいものになるかとか、どうしたら人間の負担が減るかということに目が行きがちだけど、給食当番のお玉みたいに、誰かの便利さのために進化させたと思っていたことが、誰かの不便さにつながっていたりもするということを、自戒をこめて、忘れずにいたいなと思う。




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