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【短編小説】反転

 人生は、だれかに見られる日と、見られない日とでできている。
 そんなあたり前のことを、こふみはいつから考えるようになったのだろう。今日はパートがあるから、最低限のメイクが必要だし、穴の空いた靴下も履かない。多少の毛羽立ちは許されるにしても、毛玉まみれのセーターは着ていかないようにしている。

 週に四日のパートは、健全な心と体を守るためのぎりぎりの日数で、これ以上多くてもしんどいし、少なくても暮らしが立ちゆかなくなる。何より今日は鎌田さんに会える日で、正確に言えば見ることのできる日で、いつもならメガネで済ませるところだがいそいそとワンデーコンタクトを装着した。


 こふみのパート先は家から歩いて五分の、地方のスーパーマーケット。鎌田さんは週に一度やってくる本社の社員で、パート従業員の管理をしている。
「体調はどうですか?」
「困りごとはないですか?」
 などと細やかに声をかけてくれるので、従業員からの信頼が厚い。もちろん、こふみも例外ではない。

 二ヶ月前まで総菜コーナーの担当だったが、油の匂いがキャパ超えしたのか、頻繁に立ちくらみを起こすようになったので、鎌田さんに相談してレジ係にかえてもらった。


 ようやく、レジにも慣れてきた頃、「そんなとこにヨーグルト載せないで」と、客に叱責されたことがあった。四連タイプだから大丈夫だろうと、牛肉のパックの上に置いたのがいけなかった。あんた信じらんない、という顔でこふみを見る女性の目を、こふみは忘れることができなかった。
 
 バーコードを通し、カゴの中に商品を積みかさねていく作業はもはや、修行のようだと思った。商品の保護に加えて、スピード、渡すポリ袋の枚数など、気を抜く暇がまったくない。

 どの順番が正解なのかと考えれば考えるほど分からなくなり、もはやこれまでと鎌田さんに辞職の話を切りだすと、これからはセルフレジを導入するからその担当になってほしいと、優しい笑顔で引きとめられた。

***

 三寒四温。春が近づくと毎年、何を着ればいいのか迷ってしまう。

 薄手の白黒のチェックシャツに、焦げ茶色のコーデュロイのパンツを合わせてみる。見たことのない組み合わせだった。出合ったことのない服たちが「はじめまして」と言い合っていて、こふみは鏡の前でひとりおかしくなって笑った。

 外に出ると、まだ肌寒い。もう一枚羽織ってくればよかったと後悔しながら、身を縮ませて職場まで歩く。
 
 通用口から休憩室へ入ると、ロッカーの前に鈴江さんが立っていた。
「あ、おはよ。こふみちゃん」
 緑色のエプロンをつけようと腰の後ろに手をまわしている。従業員用の白いジャンパーは着ても着なくてもいいけれど、鈴江さんはいつも着ている。だから、こふみも着るようにしている。
 
 鈴江さんはこふみより八歳も年上なのに、丸顔でくりっとした可愛い目をしている。その名のとおり、鈴が揺れるような茶色い瞳で、その鈴に好感を持たない人はいないだろうと、こふみはひそかに確信していた。

「おはようございます」
 ノックの音と同時にドアが開いて、溌溂とした声が休憩室に響いた。
 不意打ちの鎌田さん。心臓がドキンと波打つ。
 朝の顔出しをしただけのようで、またどこかへいなくなった。

 鎌田さんは三十代後半ぐらいの男性で、言うほどイケメンではないけれど、イケメンのようにいつも堂々としていて、青い細身のスーツと落ち着きを身につけている。社会で信頼を得るためには、顔のパーツうんぬんよりもずっと大事な要素だと、こふみは思う。
 
 何より好きだったのは、パート女性に話しかける時、薬指の指輪をまわす仕草だった。意識的なのか、無意識的なのかは分からない。でもきっと、家庭を大事にする人なのだ。だから大丈夫。
 
 見放題の安心感がそこにはある。
 
 こふみがどれだけ鎌田さんを見ても、その熱は伝わることなく、ちりぢりに消え失せてしまうのだ。その不毛さが、こふみの心を軽くしていた。
 
 整えられたあご髭。はきはきとした語り口。的確な指示をだす細い指。優しそうな眉の合間に、ときたま深く刻まれるシワ。そんな鎌田さんを見るために、こふみはここでパートをしている。
 

 九時五分前。
 始業前のチャイムが鳴って、こふみが持ち場へうつろうとしていると、
 「どっちがいい?」
 と、声をかけてきた鈴江さんが、探ったエプロンのポケットから取り出したのは、ハチミツ味ののど飴と、ブドウ味ののど飴だった。
「あ、ありがとうございます。じゃ、ハチで」
「はい、どうぞ」
 やわらかく笑う鈴江さんにつられて、こふみも自然と口角が上がる。と同時に、まさか、と思う。こふみは今朝から喉が少しひりっとしている。こんなわずかな不調を、鈴江さんは察知したというのか。いや、まさか。飴をとろうとおそるおそる手を伸ばすと、鈴江さんの赤くヒビ割れた指が目に入った。 
 
 母親のように気のまわる鈴江さんはホンモノのお母さんで、小学生の子どもが二人いる。首にかかったネームカードには『すみっコぐらし』のざっそうシールが、いつも小さく微笑んでいた。すみっこに住むキャラクターのなかで唯一、すみっこではなく、どこにでもいる生物らしい。
「ざっそうは社交的でポジティブだから、お母さんみたいだね」
 そう言って子どもたちが貼ってくれたのだそうだった。
「ざっそうってねえ、どうなの」
 鈴江さんがころころと笑うので、こふみも合わせて曖昧に笑った。ざっそうになるのも極めて大変なことなのだと、こふみは鈴江さんのネームカードを見るたびに思う。


 飴をなめながらセルフレジコーナーへ移動すると、寝ていた子どもを起こすみたいに、丁寧に電源を入れていく。
 今日の調子はどうだろう。
 みな機嫌がいいといい。
 左右に並んだ六台の、どのレジにも個性がある。立ち上がりのいいもの、読み取りの遅いもの、カードの読み取りだけは速いもの。こふみの仕事は、この子たちの働きにかかっていた。
 
 開店時間を迎えると、ドアの前で待ちかまえていたお客がいっせいに入店しはじめる。今日は卵が安いせいだろうか。いつもよりも、人が多い。十分も経たないうちに、セルフレジにも数人がやってきた。
 
 こちら空いてます。ありがとうございました。こちらどうぞ。年齢確認ですね、失礼します。ピッピッ、失礼しました。袋はあちらです。ありがとうございます。こうして、こふみの日常はするすると流れていく。



「うわあ、久しぶり!」
 ふっと大きな声がして、こふみは反射的にそちらを見た。
「いつぶりかしら。あら、切った? え、素敵。いやんほんと、素敵!」
 ともに五十代ほどだろうか。冷凍コーナーの前でふたりの女性が立ち話をはじめた。
「うわあ、ばっさり。モダン、モダーン! 素敵だわ。よおく似合ってる!」
 ふくよかな女性の声は感動にあふれ、身ぶり手ぶりにも余念がない。
 きっといい人なのだろう。全身で心から賞賛しているのが伝わってくる。
 さて、どれほど素敵なのだろう。
 そう思ったのはきっと、こふみだけではなかったはずだ。
 冷凍コーナーの前を通るお客は、皆そちらに視線を送った。
 
 相手の女性は、ショートヘアがよく似合っていた。こざっぱりとして、清潔感が十分にあった。それでも、勝っていたのはホルン女性の熱量だった。ショートヘアの女性を見た人の表情は、皆よく似ていた。ショートヘアの女性は気まずそうにうつむくと、足早にその場をあとにした。
 
 ホルンとショートヘア。ふたりの世界のはずだったのに、のぞき見はだれもかれをも強気にさせてしまうのだ。

***

 日曜日の朝は、決まってだるい。
 くわえて今朝は変な夢を見たせいか、こふみのこめかみはまだきりきりと痛んでいた。
 どのトイレに入っても、トイレットペーパーが金属になっている夢だった。個室を十カ所ほどかけ合ったのち、催しに負け、用を足す。おそるおそる、紙のようにうすいその金属を手に巻きつけて拭きあげると、飛びあがるほど冷たくて、自分の声で目が覚めた。

 単に、尻が布団から出ていたせいかもしれない。今日は日中晴れるのか、朝、一段と冷え込んだ。西向きの古いアパートは、外より気温が下がるのだ。尻にうすい布団をかけ、しばらくじっとした後、ようやくのそのそと布団からはい出した。

 スーパーのパート従業員は子どもがいる人も多いから、日曜日はよくこふみにシフトがまわってくる(鈴江さんは日曜日もよくいるけれど)。
 不満はないが、なんとなくだるい。
 だから、朝ごはんはいつもより少しぜいたくにしている。普段は安売りのシリアルで済ませるところを、今日は人気のパン屋のスモークサーモンサンドと、クルミブレッド。合計五百八十円を木皿に載せ、茶色のちゃぶ台の上に、ことん、と置く。
 コーヒーを淹れようと食器棚から取りだした緑色のカップは、母がまだ元気だった頃、いっしょに百貨店の陶器フェアで買ったものだった。こふみちゃんと色違いがいい、と子どものようにせがんだ母は、病院でもよくこのカップをつかっていた。こふみのは黄色だったけど、母が亡くなる十日前に、不注意で割ってしまった。だから今、こふみの手にある緑色のカップは、とても大事なものだった。
 
 台にカップを置いた瞬間、親指の先がちくりと痛んで、赤く小さな玉がぷくりとふくらんでいく。
 カップを見ると、縁が三角に欠けていた。
 こふみは、親指とひとさし指のはらをすり合わせて赤い玉をもみ消すと、思わずため息をもらした。いったい、いつ欠けてしまったのだろう。

「不運をね、不運だと思うと、負けてしまうけん。簡単に、不運の思い通りにさせてはいかんよ」

 ふと、母の声がよみがえる。
 生前、母がよく言っていた言葉。
当時はぴんとこなかったのに、最近よく、こふみの耳元へと降りてくる。

 そうだ、とひらめいたこふみは、左手に持っていたカップを右手に持ちかえた。持つ手を変えれば、飲み口も変わる。これでまた、しばらく使えるだろう。思い通りにはさせないと、こふみは小さく微笑んだ。
 
 薄めのコーヒーを淹れて朝食の準備が整うと、こふみはちゃぶ台の前に座った。それにしても、華やかな朝ごはんだ。ブーランジェにデザインされたであろう、端正な姿をしたパンたち。主張のない円形の木皿は、それらの魅力を最大限に引き出していた。
 
 緑色のカップを左上に置くと、「これならSNSにも耐えうるな」と、こふみは小さくつぶやいた。
 
 もちろんこふみがネット上に写真をあげたことなど一度もない。でも、この朝食なら、だれに見られても平気だ。だれにも見られていない時に、だれにでも見られてもいいと思えることほど最強なものはないと、こふみはつねづね思っている。そしてその逆はというと、想像するだけでおそろしくなる。
 

***

 今日のお昼休憩は、気楽だった。
 鈴江さんは夜ごはんの買い出しをして、いったん家に帰ると言っていた。ほかの従業員も外に出たから、休憩室はこふみひとりだった。総菜のおにぎりとパセリが添えられた唐揚げを買ってきて、ささっと済ませた。

 安らかな気持ちで迎えた午後、早々に、穏やかでない声がした。

「おれは、客だぞ」
 日常的には、耳にしないセリフだった。

「こんなこと客にさせやがって。パンも買わせてもらえんのか」
 七十代ほどだろうか。灰色のニット帽に、カーキ色の上着を着た男性が、顔を真っ赤にして怒っていた。セルフレジの画面を確認すると、エラーが出ていた。
 
 もちろん、こんなことはよくある。読み取りエラー、カードの不具合、二重通し、年齢確認などなど。そのためにこふみがいるのだ。

「申し訳ありません。すぐ、もとに戻しますので」

 いつものようにネームカードのバーコードを通し、解除の手続きをはじめたのだが、いつも通りでなかったのは、客の怒りがおさまらないことだった。

「おれにまた、このレジをやれというのか。お金を払う客に労働をさせるのか」

 セルフレジで怒りだす人は、稀にいる。だいたいの人は謝ったり手解きをしたりすれば、気むずかしそうな顔をしながらも操作を続けて帰っていく。しかしながら、今回は違った。
 
 対面レジは、どうだろう。
 鈴江さんのレジも、もうひとつのレジも、返品対応や商品場所の案内に追われているのか、珍しくクローズになっていた。
「申し訳、ありません」
 こふみはとりあえず謝り、使い方の説明をしようとしたが、もはや男性はそっぽを向いてこちらを見ようとしなかった。

「わたしがレジを通してもいいでしょうか」
 平淡な言い方になったのがまずかったのだろうか、男性は堰を切ったように、こふみに向かってがなりはじめた。

「だいたい、たまたま寄ったスーパーなのに、突然やり方なんか分かるわけねえだろ。あんたらのルールだろ、これ」
 顔面に大きな唾が飛んできて、こふみは思わず顔をしかめる。
 
 不運だけど、ここは忍耐。頭を垂れたまま男性のカゴをちらりと見やると、半額になった食パンと見切り品のあんパン、レトルトパウチのおかゆがふたつ入っていた。

「てかあんた、ひとの監視なんかしやがって。いい身分だよな」
 
 徐々にヒートアップしてきたのか、男性の目には憎しみにも似た何かがゆらゆらと漂っていて、こふみはたまらず目をそらした。

「万引きする悪いやつとか、レジできないアホとか、その垂れた目でじろじろ見張ってんだろうが」

 申し訳、ございません。首にかかったネームカードを握りしめ、こふみは声を絞った。いったい何に謝っているだろう。不運な日はたしかにあるし、それは仕方のないことかもしれない。
 
 そう思いかけた瞬間、歯切れのよい声が、こふみの後頭部を通過した。
「申し訳ございませんでした。さ、こちらのレジへどうぞ」
 男性のカゴをすっと持ちあげ、対面レジへと誘導する。

 今後は分かりやすく表記しておきますので、どうぞお許しください。スーパーも人員不足なものでセルフレジを導入しましたが、まだまだご不便をおかけし申し訳なく思います。対面レジをお使いいただければよかったのですが、なにぶんレジ数が少ないものでご迷惑をおかけしました。指導し改善して参りますので、この度は何卒ご容赦くださいませ。鈴江さん、お願いします。
 
 流れるような謝罪を前に、男性は口をはさむ隙がないようだった。さまよった瞳から、さっきまでの炎が消えていく。
 どうぞこちらへ。お待たせしてしまい、大変申し訳ございません。
 引き継いだ鈴江さんのにこやかさと、レジスピードも相まって、男性は塩もみされたナスのようにへなへなと萎んでいく。品物を受けとると、鎌田さんと鈴江さんの深々と美しいお辞儀に見送られ、男性はとぼとぼと、ガラス張りの自動ドアから出て行った。

 その背中を見届けた瞬間、こふみのひざががくんと崩れた。脚が震えていたのだと、その時ようやく気がついた。鈴江さんがやって来て、ぽんとこふみの背をたたく。
「気にしない」
 にこりと笑うと、お客さんの待つレジへとかけ足で戻っていった。
 一連の出来事は店内の注目を集めていたはずなのに、こふみに視線を向けてくる人はいなかった。

 大きく息を吸って吐き、立ち上がろうとしたその時、茶色の革靴がこふみの前でとまった。
「小林さんは何も悪くないですよ。機械の問題ですから。あの男性はおそらく、見られる用意ができていなかったのでしょう。あるいは、うまくできなかった自分を許せなかったのか、何か今、苦しいことがあるのかもしれませんね」

 鎌田さんは早口で言うと、奥のほうへと帰っていった。鎌田さんの靴はぴかぴかに光っていて、ほこりひとつ見あたらなかった。
 

ようやく一日が終わった頃、こふみは抜け殻のようになっていた。ロッカーの前でエプロンをはずし、よろよろと帰る支度をする。鈴江さんは夕食の準備があるからと、慌ただしく帰っていったあとだった。

「こふみさん、今晩あいていますか?」
 突然の声に驚きそちらを見ると、ドアのすき間に鎌田さんの顔があった。息を吸う音がひゃっと漏れる。鎌田さんの質問を何度か反芻したものの、うまく飲みこむことができなかった。首を横にかしげると、鎌田さんは笑って、もう一度同じことを言った。鎌田さんの手は、薬指にある指輪をさわっていなかった。

「今日は疲れたでしょう。慰労もかねて、食事なんかどうかなと思って」

 こふみは目をしばたいた。断る理由なんてあるだろうか。
 断る理由……。いや、待てよ。あるには、ある。鎌田さんは既婚者だ。でも既婚者がなんだ。既婚者は誰とも食事をしないのか。食事ぐらいするだろう。どうってことない。いや、どうってことあるかは、わたしが決めることじゃない。いや、でも、わたしは、浮ついていない鎌田さんが好きだったんじゃないのか。どれだけ見ても見放題の、鎌田さんのことが――。
 
 脳内でせめぎ合いをしているうちに、鎌田さんは場所と時間をすらすらと告げた。こふみはつい、こくりと頷いた。

 鎌田さんに連れられて来たのは、スーパーにほど近いイタリア料理店だった。
「こういうとこ、あまり来たことないです」
 こふみが正直に言うと、それはよかった、と鎌田さんは嬉しそうに笑った。

「まあ、気楽なとこですよ」
 緊張をほぐそうとしたのか、こふみの肩に両手をぽんと置いたので、こふみはさらに硬直した。

 案内された席に着くと、鎌田さんはすぐさま、前菜はこれとこれ、メインはこれでいいかな? パスタは食べたいのある? と、こふみに細かく訊いてきた。こふみはそんな鎌田さんを眺めながら、首をこくこくと縦にふった。

 注文がひと段落すると、赤ワインの注がれたグラスがふたつ、テーブルに運ばれてくる。
「じゃあ、おつかささま」
 鎌田さんがこふみを見て、くいっとグラスを持ちあげる。こふみもあわてて真似をする。ワインを飲もうと顔を上げる瞬間も、目だけは鎌田さんを追っていた。
 鎌田さんはグラスをテーブルに置くと、今日は災難だったねえと言った。いろんなお客さんがいるから気にすることはないんだよと、自分がこれまで出会った困ったお客について、話をはじめた。こふみはただ黙ってその話を聞いていた。

「それにしても、こふみちゃんって、目力あるよね」

 メジカラ。とっさに、そんな名前の鳥がいただろうかと思った。というか今、こふみちゃん、と呼んだ? 脳が混乱しはじめる。

「癒やしっぽいふりして、その眼の奥はけっこう鋭い感じするよ」

 鎌田さんはそう言って目を細めると、グラスの赤ワインを飲みほした。ようやく言葉の意味にたどりついたこふみは、顔を赤くしながら、そんなこと、ないです、と否定した。
 視線を下げ、ワイングラスの細くなった部分を見る。正面に座った鎌田さんの、どこを見ればいいのか分からない。

「けっこう見てるでしょう。ぼくのこと」

 こふみの心臓がドクンと鳴った。
「普段は仕事だから、気にしないふりしてるけど。あれだけ見られたらさすがにねえ」
 氷を押しつけられたかのように、全身が震えだす。
 鎌田さんは酔いのせいか、どろっとした目をしていた。
 とにかく、否定しなければ。何か言いかえさなければと、こふみは思った。

「あの、鎌田さんは愛妻家だって聞いて。だから、いいなあって。わたしも、もし結婚することがあったら、鎌田さんみたいに大事にしてくれる人がいいなあって妄想していたんです。そんな予定は、ないんですけど」
 むりやり笑ったこふみの声は、空っぽの段ボールをふったような音がした。 

 鎌田さんはじっと固まったまま、動かなかった。わたしは渋いワインを、思いきりごくりと飲みこんだ。
「そんなふうに思われていたなんて、知らなかったなあ」
 鎌田さんが遠い目をして、ぽつりと言った。
「みんな、言ってます。お子さんも、まだ小さいんですよね」
「ああ、もうすぐ一歳」
「可愛いでしょうね」
「うん、可愛い」
「いいですね」
 一歳の子どもを想像し、こふみは純粋に嬉しくなった。
「けど、なかなか、なじめなくてね」
 なじめない? 返答に困っていると、鎌田さんは丸いチーズをぱくりと口に放りこんだ。
「たとえば、こういう時間とか」
 意味が分からず、鎌田さんの顔を見て、ぎょっとした。
 それは、こふみの知っている鎌田さんの顔ではなかった。眉尻の位置。鼻と口の距離。頬の硬度。もともと端正な顔立ちではなかったが、すべてがおかしい。
「とにかく、子どもがいると忙しいんだ。世界軸が子どもだから。ぼくはもう、家にいないほうがいいのかもしれないって、最近よく思うんだよ」
「そんな、こと」
 鎌田さんが、右手で髪をかきむしる。顔がさらに崩れていく。
「何やっても、ぼくは邪魔」
 こふみは差支えのない返事を必死に探した。

「でも、手伝ってもらえたら、奥さんも助かるんじゃないんですか」
 鎌田さんは、頬だけで苦々しく笑った。
「それが、そうでもないんだよ。奥さんに手伝おうかって言うだろ。そうしたら、もうアウト。手伝う、って何? そんな意識でいるのかって激怒。親なんだから対等でしょうって。でもさ、そう言われても、できないことはできないよ。ミルクひとつ作るのも、彼女のやり方があるでしょう。ぼくにはダメだしばっかりだから。ようやく覚えたと思ったら、成長に合わせてミルクの種類を変えたとか、好みが変わったとか、温度が変わったとか、また全部、変わってるしさ」
 大きな息を吐いたあと、鎌田さんは目を閉じた。

「覚悟がね、違うらしい」
「覚悟?」
「あなたには、父親の覚悟がない、って。いつも、そう言われる。でもさ、そんなにガンガン言われたからって、覚悟が決まるわけでもないでしょう?」
 鎌田さんの首根から、しゅるしゅると何かが抜けていくようだった。好きだった青色のスーツはこんなにも鈍い色だっただろうかと、こふみは思った。

「仕事から疲れて帰ってきても、赤ちゃんは夜中泣くわけよ。それで奥さん、イライラしてぼくに当たるでしょ。ぼくだって眠い目こすって起きてみたこともあったけど、泣きやむわけないじゃん。ぼくが抱くと、余計泣く。それでさらに奥さん怒るし、お手上げだよ」

 こふみは、相づちさえうまく打てなかった。

 視線をはずし、ふとテーブルを見る。
 そこには、普段、お目にかかれないような美味しそうな料理が、ところ狭しと並んでいた。
 
 とりあえず食べよう。こふみはそう思った。

 前菜のサラダ。なすとトマトを煮たもの。チーズの香るオムレツ。赤ワインで煮込まれた牛肉。カニの殻が乗ったクリームパスタ。あれもこれも食べてやる。こふみはそれらを皿に取って、どんどん食べた。
 ふと、おいしい、とつぶやく。
「あ、これ、パンチェッタだよ。こふみちゃん、こういうの好きなんだな。覚えとこ」
 満足そうにうなずく鎌田さんは、見たことのない奇妙な顔に仕上がっていた。
 
 こふみは寒気を感じながら、自分はほんとうにこういうのが好きなのだろうかと思った。このパンチェッタ、というものが。たった今ぽろりとこぼれただけの言葉を信用してもいいのだろうか。わたしは今までほんとうに、鎌田さんを信頼していたのだろうか。こふみは何もかもが分からなくなった。

 鎌田さんは少なくとも結婚する時、奥さんのことを好きだったにちがいない。子どもが生まれてきた時だって、感動したにちがいない。一生守ると泣いて誓ったかもしれない。それなのに、今こんな顔をしている。

「おれさ、こふみちゃんが思っている以上に、こふみちゃんのこと見てるよ。エプロンのリボンは、いつも輪っかより先のほうを長くするところとか。親指と人差し指のあいだに小さなほくろがふたつあるところとか。ポリ袋のロールの巻きとり方からして、トイレットペーパーはシングル派でしょ。バーッと引くの好きなんだろうなって。この予想、あたってる?」

 得意げに笑う鎌田さんを、直視することができなかった。
 こふみはシングル派だった。夢で見た金属片のトイレットペーパーを思い出し、体の芯まで冷えきっていく。

「見られるのが苦手なのも分かってるから、見てないふりしてたけど」

 にかっと笑う鎌田さんが揺れて見える。こふみは止まりかけた呼吸をつづけるのに必死だった。

 
 遅いから送っていくよと、鎌田さんはこふみのアパートまでついてきた。古い二階建ての小さなアパート。その二階だと言うと、鎌田さんはうっすらと笑みを浮かべた。
「職場からこんなに近いなんて知らなかったな。また今度、ぷらっと立ちよるよ」
 こふみは小さく頭を下げると、いそいで外階段を駆けあがった。二階に上がり、下を見ると、鎌田さんはまだ同じ場所に立っていた。こふみの視線に気がついて、嬉しそうに両手を大きくふっている。

 こふみは手をふりかえすことなく、部屋に飛びこみ鍵をかけた。
 酔いはとっくに冷めていて、吐き気と悪寒がこみ上げてくる。
 
 不運かもしれないけれど、不幸にはならない。こふみは強くうなずくと、ふるえる手で携帯を取りだし、求人サイトをひらいた。

              


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