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【小説】薄紫の茜の夕陽を見て

不妊治療を辞めようと決めてから
私たちの間には一切の交わりが無くなった。

義務と化していたそれはどうやら、消滅した事により2人に心地よい空気をもたらしたらしい。

均衡を崩そうとはせず、この状態を維持し続ける事が最良だという暗黙の了解が月日をかけて出来上がっていった。



いたのだが。

今年、近年稀に見る猛暑が到来した。

その日は酷く蒸し暑くて、朝からずっとエアコンが付いたままの部屋は、すべてのものが芯から冷やされていた。

もう1年以上触れていない夫の暖かな手が私の肩に触れ、「冷たいね」と言った時、均衡は崩れて、どうしようもなくもっと触れて欲しいと思ってしまった。

子供を作ると言う大義名分がこれっぽっちも含まれない久しぶりのそれは、平穏を飲み込む嵐の様に一瞬で過ぎ去っていった。

平穏を誓い合った私たちに、この日がこれから何をもたらすのかなんて考えられない程には満たされて眠りについた。


明くる日の午後。

夫がスマートフォンを手に、目を伏して小さく呟いた。
昨晩、有名な若手俳優が自殺したらしいと。

彼のことは勿論夫婦共に認識していた。
彼が出た映画もドラマも何作品も観た。
特別にファンだという訳ではないけれど、好きな俳優にカテゴライズされる人だった。

その時、私は悲しいという感情を確認するのと殆ど同じタイミングで、自分の身体の細胞が目的を遂げるために自発的に動いているのを感じた。

感じたというよりももっと、強く、直感した。


今まさに終わりゆく生命と、生まれようとする生命が、一晩に共存した事実に何故かとても感傷的になってしまった。

気が付かない勢いで涙が溢れた。  

共感性の高い私を、夫はおそらく違う解釈で思い遣ってくれたけれど、私も自分の感情の在りかが正確にはどこにあるのかわからずに、一つ一つ扉を開けては、なんだか違うと思いながら、訳も分からず泣いた。


次の日。

母親を実の息子がかまどで焼き殺したというニュースが報じられた。

先月は、母親が小さな女の子をマンションに閉じ込めたまま放置死させたという事件があったばかりだった。


私は酷く混乱する。

この世界には、
自ら生命を絶つものがいる。 


自分という生命を生んだ存在を、
絶つものがいる。

自ら生命を生みそしてそれを、
絶つものがいる。


当たり前に子供が欲しいと思っていた。
二人の血を分けた子供が欲しいと。

それは間違いなく純粋な愛であると信じて疑わなかった。

様々な方向から終わりを告げた生命がひと夏にいくつも横切っていき、
私達が思う愛とは一体何なんだろうかと、根幹が揺らいでしまった気がした。



「妊娠してますね。既に心拍も確認できます。」

2年ほど前に通うのをやめてしまったクリニックの院長が淡々と告げた。

このシチュエーションを、少なくとも治療を続けていたあの頃はどれ程待ち望んでいたか分からない。

「ありがとうございます。」

ぼんやりと頷いた。
モニターを目にするとエコーの中で小さな塊がピコピコと動いているのが見える。
私達が信じた愛は、そこで確かに生命となっている様だった。

クリニックを出て駅へ向かう途中、道路脇に蝉が裏返っているのが見えた。ジリジリと大きな羽音をたてるが、もう飛ぶ事は出来ないらしい。

蝉は一夏中も生きることが出来ない。きっとこの蝉は1週間ほど前に成虫になり、何年後かの夏にまた生まれる子供のために鳴いて鳴いて、生涯を全うしたのだろう。 

私たちにも限られた短い寿命があって、そこには絶対にこなさなければならない生理的活動が備わっていさえすれば、何も考えずに生きて生涯を全うできるのだろうか。

生きるのに、
人間は選択肢が多過ぎるし、
考える時間もありすぎる。

あれだけ欲しいと切に願った生命は、いつかもしかしたら、この世から消えてしまいたいと思う日が来るのだろうか。

どうして自分を生んだのだと、私たちが信じて止まなかった愛を受け入れられない日が来る事も有るのだろうか。

思考は止まらずに脳内を掌握しようとする。

振り払う様にと、黙々と歩道橋に続く階段を登る。塗装が剥がれ、剥き出しになった錆び付いた手すりは、微かに熱を帯びてはいたが夏の盛りはとうに過ぎた事を物語っていた。

橋の中腹に、母親と手を繋いだ3歳くらいの男の子が西の空を眺めていた。そこは薄紫と茜色から紺色にと、美しい色の交わりを示している。

「あの色の折り紙か欲しい。」

彼はそう呟いた。

「僕はこの空の色の折り紙で、お母さんと僕が乗る船を作りたいなぁ。」

ふふふ、と笑う母親の顔は見れなかったけれど、彼らの纏う空気はその夕日のように柔らかかった。

スマートフォンがなる。
夫からの写真付きのメッセージだった。
違う角度から撮ったこの夕日の写真だった。

「今日の晩ご飯は、僕が完璧な半熟の月見うどんを作ります。」

茜色の輪郭をもった夕日を見て卵を思い浮かべる人もいるんだなと思う。

そんな夫は、彼の母と父の信じる愛によって形成された生命であってここに存在する。
そして、その父と母も同じ様に。
輪のように生命が繰り返された結果。

恐らく子どもが産めない体であると知った時は、自分はその円環の枠外に弾き出された存在だと思っていた。

でもいざ、自分の腹の中に自分と異なる生命が存在する事を知ると、その生命は私がコントロールできる範疇からは既に逸脱している事を思い知る。

円環は私の中になど初めから無い。
私が介入する事のないもっと広い枠に存在している。

この暑い夏に通り過ぎていったいくつもの生命は輪廻を辿りまたこの円環に戻ってくるのだろうか。
そしてその時は、前に見た世界よりもごく僅かであったとしても、もう少しここに居たいと思える世界であればと思う。


そう。

いま生まれようとするあなたにとって世界は、もしかすると、私が見ている程には美しいものではないのかも知れない。

そして、恐らく私が知り得る事のない終わりが、いつかあなたに訪れたとしても。

それでも私はこの美しい夕日を見たあなたが、どんな言葉にしてそれを伝えてくれるのかをどうしても知りたいと思ってしまう。

どうしようも無いエゴだとは分かっている。

それでもこの夕日の美しさを、世界を、あなたに知って欲しいと思ってしまうのだった。



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