つきこ

読書感想と雑記とたまに物語なんかを。

つきこ

読書感想と雑記とたまに物語なんかを。

最近の記事

ヨルとシーラカンス

目の前にいびきをかきながら上下する腹がある。 皺だらけのシャツの裾がだらしなくスラックスからはみ出ていた。 東京に残した妻と毎日暮らせば、こういう所にも気を遣える男になるのだろうか。 その場合気を遣うのは妻であってこの男では無いのだから、この男が変わることはないのだ。 私は残業を終えて彼が「棲む」ビジネスホテルに向かう。いつの間にか眠ってしまったのか、入り口以外のライトは付いていなかった。 窓の外から見えるネオンはコインパーキングの黄色い看板位で、あとは遠くの方に人の住

    • 【エッセイ】せっかくだからもう一周

      その日の天気のように私は浮かれていた。 姉にねだって借りたスキニーデニム。御幸町通りの古着屋で買ったコットンの白いワンピース。そして入ったばかりのバイト代で買ったウッドソールのサボ。 コテと格闘して作った緩いウェーブが無事に県境を跨ぎ、彼の目に入りますようにと願いを込めて春風の中を闊歩し駅に向かう。 造幣局の川沿いで、小さな路地裏の公園で、古い平家の民家の庭で。環状線の車窓からは様々な場所で桜が咲いているのが見えた。 それは淡く澱みのない美しいピンクで、私は若くてとても

      • 【掌編小説】残ってる

        ※吉澤嘉代子さんの残ってるという曲からインスピレーションを受けて作った掌編小説です。 彼女が好きだと言った曲が流れた。 明け方のコンビニは閑散としていて、その透き通った声が響く。 ここは人が居なくてもいつでも眩しい。冷たい蛍光灯の光が可読性の強い彩色のパッケージを照らすから。 でも外に出れば夜が明けた新しい1日が始まっていて、生まれたばかりの陽が静かに世界を暖めている。 コンビニのバイトは単調で無機質だが、夜勤を終えた後に触れるその世界は好きだ。 「この歌の歌詞が良いの

        • 【エッセイ】例えば緩い幸せが

          2011年1月 京都から乗車したサンダーバードが、まだ暗い道を規則正しい音を立てて北上する。 滋賀県に差し掛かったあたりから車窓に写る景色は真っ白になる。 私が住んでいる町に雪は積もらない。 だからか、幼い頃から雪を見ると無条件で喜んだ。 いつだったか。 大学近くの居酒屋を出た後に、ふわふわと雪が舞う冬の空を見上げてはしゃいだら、君は言った。 「俺の生まれ故郷の雪は尋常じゃない」 私達は無邪気に返した。 「羨ましい」だなんて。 2人乗りの座席を回転させて、私たち4人

        ヨルとシーラカンス

          【エッセイ】主人公になれない

          小説や漫画に出てくる魅力的な登場人物の多くは、真っ直ぐで不器用だったりしませんか。 自分の考えや価値観を持っていて、周囲に迎合せず、困難や悩みはあれど、それに打ち勝つ強い意志を持っていて。 時に自分の信条に反することがあれば声を大にして主張し、立ち向かう。 その性質は敵を作り、彼、もしくは彼女を孤独にさせたりもする。 でもそれもストーリーの起承転結を形成するためには必要で。 そして結果的には自分の意思を貫いて困難を越えた先にハッピーエンドを迎える…事が多いように思う。

          【エッセイ】主人公になれない

          【掌編小説】ユトリロの飾ってあるあの部屋にもう行けない

          ※以前詠んだ自由律俳句を表題にして作成したエッセイです。 彼の背中に手で触れた時、もう違うのだと直感して、そこからは早かった。 感情に巻きついていたありとあらゆる色の紐がするすると解けていき、自分がどうしたいのかがはっきりと分かった。 つい半月前に彼から来ていたメールには、 東京の西荻窪で良い物件を見つけた事と、そこは駅近で、スーパーもあって、お花屋さんも、本屋さんも、食べ物屋さんもある、だからきっと君も気に入ると思うよ。 そんな事が書いてある。 私が暮らすわけじ

          【掌編小説】ユトリロの飾ってあるあの部屋にもう行けない

          落書きに告白を見つけ赤面

          ※以前詠んだ自由律俳句を表題にして作成したエッセイです。 22年間過ごしたこの家の、 1番太陽の光が入る南向きの部屋。 ここが私の部屋じゃ無くなるまで後10日ほど。 母は末娘がもうすぐ家を出ていくというのに、長きに渡る子育てが完了した事への開放感で嬉しそうだ。 人生最後の春休みを只管に謳歌し尽くした私に残されたのは、引越しの準備だった。 引越し先は勤務先となる会社が斡旋してくれた借り上げの新築マンション。 実家からは車で2時間ほどの所にある。 新しい生活にときめかな

          落書きに告白を見つけ赤面

          【小説】薄紫の茜の夕陽を見て

          不妊治療を辞めようと決めてから 私たちの間には一切の交わりが無くなった。 義務と化していたそれはどうやら、消滅した事により2人に心地よい空気をもたらしたらしい。 均衡を崩そうとはせず、この状態を維持し続ける事が最良だという暗黙の了解が月日をかけて出来上がっていった。 いたのだが。 今年、近年稀に見る猛暑が到来した。 その日は酷く蒸し暑くて、朝からずっとエアコンが付いたままの部屋は、すべてのものが芯から冷やされていた。 もう1年以上触れていない夫の暖かな手が私の肩に

          【小説】薄紫の茜の夕陽を見て

          自己紹介と私を救った物たち

          誰かが見てくれたら、と思って投稿した初noteにスキが33個付いた。 キナリ杯のタグのお陰ですかね。でも自分の文章が誰かの目に留まったと思うと嬉しいものですね。 つきこと申します。 関西圏に夫と子どもと3人で暮らすワーキングマザーです。 自己紹介の代わりに私の事を救ってくれた(いる)もの達を紹介しようと。 音楽どうしようもなく落ち込んだ時に人に話してスッキリする人も居ますけど、私は大人になるにつれてそれが殆ど出来なくなってしまいました。そんな時はサカナクションやく

          自己紹介と私を救った物たち

          新婚ホヤホヤで築50年越えの廃虚のようなオンボロアパートに住んだ話

          ※この話は怪談ではありません。どちらかと言えばハートフルな話かと。 結婚が決まり、一年後にせまる披露宴やハネムーンの話を進めていく上で、私達には課題があった。 お金がない。 当時、私達はそれぞれ一人暮らしをしておりお互いの家賃は7万を超えていた。 その上、毎週のように休日はライブやイベントに出かけて外食をしてきたから無理もない。  私たちは揃いも揃って楽天家だったから、その日が楽しければそれでよかった。だから貯金がなかった。 そんな折、彼から「勤務先の社宅に住

          新婚ホヤホヤで築50年越えの廃虚のようなオンボロアパートに住んだ話