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#彼女を文学少女と呼ばないで【あなたに出会ったとき、すでにあなたに恋をしていた】「恋人の寝息をききながら、死について考えていた」


「私の憶えている限り」
二度つづけてセックスをしたあとで、ベッドにならんで仰向けになった恰好で、私は恋人に言う。
「私の憶えている限り、私はあなたに出会ったときに、もう恋をしていた。どういうことかしら。自分でもよくわからない。一目惚れというのではないの。あなたに出会ったとき、すでにあなたに恋をしていた
「それは」
私の首の下から腕を抜き、背中をみせて床の煙草を拾いあげると、一本とりだしてくわえながら恋人はこたえた。
それは、その通りだったからだよ
タバコをくわえているせいで、恋人の声はくぐもっている。ライターの火が立ち上がる音、紙がちりちりと燃える音。恋人は、煙草の煙をながく深く吐く。

「なにもかもすでにだったのね」
かなしみをこめて、私は言った。出会ったとき、恋人はすでに幸福な家庭を持っていた。



私は紅茶をいれ、紅茶とサンドイッチを持ってテラスにでる。テラスはごたごたに散らかっている。敷居をまたぐとき、私はオリーブの空き壜につまずかないように気をつけなくてはならなかった。恋人と食べたオリーブ。
私はゆうべの、狂おしかったセックスについて思いだしている。恋人の指や唇について、肩や太腿やふくらはぎについて、彼の皮膚の持つ匂いについて、そして枕の上で頭をそらし、目をとじている恋人の素晴らしいあごの線について。私たちはときどき狂おしいセックスをするのだ。私は恋人に出会うまで、自分の身体がそんなふうになることを知らなかった。



こっちが現実だ。
私は、いつか恋人が私に、そう言ってくれたことを思いだす。
「現実よね」
横たわったまま、私は確認するように言った。ほとんど懇願するように。
「こっちが現実よね」と。
恋人は一瞬沈黙し、
「すくなくとも」と言って。励ますように私の手をぎゅっと握った。
すくなくとも、こっちが真実だ
私の恋人はどんどん注意深くなる。


それから散歩をした。深夜で、空気は澄んでつめたかった。
「いつかマジョルカ島に住んだら」
恋人は、夜そのもののような、やさしく落ち着いた声で言った。
「毎日こんなふうにみちたりてしまうな」
それは、幸福なはずの言葉だった。私たちは手をつなぎあい、ゆっくり歩いていた。
「みちたりるのは悪いことじゃないわ」
私はこたえた。甘く装った声とは裏腹に、苛立ち始めていた。みちたりるなら、なぜみちたりてしまわないのかわからなかった。なぜ、マジョルカ島にいく日が来ないのかわからなかった。


それから、私たちはワインを持ったまま寝室に移動して、音楽を聴きながら愛しあう。音楽はマスカーニで、私はその極端で純粋な甘さと情感に溺れそうになる。恋人の指や唇は、私をほんとうに無防備に、子供のように無防備にさせる。

「ウエハースの椅子」江國香織

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