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【つぶやき】詩について5 詩の現代と未来 AIなどの話

その5です。
引き続き、見出し画像を「みんなのフォトギャラリー」から「短いシカ」さんよりお借りしてます。ありがとうございます。

詩について1から4まで、だらだらすみません。でもそっちから見てね。
さて未来。今回は短くなるか。

正直、詩の未来など語れるほど僕は普段あんま考えてないないということは最初に言っておきます。
ただ目に入って興味が湧いたことはどうしてもとりあえず口に入れるタイプです。入れたら出ることもある(出ないこともある)

まぁ薄々と僕が気が付いているというか思っていることを書くよ。

現代詩というものがある。
はっきり言って僕にその定義をうまく説明することは出来ない。
それは音楽にオルタナティヴ、通称オルタナって言葉が見られるようになってきて、なんとなくその範囲が広すぎてめんどくさくなって、回帰指向、実験性があるもの、聞きなれない音などみんなオルタナ、オルタナって放り込んでいたの似てる。

もちろん現代詩という言葉の成立のほうがオルタナという言葉より早かったかもしれない。僕はロックのほうがなじみがあったから、そっちに感覚がひっぱられているだろう。
双方とも過去のものからの脱却ということと、やたら範囲がひろく分散しているということ。
オルタナティブというのは代替という意味だしね。

で、違う点もある。
音楽のオルタナティブは受け手である大衆が既存の音楽、特にポップス、ロックに飽きてきていたというところで支持された。つまり次のはやりだ、受け手の。ポスト 〇〇だ。
まぁ僕にしてみれば丸っとパンクでいい気もするがね。

その点現代詩というのはどうだろうか。受け手が飽きていたのか既存の詩に。はなはだ疑問だ。まず飽きるほど詩が浸透していたか。浸透しているのはいつも伝統的なものだった。
飽きていたのはただ書き手だ。自分は、という自我の欲求肥大だ。

それは芸術性の違いもあるだろう。音楽のほうが受け手にとってより身近で大衆性がある。それにより結果が違う。
さらに現代詩が難解な方向へいったり、超内向的なものになったり、アンダーグラウンドを是としてしまったことにより、さらに受け手離れを加速させ、書き手のための文学という側面を強めてしまった。
もちろん音楽にもそういうものはある。しかしほんの一角だ。現代詩はその一角だけになってるんじゃないだろうか。

書き手(達)の為の詩。僕はこの意味をどうしてもひっかかりながら見てしまうんだが。
どんな芸術も評価するのはいつも一般の受け手だ。狭いそちらの世界の人々だったってことはない。
芸術、そんなに大げさにいわなくても作品はたしかに作り手の満足だ。
でも受け手がいなければ、自己満足の井戸から一歩も滲出できないのも事実だ。

もちろん時代が遅れてついてくる、ということはある。あとから一般の受け手が意味をもってくれる、ということが起こるのは知っての通り。でも願望じゃしょうがない。大抵は過去のものと廃れる。

まぁこの話は主観から抜け出せないので、この辺で切り上げる。憂えるようなタマじゃないのでね。
求めるものは人それぞれの多様性の時代だから。

話の切り口を変えて時代がついてくるか、というか詩の未来を考えたい。

まず目の前にあるのはインターネットだ。これは莫大な知で、よろず回答箱だ。まさになんでもある。
例えばこれまでは一生懸命韻を踏むために頭を使っていた。しかし今はなんでも検索できる。莫大(ばくだい)で韻を検索すれば「サムライ」だ「殺害」だ「落雷」だ「危ない」だ出てくる。何ページも出てくる。なんてライムって簡単なんだ。言い換えや類語を調べるのも鼻歌でできる。
なるほどその中の何をチョイスするのかがセンスなのか、うーんコンビニエンスなインテリジェンス。

さらに現代詩にとって意識しなければならないのはAIだろう。
ツイッターで「バズの囁き」というボットがある。ツイッターからトレンドワードを収集して1時間に1回詩をAIが呟く。
こちらの新倉健人氏が研究されています(リンク)。

言葉のところどころおかしいとこもあったりするが、それはやがて学んで修正されていくのだろう。
以下、いくつか新倉氏の了解を得て載せます。

正義のせいで人を殺した
本気のせいで人を遮った

彼女は結婚したつもりですね
彼女は結婚したのかしら

眞子様

なんてやられるとびっくりしてしまう。攻めてる。

今日はどっちに行く
今日はそっちに行く
次はそっちに戻れ
お前は時間を食べる
僕が最後をせかす
僕が腕時計を見る
あなたも腕時計を見る
あなたも写真を見る

とかやられるとちょっとウルっとしないか。

もう流れてしまって見つけられないが(なんせ1時間に1個、24時間生み出されるからね)、僕は読んでて胸がきゅっとするような作品もあった。
実にナンセンスな話なんだけどね、AIが作ったんだから。

繰り返してしまうがこうして見ても詩はやはり受け手、読み手次第だ。そこに意味を考えてしまうのは人間だ。勝手に考えてしまう。

これほど意味を持たすことができるのだ。ナンセンスなワードを組み合わせるのなんて楽勝だろう。
語彙数ではAIに勝てるわけはない。日々蓄積更新されるワードに追いつけるわけない。AIこそオルタナなんではないか。

世界は人の下に属さない
今は心の下に思い出せない
最後は世界の身にあった
部屋は客の死角とあった
銀行も夜と数があった
壁ではたくさんがたくさんない
歩きにはたくさんがたくさんない
池には魚がたくさんいる

・・・

ソプラノが劇場に響く
どよめきが黄色に座る
若者たちが黄色に響く
色合いと風に変わる
色合いとこっちが響く
ドローンでこっちがなくなる
所々で光が和らぐ
左目で光が分かる

ところでAIの書いているものは詩なのだろうか。

小説は物語を描くのに対し、詩は書き手自身、書き手の内面を描く。風景をうたったとしてもそれは書き手が感じたからであるのは言わずもがな。
とすればAIは詩を書けない。AIの詩は内面を託しているのではないからだ(と、思っているが違うかもしれない。違うと想像すると少しこわいのでここではやめとく)
しかし読み手を書き手が意識することがないとして、渦巻くネット詩のようにその詩人の背景や人となりも知らず、ましてや人間かどうかも読者がわからないとすれば、人間とAIが綴るものと何が違うのか。
新倉氏はチューリング・テストも行っている(リンク)。AIと人がそれぞれ詩を書いて読み手がどちらがAIなのか判別できるかというテストだ。
パフォーマンスだがとても興味深い。詩の概念を覆すだろう?

現代詩(今の時代の詩という大きなくくりで)は読み手次第だということはあきらかで、そこに権威も批評もないんじゃないか。AIに詩を書かせるという発想に批評はあっても、AIの詩をそれぞれ批評するのはなぁ。

最後はセンスか。センスって何か。
とどのつまりは読み手がどういうジャッジをするかだ。好きか嫌いかしかないだろう、蘊蓄や評論はAIにしようか。
もちろん細かい修正(チューニング)は人間、AIともあったほうがいいけどね。

それにしても物語を排除したワードだけの詩の世界、24時間休まず大量生産の前に我々ヒツジはどうなるのか。

一つの答えはある。
詩を求めるのが書き手だけならば、詩は永遠に人間のものだ。
大変なパラドックスだが、実際つぶやきの世の中だ、それが詩の姿かもしれない。

まぁそうは言っても僕は結局人間が、どれだけ意図を持ち人間にどれだけ意味を伝えられるかだと思ってはいるんだが。伝わるよう書き手をもっと見るということだと思うんだが(もちろん媚びるということではないし)
伝わらないセンス(ナンセンス)はもうやめた。

情報の大海、360°AIの詩しか見当たらなくなり、人間たちは細々と地下に潜り詩を書いていた・・なんてターミネーターの世界みたいのを想像してみました。

短くなるはずが、新倉さんの取り組みをみて、またここに書くことを快諾いただいたので、やはり長くなってしまった。
ついつい、いかんいかん。←この意味のない反省はAIにはできまい(まだ)

詩について1から5のほとんど繰り返し、ふとした思い付きで書きましたがここで終了します。
また何か突如思いついたら。

AIから学ぶことは将棋や囲碁に世界以外も多い。詩とAIというこれからの現代詩を引き続き興味深く見ていきたい。

新倉健人氏 note https://note.com/kentoniikura

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