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ボートピープル

                
1982年、冬。
 当時小学生だった私は、生まれて初めて外国人に会うことへの期待で、汽車の中でも海沿いの歩道でもはしゃいでいた。そんな私の様子を見て、母は私の手を引き砂浜に連れていくと小枝で砂浜に地図を描いた。
「ここが日本、それからここがベトナム。これから会うフェインさんとお兄さんが暮らしてた国。こんな遠いところから来たんじょ。小さな舟に70人。水も食べるものも無くなって、大きな波が何回もきたんやって。フェインさん、まだ13歳で怖かったやろね」
  
 到着した建物は、外壁にひびが入った古ぼけた2階建てのアパート。想像していた『なぎさ寮』とはずいぶん違っていた。怖気づいた私を置いて、母は階段をすたすた上がっていく。慌てて駆け上がるとドアの前でもう2人と握手をしている。高校教師の母は、既に何度か来ていて、彼らの話や悩みを聞いていたらしい。初めて同行した私は、練習してきた「ヘロー」が言えず、母の後ろでお辞儀をするのがやっとだった。

 二人が暮らす部屋は、ひと間に小さな台所。ストーブの上に置かれたヤカンから立ち昇る湯気。壁には世界地図と八代亜紀のポスターが貼ってあり、テレビの上には家族写真が置かれていた。
 こたつに入るとフェインさんは目の前のお菓子を勧めてくれた。色も形も味も、いつも食べているお菓子とは違う。一口食べて「おいしい」と言うと、フェインさんの頬が緩んだ。

 一緒に置かれたジャスミン茶。部屋に入ってた時の香りはこれだ。口を付けると慣れない味だった。けれど、お姉さんのように優しい眼差しを向けてくれるフェインさんと一緒に飲んでいると、不思議な幸福感で満たされた。

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 フェインさん、お元気ですか?

『なぎさ寮』でお会いしてからずいぶん時が過ぎました。あの頃子供だった私も40代。初めてお会いした時の母の年齢です。この頃は、年を重ねることがどれだけ価値があり尊いことか、少しずつ解るようになってきました。

 フェインさん、私、数年前に『なぎさ寮』を訪ねてみました。残念ながら建物は取り壊され、近くに大きなリゾートホテルが建っていました。

 あの頃と変わらないのは、広い砂浜から見える海の景色と止むことのない波音だけ。大海原を舟で漂いながら、過酷な日々を過ごしたあなたにとって、この場所での生活は心休まるものではなかったのかもしれませんね。けれど、私の記憶に残るあなたは、艶のある黒髪と優しい目をしたお姉さん。まさか、故郷に残した家族の期待を背に、ベトナムから命をかけてやってきた難民だとは思いもしませんでした。


 ふとした折に、母からお二人が徳島から東京の支援センターへ移り、その後、カナダに移住されたと聞きました。そちらの生活は、いかがですか? あなたに希望を託したお父さんやお母さんを呼び寄せることはできたでしょうか? 

 世界は未だ難民問題が解決されず、テロがはびこり、弱い人たちが犠牲になっています。もちろん子供たちも。そして、あの時のフェインさんと同じ年、13歳になった私は「いじめ」という荒波にもまれ漂流しながら自分の居場所を探すことになりました。
 本当のことを言うと、今もまだ疑念だらけの社会の中で、時々波にのまれそうになります。言葉は通じなくてもフェインさんとは微笑み合うだけで、穏やかな時を共有できたのに不思議ですね。


 話が反れました。あの日、私はフェインさんから勇気と希望を持つことの大切さを受け取ったように思います。
 きっと、あなたは新天地でも故郷・ベトナムのジャスミンの香りを漂わせ、微笑みを絶やさず生きていると信じています。

 私もあなたから受け取ったバトンを握りしめ、強く、優しく、そして笑顔を絶やさず在り続けたいと思います。

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