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河童と尻子玉(かっぱとしりこだま)


はじめに

河童は、相撲で負かした相手や、川に引き摺り込んだ人間の尻子玉と呼ばれる臓腑を抜き取り、抜き取られた人は文字通り腑抜けになってしまうという。
もちろん、この尻子玉というのは架空の臓器で、一説には川などで溺死をすると死体の括約筋が緩み、肛門が広がっている姿が、まるでそこから何かを抜き取った後のように見えることから想像されたという。

十返舎一九『河童尻子玉』

十返舎一九は黄表紙『河童尻子玉』にて、この尻子玉を手に持って誇らしげに立つ河童の絵を描いている。
この十返舎一九の絵にある尻子玉は上部がややとんがっており、仏教で言う宝珠のようにも見える。
この尻子玉を宝珠と仮定し、そこから河童は何故尻子玉を取るのかを考察する。

尻子玉と如意宝珠

尻子玉とは前述したように仮想の臓器であり実在せず、水死体の形状よりその理由として考えられたに過ぎない。
つまり結果がありそこから原因が創り出されたという事だ。この様な物語の構造は妖怪話のような民話だけにとどまらず、伝説または神話にいたるまでよく見られる。何かが抜かれた様な痕という「結果」があり、しかし「原因」は不明な場合、人は無理矢理にでも整合性のある理由を求める。そこでは「因果」の時系列は逆転し、そして原因となる妖怪や神という存在が創られる。
ではなぜ河童は尻子玉を抜くのか?そこはあまり言及はなされていないようで、「食べるため」「竜王に税金として納めるため」等の説も残されているがそこにも何故という疑問が浮かぶ。
そこでこの尻子玉を宝珠と仮定すると、この問いにもある程度理由付けができるようにおもう。

宝珠とは正式には如意宝珠と言い、これを持つものは「意の如く」願いを叶えられると言う。
もし尻子玉がこの如意宝珠だとするならば何故人の体にそのような臓器があるのだろうか?

如意宝珠を持つ宇迦之御魂像。
如意宝珠は元々仏教の概念だがこの様に神道にも取り込まれた。

これは端的に言えば人の持つ可能性=思考力、想像力の象徴と言えるのではないか。前述した通り人は理解が及ばぬものに対面しても思考によって何らかの理を想像しそれを解ろうとして来た。
だからこそ、尻子玉を抜かれると人は考える力を失い、生きながら腑抜けになってしまうのではないのだろうか。
では、この宝珠が人の考える力の象徴とするなら、なぜ河童達はこれを欲するのか。これには河童の起源が関係する様に思う。

河童とその起源

河童の起源は大別すると西日本と東日本でその発生を分けられる。

西日本においては河伯という中国の黄河の神が起源とされる。河伯はそのまま河童の別称であり、この字に「かっぱ」のルビが振られることもある。
そもそも、日本には川はあっても河は存在しない。にも関わらず河童が「川童」ではなく「河童」である事を考えると、この説はいくらか信憑性がある。また西日本における河童の起源では九千坊と呼ばれる河童の親分が有名だがこの九千坊も元は中国黄河の出身であるという。つまりこの九千坊とその一族は黄河の神である河伯の眷属であったのではないか。
この九千坊は仁徳天皇の時代(1600年ほど前)に、九州の八代の浜に辿り着き、球磨川を安住の地と定めたと言う。そこから時代は流れ、加藤清正が肥後国を治めていた頃、九千坊は加藤清正の小姓に懸想し水中に引き摺り込み尻子玉を抜いてしまう。それに激怒した加藤清正によって九千坊とその一族は追放され筑後川に流れつき、久留米水天宮の眷属となった。

また、『西遊記』の沙悟浄は、日本では河童のイメージが強いが河伯(流沙河の水怪)であったという。沙悟浄は元は天界の役人であり捲簾大将(けんれんたいしょう)という役職に就いていたが、ある日、粗相で天帝の宝を壊した罪で天界を追放され流沙河で人を喰らう妖仙となった。その後は周知の通り三蔵法師に弟子入りし共に天竺を目指す事になる。
この二つの例から、神の眷属が零落すると人を喰らう≒尻子玉を取る妖怪となるが、再び神や仏に仕えるとその必要が無くなると推測出来る。もしも捕食の為に人を喰らう≒尻子玉を取るのであれば神の眷属になろうとも生存の為には必要になるはずだからだ。

つまり尻子玉を取る事は神仏の眷属になるのと同等の、河童=河伯が存在する為に必要な何らかの力を得られると考えることが出来る。

河童と兵主部

東日本においては安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が人足として作った人形が変じて河童になったという話が広く伝わっているが、これらはその物語の構図がほぼ同じ事から、『北肥戦誌』などに見られる河童の起源譚が元になっている様だ。

以下Wikipedia内の要約を引用する。
“神護景雲2年(762年)、春日大社が三笠山に遷された際、内匠頭が秘法を用いて人形に命を与えて社殿建立のための建築労働力としたが、完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなした。称徳天皇の命により兵部大輔の任にあたっていた橘島田丸がそれを鎮めたので、その河童たちを「主は兵部」という意味から兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったと『北肥戦誌』(巻之16「渋江家由来の事」)には記されている。嘉禎3年(1237年)、島田丸の子孫である武将・橘公業が伊予国(現・愛媛県)から佐賀県武雄市に移り、潮見神社の背後の山頂に潮見城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれる。”

ひょうすべは今知られる河童の姿とは大きく違うので異なる妖怪と思われがちだが、ここに書かれているように河童の亜種である。そもそも、今よく知られる両生類的な河童の姿は、猿などの山の獣に縁がない江戸の人々が川にいる妖怪ということで身近な亀などから連想した姿で、元々はこのひょうすべのような猿に近い姿であったようだ。そう意味ではひょうすべは河童の原種のようなものとも言える。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ひやうすべ」

違う説ではひょうすべは渡来神である兵主神(ひょうずしん)の眷属でもあるという。『史記』の「封禅書」にある八神のうちの一柱である兵主神とは古代中国神において製鉄を司る神、蚩尤(しゅう)であるという。前述の春日大社建立の人足として生み出された話と合わせて、ひょうすべ達は建設や製鉄の技術を伝えに来た渡来人の事であったと推測できる。

河童と野見宿禰、そして菅原道真

関西圏にはこの兵主神を祀る兵主神社が数多く存在するが、特に穴師坐兵主神社には摂社として相撲(角力)の始祖とされる野見宿禰を祀る相撲神社がある。河童が相撲が好きという起源をここに求める事も出来るだろう。

また穴師という地名はかつて金属採掘された場所を示していたとも言う。これもひょうすべが製鉄の技術者達であったと言う裏付けになるだろう。
また野見宿禰は、(史実としては否定されているが)埴輪を作ったとされる土師氏の始祖とも、穴師で兵主神=蚩尤=天日槍を祀る氏族の長であったともされる。埴輪は当時豪族や貴族の墓に一緒に埋葬されていた殉死者の代わりとして野見宿禰が垂仁天皇に、皇后、日葉酢媛命の陵墓に埋めることを提案したという記述が『日本書紀』にある。ここに人足の代わりとして作られた河童達との共通点も見られる。

また、前項で触れたひょうすべ達が移住したとされる潮見川にある潮見神社には、「ひょうすべよ約束せしを忘るなよ川立おのがあとはすがわら」と言う河童避けの呪文が伝わっているが、この“すがわら”とは九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来していると言われる。

しかし、菅原氏は古墳時代とともにその役割を終えた土師氏の系譜であり、その祖であった野見宿禰は、つまり菅原道真の祖でもある。
ここから、この河童避けの呪文は、河童たちに兵主神の眷属であるひょうすべ(兵主部)であることを思い出させ、その主人であった野見宿禰の系譜である菅原の一族に害を為さないようにという戒めと考える事も出来るかもしれない。
ここでも前述した河伯伝説と同様に神やそれに準ずるものの眷属となることで河童たちは悪さをしなくなる、つまり尻子玉を抜かなくても良くなるようだ。

それでは尻子玉=宝珠を手に入れることが出来れば河童たちは妖怪から神の眷属に戻れるのだろうか?

次の項では河童と同じ妖怪という側面を持ちながらも、神の眷属としてもよく知られる狐との比較からこの疑問に答えを出したい。

河童と狐

調べると河童と狐はとても多くの共通点があることに驚かされる。

最近の狐は葉っぱ一枚で簡単に化けることが出来るようだが、唐代の随筆『酉陽雑俎』によれば髑髏を載せ北斗星を拝して、これが落ちなければ人に化けることができるとある。つまりお辞儀をして髑髏が落ちてしまえば変身が解けてしまうということだ。
『伽婢子』にも同じ様な話がある。

「道のかたはらにひとりの狐いでて、人の髑髏をいただき、立ちあがりて北にむかひ礼拝するに、かの髑髏地に落たり。又とりていただき礼拝するに又落たり。」

伽婢子卷之二 狐の妖怪

これは河童と相撲を取る際にお辞儀をすると、それに釣られて頭を下げた河童の皿から水が落ちて、河童は力が出なくなるという言い伝えとよく似ている。

また、狐はお稲荷さんとしてよく知られているが、狐はあくまで眷属であって、お稲荷さん、つまり稲荷神社の祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)である
宇迦之御魂神は、穀物、食物の神で、特に稲に宿るとされる。
一方、民俗学者の折口信夫は『河童の話』の中で、河童の頭にある皿は食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴であるとしている。また前項で述べた河童=ひょうすべが仕えた兵主神は、製鉄の神であるとともに製鉄が鋤や鍬などの鉄製農耕道具の発展をもたらしたということで農耕神としての側面も持つ。同じく前項で触れた相撲神社を有する穴師坐兵主神社では祭神の兵主神を宇迦之御魂と同一視している。

別種であっても同じ文化、歴史的背景を共有していることは、妖怪にはよくあることだが、こう比較すると河童と狐にも何らかの共通する背景があったはずと言わざるを得ない。

狐の仕える宇迦之御魂は蛇神である宇賀神とも同一視され(伏見稲荷大社のお札には狐と俵の体を持つ蛇、そして如意宝珠が描かれている)、宇賀神は弁財天の頭上に顕現するという。そして弁財天はヒンドゥー教のサラスバティをルーツとして持ち、サラスバティはかつて河童が眷属として支えた河伯と同様、サラスバティという名前の河の神である。

伏見稲荷の御札
「皿」の上に「宝珠」が乗っている

こうしてみると河童と狐は鏡写しの様に多くの共通点を持ちながら、しかし宝珠、つまり神仏の庇護の有無によってその扱いは大きく違っている。

宝珠を咥える狐(伏見稲荷)

狐は賢く神の御使と狐狸妖怪という両極端な属性を共有しているが、一方、河童はかつての神の眷属としての姿を所々に残しつつも、すでに我々の中で河童は妖怪であるという強い認識があり、それ故に河童が神の眷属に戻ることはなく、河童はいつまでも尻子玉を求め続けるだろう。

まとめ

河童は、かつて神の眷属であり、川に住む事や相撲が好きな事、頭の皿、河童避けの呪文など御使としての名残は残しつつも、その属性は失われた。尻子玉を宝珠と仮定すると、宝珠を持った神の眷属である狐との対比により、河童は御使としてのかつての力を求める為か、または既に目的すらも忘れて、人に宿る尻子玉、つまり如意宝珠を求めていると考えられる。
しかし、既に人々の意識の中で河童=妖怪という認識が強くある為、更には人々が尻子玉を発想する水死体を見る機会が減った為、河童が宝珠を手にし神の眷属に戻る事はないだろうと考えられる。

ただ、現代において、キャラクター化され、人に寄り添う存在となった河童達には、神の眷属に成らずとも、もう既に尻子玉は必要ないのかもしれない。(了)


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