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100分の1の苛立ちを言葉にしたら100倍で届く

100分の1の思いが口をついてでることがあるけど、口に出した時点で相手には100で届く。
昨日、映画「すずめの戸締まり」を観て、一番、感情移入をしてしまったのがすずめの叔母のまどかさんでした。
ネタバレしないように書きますね。

たとえば、「あなたなんてだいっきらい!」
と言ってしまいそうなことがある。恋人や家族に言ってしまいそうなことがある。
私は我が子に言いそうになったことがある。
頭にきて、悔しくて、言ってしまいそうになった。
なんであの時、その言葉を発することなくブレーキを掛けたのか?
その答えが、まどかさんの台詞にありました。

それは、ぜひ、映画を見ていただければわかると思います。
ものがたりの終盤、まどかさんが発してしまった言葉。

子どものことは愛しています。
でも、私はマザー・テレサでも、ガンジーでもない。
俗世のいち人間でしかない。
人のことを100あるうちの100愛しているだろうか?
そんな人いるだろうか?
どんなに大切な相手でも、きらいな部分もある、一緒にいたくないときもある。
自分の人生の舵を自由に取れなくなった時、家族がいなければと頭をよぎることだってあった。

1か2のことをつい口にしてしまいそうになることがある

でも、それは、たぶん、自分の考えや思いの100あるうちの1か2で、ほぼ全ての部分で大切で、いなくなったら発狂するほどに苦しむ存在であることは確実なわけです。
でも、その1か2のことをつい口にしてしまいそうになることがある。
そして、だれしも、1か2のことを言葉にしてぶつけてしまった過去があると思います。
言葉にしてぶつけてしまった時、それを受けた相手は、きっとその言葉を100と受け取るでしょう。
私は父親に「お前なんかかわいいわけねーだろ!」と言われたことがあります。
その呪縛が解けるには30年掛かりました。たしか中学生の頃なので言ってしまえば、最近、わかったんです。あぁ、父はついポロッと出ただけかと。
たったの1か2なのに、言葉は暴力的で、妄想の範疇でしかなかった思いを音にしてしまった時点で明確で輪郭を帯びて現実を作る。
若いときは特にその言葉を発する前にブレーキを踏むことをしないどころか、左右の安全確認もしないまま、とにかく発してしまう危うさがあり、友達をなくし、時に家族と距離を作ってしまうことだってある。
私の場合は父の言動がきっかけで19歳で家を出ました。

人の暴言を受けた時、それは相手の中の1か2だと思って正解


そこで思ったのが、自分自身が発してしまった過去の言葉にまつわる過ちのことではなく、逆にそういった言葉を受けてしまったときのこと。
誰かがなにか暴力的な言葉を発した時に真に受けない潔さの大切さだ。
仮に子どもが自分のことを嫌うような言動をしようとも、真に受けないこと。きっと許してくれるという心の奥底の余裕があるから1か2のことを平気で口にする未熟さがある。
その未熟さを愛おしみ大人の余裕で流す器は必要だろう。
こどもは友達に平気で言っている。母親が嫌い、父親が嫌い、兄弟、姉妹が嫌い。軽く言っている。それが間接的に届くことがある。
配偶者がわざわざ届けてくれることもある。(いらないお届けものだ)
家族だけではなく、道端で浴びた暴言や耳に届いたヒソヒソ声だって、発している本人にとっては言ったことさえ忘れてしまう1以下の思いであって、なんら気にすることではない。
そんな事を考えていたら、意外に人付き合いなんて難しくもないかとさえ思えてきた。

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