制御不能の私で向き合う

 今月の頭から書き始めた長編小説が、七十枚を超えたあたりで行きづまってしまった。
 単に「ここらで一度全体を見渡して、設定や人物造形を練り直したい」というも気持ちもあったけど、原因不明の閉塞感に息苦しくなってしまって、ちょっと投げ出したくなってきたというの方が大きかった。 

 それで、長編の方はしばらく眠らせておくことにして、息抜きに別の短編を書き始めたわけだけれど……。

 昨日、『意味のあることをずっと続ける危険性』(by.しいたけのブログ)という記事を読んでいて、ひとつ重要なことに気がついた。

 以下、上の記事を引用しながら語らせていただく。

「意味のあることを集中的に、ギュッと力を込めてやり続けてきた人は途中で壊れるか、本人が気づかないうちに失速しやすい」

 この記事自体は「生き方」について書かれたものなのだけど、これって小説にも当てはまるなあ、と。
 私が陥っていたのはまさにこの部分で、膨らもうとする物語を強引にねじ伏せ、本筋に必要な部分だけを残そうとする行為は、いま考えると「洗練」を通り越している。あれは過剰なダイエットでしかなかった。
 自分では隅々まで鍛え上げていたつもりが、いざ鏡の前に立ってみると、そこに映ったのは無残に肉の削げ落ちた骸骨のような身体。
 壊れる前に離れることができたのは幸いだったと言えよう。

自分がやっていることが全部「本編」を進めるためのものになると急激に失速する。その人の人生の本編の豊かさを彩るものって、その本編の周りにどれだけ「くだらない」ともされるサブストーリーがあるかどうかってけっこう重要な意味合いを持ってくる。

「神は細部に宿る」という言葉がある。小説の世界では、細部を丁寧に作り込むことが作品の魅力に繋がる、といった意味で使われている。(たぶん)
 この細部には、意味のないくだりも含まれるのだという大切なことを、私は見落としていた。

意味があるものを作っていくためには「意味がないもの」の大切さが必ず生きてくる。

 そもそも「意味があるもの」ってなんだろう。さらっと辞書で調べてみたところ、「存在するにふさわしい価値」などという言葉が出てきた。
 人って本当に二分化するのが好きなのだなあ。かくいう私も、根底に「意味のあることを為さなくては」という義務感を抱えています。

 洗練されたものを目指すのもいいけれど、とにかく一度制御を外した自分で書くことと向き合ってみよう。

 バランスを取るのは、それからだ。 

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