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心なんて本来、自然と整っていくものなんじゃないかと思う

 最近、高校時代の同級生がやっている整体院に通い始めた。気功やエネルギーワークのようなものを使った特殊な施術に興味を持ったのもあるけど、一番は、子ども時代から続いている身体の違和感を解消したいという思いからだった。

 通院ペースは週に一回、今で二回通ったところなのだけど、施術してもらう度に思うのは、「人の想いや感情って、本当にただ受け止めるだけでいいのだな」ということ。

 その整体院では、毎回、身体の反応から私の意識状態を探ってくれる。
 たとえば、一回目は「おばあちゃんとの関係で過去に傷ついた感情が身体に残ってる」と言われた。 
 先々月あたりに亡くなった、父方の祖母のことだ。
「え、母親でも父親でもなくおばあちゃん?」
 祖母に対してはたしかに複雑な感情を持っていたけれど、両親に対する想いを整理するので精一杯で、祖母との記憶までは掘り返したことがなかった。
「何か思い当たることはない?」
 思い返してみるけれど、記憶にもやがかかったように何も出てこない。ただ、彼女の葬式に行かなかったな、なんてことを考えていたら、なぜか涙があふれてきた。その感情が悲しみであることは間違いなかったけれど、何に対するものなのかは自分でもよくわからなかった。
「わからないけど、涙だけが出てくる」
「じゃあ、ちょっと次に来るまでに、思い出してみて。もし思い出せなくても、思い出そうとするだけで身体は反応するから」
 へえ、そういうものなのか、と思って、その一週間、暇になるたびに祖母のことを思い出したりしていた。

 そして迎えた二回目の通院。
 エネルギー状態をチェックしてもらうと、祖母の方の想念はほぼ消えて、その下の層から今度は母の想念が出てきたと。
「母親の愛を受け取ってない感じ。遮断しているというか」
 これには心当たりがあった。毒々しい話なので、詳細は『母殺し』(週刊キャプロア出版Vol.05収録)制作裏話 ※毒しか吐かないに封印してあるけれど、先々月、母親とひと悶着あって、私は自分を守るため彼女に対してしばらく心を閉ざしていた。
 母からはその後もあらゆる形でメッセージが届いた。その中には、たしかに私に対する愛も読み取れた。だけど、受け取ることが怖くて、それごとゴミ箱に破り捨てていた。まさに『遮断』状態だった。
「なんかね、お母さんの愛を受け取るのは怖いんだよ。自己犠牲の強い人だから、うっかり受け取ると後でなじられたりするし、なんとなく囲い込まれて自由を奪われていく息苦しさも感じてる」
 私が訥々と話す言葉を、友だちは時折共感を挟みながら、ただ受け止めてくれた。この類の話は、たいてい後味が悪くなるのであまり人には話さないのだけど、この時は安心感だけが残った。
「この意識、どうしたらいいんだろう」
 半ば自問のようにつぶやく。
「思いを馳せるだけでいいよ。それだけで意識って変わっていくから」
「そんなかんたんなこといいんだ」
 そういえば、気づくだけで変わるっていうことを、いつのまにか忘れていた。

 それから、今日で二日が経った。いくら整理しても解消できなかった母への不信感が、なんとなく薄らいでいる気がする。
 感覚的なものでしかないけれど、彼女からのメールに対する印象も変わってきた。少し前までは尖っていたけれど、いまはだいぶ丸い。
 これまで、けっこうめんどくさいやり方で心を整えてきたけれど、もっとシンプルにただ表現して認めるだけでよかったのかもしれないなって思った。
 心を整えることに時間とエネルギーを費やしてきたけれど、ここからはもっと楽にいこう。そのぶん、遊ぶことに注ぎ込もう。もう、このパターンは終わり。終わらせる。
 整体師の友だちがしてくれているみたいに、私が私の言葉をただそのまま受け止めて認めてあげればいい。そんな気がしている。
 人に対しても、どういう態度で接していくのか決められずにいたけれど、『相手の無意識を引き出す』『「そうなんだね」と認める』の二つが基本でいいのかなって思った。その上で自分の考え方を話してもいいけど、たとえ何も伝えなかったとして、その人は自然と自分にとって心地のよい状態に還っていく気がしている。
 だから私も、無理に何かを伝えようとはしない。私には私の色があって、それを大切にしたいと思っているけれど、他人を染めたい願望はあまりない。そっに意識が向かってしまうこともあるけれど、そういう時はたいてい自分自身がバランスを崩している時。

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