山梨へ

 天文台に来ても時々は東京の本省に出張があり、小海線沿線より中央本線沿線のほうが東京に行きやすいということ,そして私もすでにどこが良いのかという選択よりも住むところで腹をくくって生きようということに決めた。山梨から野辺山に通うほうが便利ということで山梨で自宅を建てることにした。

  本当は天文台が決まり官舎が満員と言われたとき、山梨県、高根町の町営住宅も考えたが、住民になって6ヶ月経たないと申し込む資格がなくという事で諦めた。現在のようにネットで検索という具合にできなかったのであまり深く考えずに引っ越してしまったと感じる。行き当たりばったりの生き方だがようやく山梨で家を建てて落ち着こうとした。ここがもっと古い習慣が残っている地域とは知らずに。

 長野のこともあり引っ越したらすぐに地域に入れてもらうように挨拶に行った。「どうしても入りたいのですか?」と聞かれ、「はい、これからここに住むことになったので。」そしたら「地区の人たちと話し合ってから返事をするので家で待機しておいてくれ。」そして夜に班長さんが来て「地区には入れない。ゴミだけはお金を出してくれればここの地区のを使わせてあげる。」と言われた。地区に入るのも仕方ないと思っていたが、入れないという返事にはもっとびっくりした。8年ほどこの状態が続きそれから入ることになってしまったが、同時に役員となり毎年何らかの役が回ってくる。あの入っていなかった8年が夢のように感じる。地区に入ったらこれまたびっくりすることづくめであった。

 今はさすがに葬儀の時はセレモニーホールなどで行うようになったが、地区に入ったころはこの辺りはまだ土葬で、主人は墓堀の手伝いから私も黒エプロンをして料理の手伝いに駆り出された。3日間全く知らない家庭の葬儀に夫婦2人が出なくてはいけない状態は、そのころまだ子供も小さく不登校であった我が家は本当に困った。山梨には親戚もいないので家に子どもだけで留守番させた。障害のある長女が不安定だったのでなおさら心配だった。

 同じ町でもその地区ごとに習慣などが違うらしく、我が家が越してきた辺りはその中でも古い習慣が残っているという事は地区に入ってから知った。 もうどこにも行かない、ここで腹を決めたのは事実だが長野の時よりもっと大変な状態になってしまった。

 長男は今度こそ頑張ろうという気持ちが強かった。1年生、3年生、6年生の3人同時に転校した。はりきっていた子供たちだったが、段々と様子がおかしくなってきた。今思い出してもつらい時期だった。家族が孤立しただけではなく子供の様子がおかしくなってしまったからだ。

 現在その子供たちはみな、それぞれの道を堂々と歩んでいる。長女は障害者であるがパソコンが得意、長男は博士課程を修了し研究職、次男も修士修了でジャパンメンサの会員でもある。次女は高校からアメリカ留学で現在博士課程中、三男も来年3月に大学卒業予定で4月から大学院に行くことが決まっている。

 しかしここまでくる間は本当にいろいろあった。次回は孤立状態にあった我が家だがどのように過ごしてきて現在に至ったかを書いていきたいと思う。

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