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#110 負け戦が仕事

コロナ騒動を通じて、自らの職業である「医師」に対する見方が大きく変わった。

自らの職を肯定したい気持ちがあるのは然りだが、そうではなかった。医者たちの考えはこうも安易なのかと、落胆する連続だった。

そんな中で、最近感じたこと。

医者の主戦場は「負け戦」だったんだ。
そこを活躍の場とし、自分達の存在意義を無意識にも感じ、アイデンティティを形成していたんだ。

説明をしてみよう。

病気になること。それは決して負けではないかもだけど、人々が病気になったところから、臨床医の仕事が始まることが多い。病気に対峙する、それが医師の見せ場のスタートになる。「病気になんか負けない!」確かに素敵に描かれる。でも、当事者のつらさは計り知れない。まして、その美化されたストーリーの主役を医師が奪い取ってはならない。

感染症を専門とする方々はよく、「細菌と戦う」「ウイルスと戦う」みたいな言い方をよくする。これもまたよくあるストーリーだ。細菌やウイルスに感染した人体を決して負けだとは自分は思わないけど、彼ら彼女らはそれらを戦う相手と見立てることで、わきあがる気持ちがあるのだろう。

ウイルスや細菌は絵に描かれる。ターゲットが一般の方にもイメージ化される。

マスクをする、確かにわかりやすい。効果がありそうな気がする。
外出を控える。効果は不明だが、少なくともやることは明確。
予防接種を打つ。攻めてる感じがする。
がんと闘う、免疫力をつける、よりも、わかりやすいよね。
そうそう、感染対策は、武器がわかりやすい。

だからこそ、メディアも報道しやすい、一般の方々へのメッセージも伝わりやすい。そこに感染症専門の医師たちが乗っかる。

もう主役は誰だかわからない。効果も何もわからない。

負けそうだけど、戦い続ける。それは国が国民を鼓舞することと親和性が高い。情報統制しようと、差別が広がろうと、全体が一直線に進むのであれば、それは是とする。

負け戦にこそ、医師たちの存在意義があるのは認めざるを得ないかもしれない。でもその戦は、一人一人の患者さんたちの人生の中のごく一部でしかない。戦への考え方ももちろん異なる。克服できないかもしれないが、それは人生の敗北でもなんでもない。そしてまた、その戦場にももちろん、倫理がある。なりふりかまわず、効果もわからずに、剣を振り回せばいいってもんじゃない。攻めれば弊害もあるであろう。逃げることだって一つかもしれない。いろんな物語がそこにはあっていいんだ。

負け戦を買って出て、勇者として鼓舞され、少しでも優勢になれば持ち上げられる。もし劣勢になっても、よく戦ったとほめられる。それは、別に戦う必要がなかったとしても。逃げてもよかったとしても。そして、戦ったことで、大きな大きな弊害を負ったとしてもだ。


僕も医師だ。
でも、戦場のヒーローになろうとは思わない。お情けくださいとは思わない。たとえ戦になったとしても、それをわきからそっと支える、そんな職業人になりたいと思う。