誰かの“すごい結果”だけを見て誹謗するのは、もう止めませんか?
私は、初対面の人に軽く誹謗中傷されたことがあります。まぁ、よくある勉強関連の誹謗です。
その人は友達から教えられた“私の結果”を聞いた後、初対面なのにも関わらず、面と向かって私を誹謗してきたのです。
初対面なら絶対に言わないであろう言葉を、何度も浴びせられました。
私、前世で何か恨まれるようなことをしましたか……?
「――やりたいゲームも見たいアニメも、たまってしまうくらいに抑えて勉強していたのに、どうしてこんなことを言われなければならないのだろうか」
加えて、その人は「〇〇って言われても、自分自身が〇〇なければいいだけじゃん」と(大きな声で)弁解していました。ここで文字にするのはちょっとアレなので伏せ字。
「世の中には、こんな人もいるんやなぁ……」と絶望して、一週間くらい闇落ちした後、その人とはしばらくの間話すことはありませんでした。
私は、一人の旧友から数年に渡って否定され続けたことがあります。
事あるごとに、その旧友は他人と比べたがるのです。
私は、“他人”と比べるよりまず“過去の自分”と比べるたちなので、その人とは どうしても相容れない性格でした。
物事のほとんどを数字で判断してしまう。
自身より上手いか下手かで比べてしまう。
誰に対してもマウントを取りに行ってしまう。
…… 余 計 な 一 言 が 多 い 。
私が一人で努力しようとすると、引きずり下ろして上がれないようにさせる人でした。
そして、普段は爆発しない私でも、数ヶ月に一度はムッとしてしまうようなことを言うのです。
ちょっと距離を置きたいな……疲れるな……と、何度も思ってしまいました。
“結果”だけを切り取る性質は、さながらマスメディアのようである
さて、昔話はここらへんにしておいて。
上のような、こういった話はよくあると思うんです。
「あの人がこういった結果を得たのは、どうせその人が先天的(=生まれ持った)才能の持ち主だからだ」
という考えに至り、他人に(怒りを覚えるほどの)優劣を感じ、対象を誹謗する。中傷する。
これって、マスメディアによって切り取られる感覚と似ている気がします。
まず、テレビの報道は、放送する時間が限られていますよね。
そうすると、まれに報道内容を簡略化しがちです。それによって“切り取った”結果だけを報道すれば、いくつかは視聴者に誤解を与えてしまいます。
誤解を与えられた視聴者は……的外れな対象を批判しますよね。ただ、これはメディアだけでなく、情報を鵜呑みにする視聴者にも問題があります。
本題に置き換えると、自分の判断材料を少なくするために(もしくは情報を得るのが大変なために)結果だけを知ってしまい、その状態でその人を判断してしまう。
つまり、その人がどうやってその結果を生んだのかを無視する。努力や状況、過程を無視してしまう。
すると、何かしら「ずるい」と判断して、誹謗してしまう。差別してしまう。
まさに、そういった誤解や偏見が日常茶飯事のように起こっているのです。
なぜこんなことが起こるのか
一つ前に出したRPGのたとえ話が、ここにも通じるので見てみます。
RPG上でいつも称賛される主人公をイメージしてください。名前は……そうですね。10年来の旅を続ける「旅人N」とでもしておきましょう。
その旅人Nが、某村の脅威とされるドラゴンに(偶然)出会います。
そのドラゴンを退治して、そのあと間もなくの話です。
村人AもBも、「レッドドラゴンを倒した勇者」(結果)という点でしか見ていません。
その旅人が、どういう戦術で退治したのか、どんな経験を積んでいたのか。
旅人そのものの今までの努力や人なりについては(もちろん知らないので)、語られていません。
そしてその後に。
村に住む戦士たちは、一同に(突如やってきた旅人を)妬み嫉む……というのを、ある程度見てきました。
RPGの世界では、なぜこんなことが毎回起きているのでしょうか。
(そして、開発陣はプレイヤーへ何を伝えようとしているのでしょうか)
まず、結果だけで判断しようとすると、どこかで整合性を保とうとします。
しかし、その人とその人が歩んだ事実自体を知らないため、情報が欠如したまま判断しなければなりません。
すると、常識や思い込みから推測することになります。それでも、思いつかない場合は、むりやり推測します。
そうしていくうちに、各々の頭の中で事実とは全く異なるストーリーができてしまうのです。
しかし、主人公と一緒にいる仲間や 人柄をよく知る人は、まったく別のことを思うはずです。
こうした問題は、実はゲームやアニメ以外(SNSや現実世界)でも、かなりの頻度で起こっています。
それを痛烈に風刺したのがRPGの物語で、開発者は「(結果だけ切り取られ)羨まれ妬まれる勇者=誹謗される側に回ってどう感じるのか」を深く考えてほしいのではないでしょうか。
神絵師は「ずるくない」。不公平ではない
過程や努力をすべて無視し、結果だけを切り取ってその人を判断するの、止めませんか。というのが、このnoteの伝えたいことです。
「でもその人がそういう超人的な結果を残せるのは、やっぱり先天的にそういう才能を持っているからでしょう?」ともう一度反論する人がいるかもしれません。
いえ、そもそも、本当にその人の才能だけなのでしょうか。生まれて最初からその結果を生み出せたのでしょうか。
もし仮にそうだとしたら、その人、赤ちゃんの状態からスーパーマンですよね。
やべー世界で、もはや怖いですよ、そんなの。斉木楠雄かよ……?
そうではなくて、昔から今に至るまで人一倍努力したり、好きなことを押しのけて打ち込んだりしたからこそ、その結果を生み出せたのではないでしょうか。
まだピンとこないのであれば、ここで一つわかりやすい例を。
↑ 漫画でわかりやすく書いてあるので、読んでみてください。
神絵師が「1時間で描いた」ように見える絵は、
で描いたもの……なのです。
――ということは。
神絵師が短時間で「すごい絵」を書いていた場合、それは先天的なものでしょうか。
神絵師はチーターなのでしょうか。
勇者と呼ばれた旅人は、今までまったく努力していなかったのでしょうか。
不公平という考え方自体が、不公平なのです。
1週間だけ絵の練習をした人が、10年も絵の練習をしている神絵師に対して「不公平だ、同じような絵が書けないとおかしいじゃないか」と言っているようなものです。
たった1週間の努力量と10年の努力量が一緒なら、神絵師は報われません。それこそチートみたいなものです。
妬み嫉みをするのは、神絵師からすると見当違いなのです。
[番外]もし同じ時間を割いているのにも関わらず、同じ結果が生み出せなかったら
「1年努力し続けた絵師と 同じように1年努力し続けた絵師で、違う結果を生み出すこともあるよね、やっぱり不公平だよ」という反論が返ってきそうなので、ちょっと脱線しますが追記しておきます。
これはどういうことなのでしょうか。
まず、たまった努力、いわば経験値というのは目に見えないものです。これは、先ほど説明したとおりです。
しかし、努力というものは“どういうルートを通ってきたか”で変わってきます。
すごく簡略化すると、次のような式が成り立ちます。
経験値は、時間だけで変わるものではありません。
同じ時間努力し続けたのに結果が異なる場合は、もう一つの「質」が違う可能性を疑ってください。
「(絵を)1年努力し続けた」というのは、具体的にどうやったのでしょうか。
毎日1時間だけ描いたのか、それとも毎日8時間描いたのか
ずっと模写だけをしたのか、デッサンや骨格まで勉強して描いたのか
本をたくさん読んだだけなのか、本を読んで実践したのか
独学で学んだのか、専門のスクールにて講師とともに学んだのか
前後でかなり、というか圧倒的に違ってくるはずです。
同じ時間を割いたからといって、同じ経験値がたまっているとは限らない。
ということは。逆に、限りなく質を高めることで 短期間でも1年学んだ人より上達しているかもしれないのです。
少し脱線しましたが、そういう可能性を秘めています。[番外編終わり]
まとめ/結果だけを切り取ってその人を判断するの、止めませんか
その人の歩んできた過程(努力)を知らないのに、勝手に誹謗するのは恐ろしいことです。
こうした世の中の誹謗中傷は、上でまとめたことを十分理解していれば大抵なくなるはず。
それでも少し妬ましく感じたのであれば、まずは相手がどういう過程を歩み、努力したのかを聞いてみてください。もしくは、こっそり調べてみてください。
どれほどの経験の上で、結果を生み出したのか。知っていく内にドン引きする……そんなレベルかもしれませんよ?
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