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正義なき時代、スーパーヒーローの功罪を問う。

【『ザ・ボーイズ』(シーズン1)/セス・ローゲン&エヴァン・ゴールドバーグ製作総指揮】

シーズン2の配信開始に備え、2019年にAmazonプライムビデオ限定で配信された『ザ・ボーイズ』を観た。

今作は、数々のアメコミで描かれてきた「スーパーヒーロー」という存在について、メタ的な視点を交えながら鋭く批評してみせた作品である。

「誰がヒーローの活動を監視(牽制)できるのか?」という禁断のテーマに踏み込んだ『ウォッチメン』(2009)。自警団の延長としてのヒーローの危うさを伝えた『キック・アス』(2010)『スーパー!』(2010)。このように、「スーパーヒーロー」を批評的に描く作品の系譜は以前より存在しており、今作もその流れの中に位置付けられる。

様々な考え方はあるが、9.11、つまり、2001年の同時多発テロの発生を、こうした系譜の起点となる出来事と捉えることができる。暴力として執行されてきた「正義」が、次々と復讐の連鎖を生み出し、誰もがその正当性を見失い始めた2000年代。ここでは敢えて「正義なき時代」と称するが、そうした凄惨な現実に対する映画界からの回答が、「スーパーヒーロー」の概念を再定義した『ダークナイト』(2008)、および、先ほど挙げた作品の数々だったのだ。



それでは、2010年代の最後に生まれた『ザ・ボーイズ』とは、いったいどのような作品であったのだろうか。

この10年間のエンタメ界において、最も大きな出来事の一つが、「スーパーヒーロー」を主題とした映画シリーズの歴史的大ヒットである。特に、「MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)」が象徴的であるが、今や、「スーパーヒーロー」映画が、当たり前のように毎年の興行を賑わせており、あらゆる世代の観客にとって、そうした作品に触れる機会は著しく増えてきている。今や、世界中の人々が、正義の「スーパーヒーロー」の活躍に熱狂しており、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)は、その最も美しい結実の形であると言える。


だからこそ、既存の「スーパーヒーロー」作品に対する明快なカウンターである『ザ・ボーイズ』の衝撃は大きい。

今作においては、大資本や権力と結託した「スーパーヒーロー」の姿が、一切妥協なく描かれていくのだ。特殊能力を持つ超人たちが、巨大企業によって雇用・管理・統制されており、彼らは職務としてのヒーロー活動を引き受けている。しかし中には、もはや真っ当な正義感を持ち合わせていない者もいる。

世界中から感謝と尊敬の念を送られる「スーパーヒーロー」たち。その華々しい表舞台の裏側で、彼らの倫理観が地の底まで堕ちていく過程は、どこまでも痛快であり、そして、哀しくなるほどにリアルだ。(今作には、「名声欲」こそが「スーパーヒーロー」の弱点であると暴かれるシーンもある。)

また、「スーパーヒーロー」の能力をマネタイズすることで事業拡大を目指す企業サイドについての描写も、どれも笑ってしまうほど皮肉めいたものばかり。このコンプライアンス時代において、ここまで攻めたブラックユーモアを連発できるのも、配信オリジナル作品だからこそだろう。

この物語は、ある「事故」によって恋人を失い、「スーパーヒーロー」への疑心感を抱くようになった青年・ヒューイの目線で進んでいく。しかし、物語が進んでいくごとに、復讐の連鎖が複雑に絡まり合い、もはや収集の目処がつかなくなっていく絶望的な展開が待ち受けている。「正義」はどこにあるのか考えても無駄で、そもそも、はじめからそんなものどこにもなかったのかもしれない。そうした諦念にも似た感情を抱くほどだ。


『アベンジャーズ/エンドゲーム』の公開と同じ年に、『ザ・ボーイズ』が世に放たれたことは大きな皮肉だが、だからこそ今作は、時代の流れを揺り動かす可能性を秘めていると思う。

9月から配信されるシーズン2にも期待したい。




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