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ナマステ、インド滞在記(2012)

この滞在記は、今から10年前(31歳になる年)、2012年3月11日に東京都世田谷区で営んでいたバーを閉店し、その後インドへ約二ヶ月間一人旅をした時の記録です。
文章は当時のままで、写真は700枚以上ある中から各章1枚(!?)に絞っています。

僕がインドで感じた何かが、皆さまの大切な記憶や身心に、ふわりと触れるきっかけになりましたら幸いです。

1 インドビザ

2012年4月13日

今日の夕方にインドビザをゲットしました。
来週末か明けには旅立つ予定です。
ってことで、今日から一気にインドモードに入ろうと思います。
早速インドカレーでも食べたいところなのですが、昨日のにんにくが未だに効いてるので今日はやめておきます。


2 いよいよインドへ

2012年4月22日

日→日本
月→日本
火→日本&中国&インド
水→インド
木→インド
金→インド
土→インド

解体した自店で、旅立ち前に仲間達とひと宴。


3 ナマステ

2012年4月25日

本場から、ナマステ。

昨夜遅くにデリーに着いたのですが、24時間経たずして早くも色々あったので(笑)今日だけパケット通信をオンにしています。
というわけで、その色々をさくっとさらっと書きます。

・前日に徹夜で飲んでしまいべろんべろんで飛行機に乗る。
・インドに着く前からお腹を下す。
・デリーに到着してから読み込もうとしていた今回の旅の頼みの綱『地球の歩き方』を、トランジットの中国で失くす。
・空港を出てニューデリー駅行きのルートを探す→声をかけてきたタクシーの運転手と交渉してそれに乗ることに→(この後の流れは長くなるので省略します)→結局、今回の旅の予算の4/5約60000円をぼったくられる→車に六時間揺られデリーから南西の街ジャイプールのホテルなう。
・ソーラー式のiPhone充電器が全く役に立たない。

と、まぁこんな感じです。
でも凹んでてもしょうがないので、持ち前のバカポジティブを何とか発揮して、これからを楽しもうと思います!
ちなみに、幸いまだこっちではお腹下していません。

僕は随分前から周りの友人達に「今回の旅は人間力勝負の旅」と言っていて、「俺着いた瞬間に全てを無くすかもね、あはははは~」とか言っていたら本当にそれに近い状態になってしまいました。

インドはその人に今必要な試練を与える国、とよく言われています。
だから僕も、現実から目を逸らさず今ある全てを受け入れて、その試練とやらを乗り越えてこの国で何かを学んで帰ろうと思います。

ってことで、ちょいと仮眠してから夜の街に繰り出そうと思います。
また何かのタイミングで近況をアップします。

日本から三時間半遅れのインドはジャイプールより

上野カモ剛史


4 元気です

2012年5月2日

心配かけてごめんなさい!
僕は元気でやっています!
また夜に近況をアップします!

早朝のガンジス川。


5 バラナシ

2012月5月2日

ガンジス川が南から北に向かって流れるバラナシから、ナマステ。

インドに来て9日が経ち、ここバラナシに来て3日が経ちました。
まだ前半の前半にも関わらず、早くも本当に沢山の事が起こっています。
全部はとてもじゃないけれど書ききれないので、いくつかピックアップして書こうと思います。

まず、前回も書いたように、デリーに着いてすぐに今回の旅の予算の約4/5を失った僕は、バラナシ入りしてからは1日1000円以内(宿代400円込みなので実質600円以内)の生活を始めました。
ナイスな屋台をいくつか見つけて、1食20円~60円で抑えて(たまに100円以上になるけれど)、1杯10円のチャイや1リットル30円の水を買って、まぁ楽しく飲食をしています。
幸い、スパイスの強い料理でお腹を下す以外は、今のところ体調は良いです。

4~6月が暑季のインドでは、この時期は学校が夏休みになる為、学生や家族連れがインド中を大移動(旅行など)します。
なので鉄道や飛行機のチケットは値段に関係なくすぐに売り切れてしまいます。
何の下調べもせずにこの時期にインドに来てしまった僕は、初日にその事実を知り、行き当たりばったりの予定だった旅にプランを立てることにしました。
何人かのインド人から情報を集めて考えて、4日目に訪れたアグラで運良く辿り着いた旅行会社の人達がとても親切だったので、今回の旅の移動のチケットのほとんどをその会社で取りました。
予定を立てるのは不本意だったのですが、まぁしょうがないです。
どこにも行けなくなるよりかはこっちの方が全然良いと思うので、ある意味ラッキーだったと思うようにしています。
というわけで、何事も無ければ6/12(火)のRuby Tuesdayにデリーを出発し、翌日の朝に成田に着きます。
(これで友人の結婚式にちゃんと出席出来る!)

デリー→ジャイプール→アグラ→バラナシ→コルカタ→チェンナイ→デリー→(ハリドワール)→リシケシュ→デリー、というのが今回の旅のプランです。

今いるバラナシには2週間ちょいいることにしました。
この町はなんだか僕に合っている気がします。
(っていうか、アグラまでは旅をしている実感が全くありませんでした、初日に連れていかれた悪徳旅行会社のせいで)
やっと一人になれたというのと、町や人々の雰囲気、そして最大の理由は何と言ってもガンジス川があることです。
初めて目にした時に、僕は思わず涙を流してしまいました。
全てを包み込んでくれる偉大な母のような存在、という知識はありましたが、まさかこれ程までとは思いませんでした。
ここに来るまでの色々な想いが一気に出て、初めて沢山の緊張が抜けたのを実感しました。
今は朝6時と午後~夕方の1日2回ガンジス川に行って、ぷらぷらしたりぼけ~っとしたりインド人達や旅人達との会話を楽しんだりしています。

今泊まっている宿もかなり気に入ったので、当初の予定を大幅に延長して、バラナシにいる間はずっとお世話になることにしました。
兄弟でやっている4階建て屋上付きの宿なのですが、その兄弟や2階に住んでいる家族達が最高過ぎるし、沢山の外国人旅行客が来るので、とても刺激的で楽しい毎日を送っています。
ガンジス川からは少し離れているのですが、この距離感も気に入りました。

とまぁ、最初はどうなることかと思った旅も気が付けば1週間以上が経ち、インド人の嘘や独特の雰囲気や、路上の牛や犬やその糞やゴミの多さや、しつこい客引きや、道路交通のカオス具合いや、暑さや匂い(臭い)などにもようやく慣れてきました。
そしてここバラナシでは自分の居場所(?)を見つけたような気がしているので、ここにいる間はリラックスして色々な事が出来ればいいなと思っています。
いや、むしろ"何もしない"ということをしてみようと思います。

ってことで、またちょいちょい近況をアップします。

18:30、人々の祈りが始まった夕暮れのガンジス川から月を眺めて。


6 カレー

2012年5月7日

日→カレー
月→カレー
火→カレー
水→カレー
木→カレー
金→カレー
土→カレー

ガンジス川近くのレストランのターリー。
35ルピー(約70円)。


7 停電

2012年5月11日

ナマステ。

インドでは停電なんて日常茶飯事、とは聞いていたものの、実際にそれを体験すると、電気のありがたみや電気の上手な使い方などを少し深く考えるようになる。
これを書いている今も、実はさっきまで約三時間の停電が起きていた。
夜九時過ぎにいざ寝ようとした時に起こったものだから、天井に付いているファンも止まってしまって、もう暑くて眠れやしなかった(まぁファンが回っていても暑いことには変わりはないけれど)。
ようやく復活したわけだけれど、完全に目が冴えてしまっているので日記を書くことにした。
ちなみに、こちらバラナシの毎日の気温は、最高が43℃で最低が29℃である。

早いものでインドに来て二週間以上経ったのだけれど、そういえば信号をあまり見かけない。
今いるバラナシでの僕の日々の行動範囲の中には、信号は一つも無い。
前回もちらっと書いたけれど、そんな信号の無い道路交通の状態はまさにカオスである。
歩行者よりも車が優先という、日本人にはかなりびっくりなシステム故、はっきり言って最初はギャグかと思ってしまったくらいである。
逆走はするし、歩行者間の少しの隙間にもグイグイ来るし、クラクションはほぼ鳴らしっぱなしだし、これで事故が無いのが本当に不思議である。
いや、不思議だった。
しかし、そんな道路を毎日歩いていると、いつの間にか僕もこのインドのカオス道路に慣れていることに気が付いた。
慣れるとはつまりどういうことなのかというと、簡単に言えば"自分の身は自分で守る"ということの実践の結果である。
"赤だから止まって青だから進む"という概念ではなく、"よし、今このタイミングで渡ろう"という、もはやその場の感覚的なものであり、実は人間に一番必要な感覚なのではないかと思った。

自分の身は自分で守る。
それは危機管理能力のことであり、この考えは恐らく老若男女皆同じである。
何かや誰かや決められたモノに全て頼るのではなく、自分の思考や感覚で生きていく。
もちろんサポートが必要な人達は沢山いるけれど、基本的な考え方はあまり変わらない気がしている。
(でも僕が考えているよりももっともっと深い部分に、未だに根強く残っているカーストというものがあるわけだけれど、今回はその話はやめておくことにする)

話が少し逸れてしまったけれど、何が言いたいかというとつまりこうである。
恐らく生まれながら(遺伝子レベル?)にして危機管理能力が備わっているインド人は、停電しても全く慌てないということである。
道路には元々信号なんて無いので、いつも通り自分の身は自分で守りながら歩行や横断をするし、屋台や店舗はキャンドルをつけて商品を照らす。
そして高い建物がほとんど無いバラナシでは、月明かりだけでも十分明るいし、その明かりで本が読めてしまうくらいだ。
もちろん、電気が無いと全く進まない仕事などは困ると思うけれど、まぁそこはインド人ならではの大らかさ(ルーズさ)で、"無いものはしょうがない"といった感じで別の方法や別のことをやり始める。
お客にとってはたまったものじゃないと思いきや、お客もまた"無いものはしょうがない"といった感じで諦めて別の方法や別のことをやり始める。
(とは言え、個々でジェネレーターを持つ店舗などは沢山ある)
確かに効率は物凄く悪いのだけれど、どこか自然で人間的なものを感じてしまうし、僕はこの感覚がとても気に入っている。

先日日本では全ての原発が停止し、その喜びの声と同時に夏のピーク時やこれからの不安があるようだけれど、インドにいると実はそれらはそれ程大したことではないのではないかと思ってしまう。
もちろん人や企業によっては死活問題なのかもしれないけれど、今の生活水準や仕事の効率水準をほんの少し下げるだけでいいのなら、原発など無い方が良いに決まっている。
原発問題のことはあまりFacebookには書いていないけれど(Twitterには書きまくっている)、僕は100%脱原発派である。
僕は命よりも大切なものはないと思っているので、人体に影響のある放射能を撒き散らし、それらの最善の処分方法も未だに見つけられない原子力による発電など、もはや一部の悪によるただの利権絡みの道具でしかないと思っている。
(彼らが去年実施した、原発が必要だと思わせる為の"偽装"計画停電では、悲しいことに死傷者まで出てしまった)
これからの僕らは、お金や電気よりももっと自分の頭や身体を使って別の何かを見つけるべきだと思うし、命があってこその便利さだということを忘れてはいけない。
原子力から原始力へ、である。

話が飛び飛びになってしまって申し訳ないのだけれど、インドに来てからの僕は何だかどんどんシンプルになっていっているような気がしている。
旅はまだまだ続くけれど(あと33日)、この色々な意味での人間臭さ全開のインドで、僕は自分自身がどう変わっていくのかがとても楽しみなのである。
あまり難しいことは考えずに、着の身着のまま、自分の感覚を頼りに旅を続けようと思う。

停電しても死にはしないし(多分)、もし万が一暗い気持ちになってしまったのなら、そんな時は歌でも歌おう。
月明かりが照らすステージは、きっとどんなステージよりも豪華で穏やかで優しいはずだから。

Everything's gonna be alright ♪


8 ロンバケ

2012年5月15日

バラナシ最終日に、16日間滞在したゲストハウスからナマステ。

早いものでインドに来てから三週間が経ち、この旅もあと四週間となった。
僕は今夜バラナシ駅から寝台列車に乗り、約12時間かけてコルカタという都市に行く。
ただインドの電車というのは時間通りに来ることはごく稀であり、実際アグラからバラナシ行きの寝台列車に乗った時も一時間遅れてやって来て、何だかんだで合計三時間遅れでバラナシに到着した。
だから明日も一体何時に到着するのかは分からないけれど、これから新しい地でどんな人に出会い、そしてどんな経験をするのかがとても楽しみである。

ここバラナシでは本当に沢山の人に出会った。
バラナシのインド人は良くも悪くも旅人を放っておいてはくれない。
そしてノンストップで話しかけてきて、こちらに考える隙を与えてくれない。
こちらが何も主張しなければ、あっという間に彼らの土俵の上で簡単に転がされてしまうのだ。
特にガンジス川沿いを歩いていたり、ガートに腰を下ろしていると、気が付けばいつの間にか隣にインド人がいるのである。
そして「ボート、ボート」「ハシシ、マリファナ、チョコ」「ハロージャパニ、ウチノミセヤスイヨ」と毎回同じ様な台詞で近寄って来るのである。
それらの客引き行為を受けるのは初めは新鮮だったのだけれど、あまりのしつこさに段々とイライラしてきた時期もあった。
無視しまくったり、日本語全開で文句を言ってみたりしたこともあった。
(まぁいまでも基本は"無視"だけれど)
しかし今ではもうそんなの挨拶みたいなものという感覚になってきたし、僕が二週間毎日ガンジス川を歩いているもんだから、向こうも僕のことを覚えてきていて、今では普通に「ハロー」と言い合いながら握手する仲になり、更には一緒にチャイを飲んだりしているから不思議である。

初っ端のデリーでひどい目にあい、その後のジャイプールとアグラでは完全にインド人不信になっていた僕だったけれど、ここバラナシではインド人特有の人間臭さを体感することが出来、本当に沢山のインド人とコミュニケーションをとり、沢山の優しさやその心の暖かさに触れたことで、僕のインド人に対するイメージは確実に変わっていった。

友達も沢山出来た。
ガンジス川では、洋服屋の自称ブラピ(確かにちょっと似てる)、ボート屋のマヘンドラ、マッサージ屋のディッセンバー、針金アーティストのサダン、絵描きのピャレラ、などなど。
特にブラピとはお互い気が合い、お金が無い僕に安い店を色々紹介してくれたり、チャイを奢ってくれたり、終いには自宅にも招待してくれて、彼のナイスなビッグファミリーと共に夕飯をご馳走になったりしたこともあった。
そして僕がガンジス川からの帰りに毎日通っていた屋台(つよしセット=ポテトが入った揚げトースト&ポテトと豆の揚げ物=20円)の兄妹タヌーとアンビカともとても仲良くなった。
ゲストハウスのスタッフとももう完全に仲良しで、何回か夜中に屋上や僕の部屋でビールやウイスキーを飲みながら、盛り上がったり語り合ったりした。
ビルオーナーのおじいちゃんとも、屋上の電気を消して月明かりの下お互いのことを語り合ったこともあった。
二階に住んでいるファミリーのちびっこ兄妹ナナドとダルニシアドとも沢山遊んだし、僕が張り切り過ぎてジャイプールで買ったパンツが破けてしまい、みんなで大笑いしたこともあった。

僕は今、彼らインド人の人に対する距離感というものを、少しずつ肌で理解してきていると思う。
そして当たり前のことだけれど、何をするにしてもまずはこちらが心を開かなくてはならないということも深く実感した。
でも初対面で余りにも信用しすぎるとまた痛い目にあってしまうので、緊張感と開放感を同時に持ちながら、あとはもう自分の人間力勝負、といった感じのスタイルで今は生活している。

人間力勝負。
これは僕がずっと望んでいたことである。
何もなく誰も知らないという所で、僕には一体何が出来て、そして何をしようとするのだろうか、というのが自分でも楽しみなのである。
因みに、多くの友人にとっては周知の事実なのだけれど、今の僕は家と仕事が無く(所謂、住所不定無職)、お金だってそんなに沢山あるわけではない。
でも不思議なことに、ちっとも焦ってはいないし、むしろ今の方が生きているという実感は大きい。
この先のことはまだ何も分からないし、これが長いお休みなのかどうかも分からないけれど、人生の中でこういう時間の過ごし方が出来るのはもしかしたら今しかないかもしれないので、僕は思う存分歩いて走って躓いて転がって生きていこうと思う。

自分の人生の正解や幸せというのは、自分の中にしかないのだから。

そう言えば先日ブラピと色々話していた時に、彼がこんなことを言ってくれた。

「Don't worry , be happy !!!」

世界を回るメリーゴーランドは、まだ動き出したばかりなのである。


9 コルカタ

2012年5月22日

コルカタ最終日の朝にナマステ。

僕は今日の夕方の飛行機で、コルカタから南に約1300km離れたインド南部に位置するチェンナイというところに行く。
コルカタではまだ一度も日記を書いていなかったので、この一週間を振り返って書いてみようと思う。

僕がコルカタに到着したのは、陽が沈んでしばらく経ってからだった。
バラナシ駅19:15発の寝台列車は、乗車時間12時間という当初の予定を大幅に(というか倍以上)上回り、なんと25時間かけてコルカタのハウラー駅に到着した。
多くの長距離列車の発着駅であるハウラー駅は、とても沢山の人で溢れ返っていた。

電車を降りてすぐに感じたことは、湿度が物凄く高いということと、風が吹いているということだった。
今まで行ったデリー、ジャイプール、アグラ、バナラシはインド北部に位置していたけれど、コルカタはインド東部に位置している。
当たり前のことだけれど、土地が変われば気候も変わるのである。

コルカタは街全体がまさにカオスである。
インドの大都市にあたるコルカタは、近代化とイギリス植民地時代の名残があり、街並みはとても綺麗な所が多く、道行く人達も小綺麗な人達が多い。
それにジャイプール、アグラ、バナラシではあまり見かけなかった若いインド人女性の姿もとても多く見かける。
そして今まであれだけ目にしていた牛の姿が見当たらず、道に大きな糞が落ちていることもない。
しかし一本路地を入ったり、よくよく大通りを見てみると、やはり未だに路上生活者や物乞いをする人達は存在していた。
近代的な建物の前にある屋台やその傍で物乞いをする人々(五体不満足な人達も沢山いる)と、何事も無くまるで見えないかのようにその脇を通り過ぎていく人々。
この、街全体のカオス具合いは、四年前に一人旅で訪れたタイのバンコクを彷彿させた。
新旧入り乱れた街の雰囲気が、どことなく似ている印象を受けた。
日本人にとっては物凄い違和感なのだけれど、彼らにとってみたらこれが普通であり、これが今の街や自分達の姿なのである。
インドでは大都市になればなるほど、貧富の差というものは大きくなり、そのカオス具合いも大きくなるのかもしれない。

そして大都市だからなのかどうかは分からないけれど、コルカタではしつこい客引きや言い寄って来る人達はとても少ない(今までが多過ぎたのかもしれないけれど)。
自分が放っておいてもらえるのは、もしかしたらインドに来て初めてのことかもしれない。
しかし、インド人が放っておいてくれる変わりに、高い湿度が僕を放っておいてはくれなかった。
今まではインド人が僕にへばりついていたのだけれど、ここではTシャツが僕にへばりついているのである。
はっきり言って毎日の天気の個人的不快指数は80以上である。
それはゲストハウスの部屋にも言えることであり(安い部屋なのであまり文句は言えないけれど)、乾いているものが湿ってしまうほどの高い湿度とカビ臭さと虫の多さで、僕はどうしてもその部屋にいることが出来ず廊下で寝たこともあった。
結局そのゲストハウスからはすぐに移ったのだけれど、高い湿度だけは新しいゲストハウスでも同じであった。
慣れるしかないのである。
これがコルカタという街なのだ。
(後で知ったことなのだけれど、初めに二泊した「PARAGON」というゲストハウスは、どうらやバックパッカーの中では伝説のゲストハウスらしい。僕には全く理解出来ないけれど、まぁ別の意味では伝説になった…)

実はコルカタに来てから毎日お腹を下している(苦笑)。
体調不良とまではいかないけれど、今までのスパイスの強い料理でお腹を下すのとは少しわけが違うような気がしている。
原因はいくつか考えられる。
寝台列車の寒さ(インドの鉄道はエアコン無しはとても暑く、エアコン有りはとても寒い)、高い湿度(カビ臭&虫含む)、旅の疲れ(あまり認めたくはないけれど)などが挙げられる。
その為、コルカタではほぼ毎日寝不足で、スピード&テンションはややダウン気味であった。
しかし今までがかなりのノンストップ&ハイテンションだったので、もしかしたらこういう時間が必要だったのかもしれないと思うようにした。
所謂、自分と向き合う時間というやつである。
まぁそういったわけで、あまりアクティブに動き回る気にはなれず、街の見所はいくつもあるのだけれどあまり遠出はせず、割と近場を毎日歩いていた。
因みに、あれだけ毎日食べていたカレーはコルカタではあまり食べていなくて、お気に入りの屋台でベジチョーミン(焼きそば風40円)やベジフライドライス(炒飯風50円)をほぼ毎日食べていた。
何回かエアコンの効いているレストランやバーに行ったりもした。

そんな僕のお気に入りスポットは、何と言ってもマイダーンである。
マイダーンとは、ニューヨークのセントラルパークのように都会のど真ん中にあるバカでかい公園(緑地)のことで、僕は毎日そこに行き、賑やかな家族連れやデートをするカップルやスポーツをする少年達に混じって、のんびり自分の時間を過ごしていた。
時には少年達と一緒にサッカーをしたり、木登りをして遊んだりしたこともあった。
彼らの笑顔と共に、植物達や動物達や青空の中で過ごす時間は、本当に心が穏やかになり優しい気持ちになれる時間だったし、木陰や夕暮れ前に吹く風はとても心地良く、それまでの僕の不快指数の殆どを取り除いてくれた。

マイダーンでの強い陽射しと芝生の匂いや感触は、僕の少年時代の記憶を蘇らせた。
サッカーに明け暮れていた日々の記憶や、青春時代の記憶である。
それらをきっかけとして僕の記憶の扉は一気に開かれ、とっくの昔に忘れていた(引き出しの奥にしまっていた)出来事までをも鮮明に蘇らせたのである。
僕はマイダーンでそれらの記憶に浸ることがとても心地良かった。
インドにいることを忘れてしまうことさえあったくらいである。
それと同時に、実は最近、帰国してからのことを少しずつ考え始めていたのだけれど、未来のことを考えようとすると急に過去の出来事が頭や心に浮かんでくるのである。
たまに過去と未来が入れ替わってしまう時もあり、先のことをうまく考えることが出来ないのだ。
先のことは今考えないでいい、という何かからの啓示なのだろうか。
理由は全く分からないけれど、それらの感覚に不思議と違和感はない。

今の僕はまるでコルカタの街のようだ。
過去と未来が交錯していて、同時に今存在している。

よく考えたら、今回の旅の目的を誰にも言っていなかったと思うので、今ここに書こうと思う。
僕の今回の旅の目的は、"旅をすること"である。
旅とはつまり何だ、と聞かれても、"旅は旅"なのでそれ以上は僕にも分からないし答えようがない。
少し格好付けて"旅とは人生"とも言えるけれど、残念ながら僕はまだそこまでの旅人ではない。
僕はただ旅に出たかったのだ。
旅に出たくて仕方がなかっただけなのだ。
そして何かをする為にインドに来たわけではなく、何もしない為にインドに来たのである。

だから僕はとにかく旅を続けようと思う。
大事な過去を持って、大事な未来に向かって。
一番大事な今を生きていく為に。

「過去は決して過ぎ去り止まってしまったものではなく、記憶のねじを巻けばまたすぐに動き出す不思議な生き物。
そこには感情という最も大事な記憶がしっかり冷凍保存されていて、風景や匂いや味や音や感触によって優しく解凍される。
記憶とは今のことであり過去のことであるが、同時に未来のことでもある。
過去の記憶は、まだ見ぬ明日への希望である。」

うだるような暑さの隙間を縫って、コルカタの街と僕の心の中に、心地良い風がまた吹いて来た。


10 チェンナイ

2012年5月26日

チェンナイ最終日の朝にナマステ。

僕は今日の夕方に飛行機と鉄道を使って約1900km北上し、インド北部の中でも割と北寄りに位置するリシケシュという街に行く。
そこには二週間滞在する予定なのだけれど、その全ての期間をヨガアシュラム(道場)にお世話になることにした。
(それについての詳細はまた後日)
チェンナイには五日間滞在したわけだけれど、この街には独特の時間が流れていて、とても不思議な気付きを僕に与えてくれた。

コルカタで受けた心地良い風に乗って、僕はチェンナイまでやって来た。
夕暮れ時に空港に着き、そこからタクシーに乗ってとりあえず主要駅に行くことにした。
タクシーの中から見た風景には、これまでの土地同様、新しい土地に来た時に感じる新鮮さと期待と不安が入り混じっていた。
そしてそれらと、その街で暮らす(或いは働く)人々やその街の持つ雰囲気によって、僕の中でのチェンナイの第一印象は確立された。
改めて言っておくけれど、僕はガイドブックも地図も持っていないので、その街がどんな雰囲気でどこに何があるのかという情報を事前にバッチリ得ることが出来ない。
多少の情報はインド人や旅人から得ている時もあるけれど、やはり着いてみなければ何も分からないのである。
情報というものは、自分の身体を通して初めて実感され、意味を持つようになる。

チェンナイはインド東岸のベンガル湾沿いに位置していて、インド南部では最大の港湾都市であり、空と陸の玄関口でもある。
チェンナイ空港には国際線ターミナルもあり、チェンナイセントラル駅にはほとんどの都市からの長距離列車が発着している。
そして今までの土地では一度も見なかったフィッシュフライなどの魚料理を売る屋台も沢山あった。
またコルカタ同様、イギリス植民地時代の名残りがあり、古い洋館がいくつか目に付いたし、イギリスやポルトガルによって建てられたキリスト教の教会や大聖堂も見ることが出来た。
南北にとてつもなく長い砂浜を持つマリーナビーチは、いかにも南国という感じでゆったりとした時間が流れているし、朝夕には涼を求めて沢山の人が集まって来る為、屋台がとても沢山あり、ちびっ子からお年寄りまでがとても楽しそうにそこでの時間を過ごしていた。

チェンナイの人々は、今まで回ってきた土地の人々とは少し顔つき(顔のつくり)が違い、話す言語もヒンディー語ではなくタミル語を使っていた。
そして英語の発音も独特のイントネーションがある為、はっきり言って何を言っているのかほとんど聞き取れない。
(それは僕の英語力にも問題があるのだけれど)
それにしても、南国特有のゆったりとした時間の流れや人々の雰囲気というものは、万国共通なのだろうか。
僕はまだ一度も沖縄に行ったことが無いので間違っていたら申し訳ないのだけれど、この"なんくるないさぁ~"的な雰囲気と人々の優しい笑顔は、僕の心をとても軽いものしてくれた。
それに、チェンナイではしつこい客引きに一度も遭わなかったし、外国人だからといってジロジロ見られることもほとんどなかった。

僕が泊まっていたゲストハウスは、チェンナイセントラル駅から歩いてすぐのところにある安宿街で、周りには飲食店や売店よりも、商売用のキッチン用品や工業用品を売る店が多かった。
宿のスタッフに聞いたのだけれど、どうやらここのエリアは東京の浅草橋や合羽橋のような問屋街で、特にスチール製のキッチン用品が有名らしい。
そしてハワイやグアムのような"ザ・南国リゾート"という雰囲気のエリアは、駅からもう少し離れたところにあって、そこにはプール付き高級ホテルや中級ホテルなどがやしの木と共に立ち並び、付近にはショッピングモールや映画館などもあるそうだ。
僕はわざわざ飛行機に乗って南国まで来たのだけれど、一般庶民や路上生活者達が多く暮らすエリアで毎日過ごしていた。
因みに、チェンナイでは日本人を一人も見かけなかった。
(リゾートエリアには居たのかもしれないけれど)

チェンナイの路上生活者の数は、今まで僕が見てきた中では一番多かった。
しかし、チェンナイはコルカタほどの大都市ではないにせよ、僕はコルカタで感じたようなカオスっぷりや違和感は抱かなかった。
街の雰囲気と様々な人々の持つそれぞれの雰囲気が、違和感なくそこに存在しているのである。
全てのものが風景に溶け込んでいる。

「全てのものが風景に溶け込んでいる」

僕は思わずハっとした。
なるほど、そうだったのか。
"全てのもの"の中には、僕も含まれているのだ。
いつの間にか、僕はこの風景に慣れてきているのかもしれない。
そしてこの風景に、僕自身が馴染んできているのかもしれない。
確かに、ここに来てから妙な落ち着きというか安心感みたいなものが僕の中にはあった。
それはこの南国特有の雰囲気のおかげだと思っていたけれど、もしかしたら僕自身の持つ雰囲気も少しずつ変わってきているのかもしれない。

とても不思議な気付きである。
風景に溶け込み、風景の一部となって、今ここに僕はいるのである。

先日、夜中にテレビを付けたらなんと『ドラえもん』(ヒンディー語吹替)がやっていた。
ドラえもんはもちろん、のび太もスネ夫もジャイアンもしずかちゃんもいた。
昔から知っている『ドラえもん』の風景である。
当たり前だけれど、ドラえもんはどこにいてもドラえもんだし、のび太はどこにいてものび太なのだ。
風景に溶け込み、風景の一部であると共に、彼らはそれぞれの人生の主役なのである。

「あなたの居場所はどこですか?」と聞かれたら、僕はこれからこう答える。

「今いるところが僕の居場所です」


11 ヨガライフ

2012年5月27日

このタイムテーブルで今日から二週間過ごします。


12 リシケシュ

2012年6月3日

リシケシュにある「YOGA NIKETAN TRUST」というアシュラムからナマステ。

前回アップした写真のタイムテーブル通りの生活を続けて一週間が過ぎた。
4:30に起きて22:00にはベッドに入るという、今まででは考えられないようなリズムで生活をしているのだけれど(僕の店「PABLO」は23:00オープンだった)、二三日経ったくらいから少しずつ身体に馴染んで来て、今ではモーニングベルや目覚まし時計よりも早く目が覚めるようになっている。
長年自他共に認める"ミスター不規則"だった僕が、今こんなに規則正しい生活をしているということは、自分でも本当に驚きである。
それは、このアシュラムの心地良い雰囲気や、リシケシュという町が持つ静かで力強いパワーのおかげかもしれない。

山に囲まれ、ガンジス河が町の真ん中を流れるリシケシュは、言わずとしれたヨガの聖地であり、ヒンドゥー教徒の巡礼の町でもある為、付近には沢山のアシュラムやヒンドゥー寺院や沐浴所などが点在している。
そしてガンジス河の上流に位置しているので、ヒマラヤから流れてくる水がまだとても冷たい。
また、巡礼の町ということで、ベジタリアン料理やノンアルコールが徹底的に守られている町でもある。
お酒が飲めないのはあれだけれど(笑)、ヨガが好きで肉も魚も卵も食べない僕にとってはピッタリの町なのである。
因みに牛乳(乳製品)はインドに来てからは摂るようにしている(僕は日本では乳製品も摂らないヴィーガンだった)。
ヒンドゥー教では牛は神様であり、その神様から与えれたものはいただく、という考えなので、インドでは僕もその考えに従って生活している。
それに牛乳を断ってしまうと、インドの食の醍醐味であるカレーやチャイやラッシーもNGになってしまうので、今は何も気にせず美味しくいただいている。
現在、特にこれといった体調の変化は無いので、もしかしたら日本に帰ってからも引き続き乳製品を摂る食生活を続けるかもしれない。

今いるアシュラムは滞在型(最低12日以上)なのだけれど、だからといって必ずしもタイムテーブル通りの生活を送らなければならないということではない。
もちろんそれぞれの時間は決まっているのだけれど、参加は自由で、不参加だったからといって怒られることはない。
門限はあるけれど外出や外泊は自由だし、メディテーション(瞑想)やヨガにはあまり参加せずホテル代わりに使っている人達もいる。
因みに僕は、今のところ全てのメディテーションとヨガに参加している。
食事も毎回違っていて美味しくて嬉しいのだけれど、スタッフがお代わりをどんどんよそってくるので毎回満腹状態である。
朝食は一度食べたけれど今の僕の生活には少し重かったので、今は朝食を抜いて一日二食にしている。
はっきり言って、様々な面に於いて今いる環境がインドに来てから一番良いので、身体を動かしているのに太ってしまわないか少し心配している(笑)。
部屋は質素だけれど広くてバス&トイレ付きだし、フィルターを通した冷たい水が飲める給水所や図書館もあり(日本の本も沢山ある)、アシュラムから一歩も外へ出ないで生活することは可能である。
僕は毎日午前中に外出して、朝食代わりにチャイやマンゴージュースやレモンジュースを飲んでいるけれど。

このアシュラムが居心地が良い理由は他にもある。
リシケシュの大自然の中にある為、緑が沢山あってとても静かで、朝晩は涼しい時もある。
インドに来て涼しいと感じたことはもちろん初めてである。
昼間の強い陽射しとセミの鳴き声や、メディテーションやヨガの時に聞こえてくる風に揺れる木々達の音や、夜の月明かりの下の鈴虫の鳴き声は、本当に心を穏やかにしてくれる。
山の中なので猿やリスや鳥やトカゲや無数の虫達も沢山いて、僕は今彼らと共に生活をしている。
ここの先生やスタッフもとても素敵な人達ばかりで、挨拶や何気ない会話にも自然と笑みがこぼれてくる。
リシケシュやアシュラムということもあってだと思うけれど、彼らはとても穏やかで、そしてリラックスして仕事または生活を送っている感じがする。
聖なる地や自然の中だと、人間の心の中や仕草なども聖なるものや自然なものに近付くのかもしれない。

ここに来てからの僕も、やはり少しずつ変化しているのが自分でも何となく分かる。
今まで新しい土地に来ると沢山動き回っていたのに、リシケシュに来た途端にそのスピードは急激に落ちた。
落ちたというより、ほぼゼロに近いと言ったほうがいいかもしれない。
しかし、決して好奇心が無くなったというわけではなく、相変わらずそれだけはバックパックにも入りきらないくらい沢山持っている。
では好奇心を行動に移していないだけなのだろうかと考えたけれど、僕は良くも悪くも"思い立ったら即行動"というタイプの人間なので、恐らくそういうことではない(と思う)。
ではそれ以上に好奇心を持つ対象とは一体何なのだろうか。
そして、あれだけ沢山外に向いていた僕の好奇心は一体どこに行ってしまったんだろうか。
僕はその原因を考えた。
しかし答えはすぐに出た。

「アシュラムだ」

アシュラムの環境やここでの生活が、僕の好奇心の方向を変えているのだ。
今まで外側に向いていた好奇心が、今は内側に向いているということに気が付いた。
内側とはつまり僕のことであり、僕は今リシケシュの町や人々やバラナシであれだけ毎日行っていたガンジス河よりも、自分自身に対して興味があるのである。
そして外側に対しての欲というものが、今は全く無いのである。
変な言い方かもしれないけれど、今の僕が一番強く好奇心を抱く対象は、何を隠そう僕自身なのである。

外の世界から少し離れ、沢山の植物や動物に囲まれ、規則正しい生活を送り、メディテーションやヨガで自分自身と向き合い、沢山の自由時間をのんびりリラックスして過ごす。
異国の地で、今まで経験したことの無いこのような日々を送って何をどう感じるのか、またそのような自分自身に対して何をどう感じるのだろうか。
僕は旅の最終段階にこのリシケシュとこのアシュラムを選んで正解だったと思っている。
当たり前だけれど、振り返れば今まで色々なことがあった。
そしてその色々なことを経て、今こうしてしばしの静かで穏やかな生活を送ることになった。
今、僕の好奇心は内側に向いている。
今、僕の欲は内側に向いている。

ここに来てから、ふと"キレイとは何か"と考えたことがある。
完璧に手入れされたものがキレイなのだろうか。
薬品を使って除菌されているものがキレイなのだろうか。
破けていない服を着ることがキレイなのだろうか。
部屋に虫がいたり道に糞が落ちていることはキタナイことなのだろうか。
手を使ってものを食べることはキタナイことなのだろうか。
左手でお尻を吹くことはキタナイことなのだろうか。
僕達はいつから目に見えているものだけで判断するようになってしまったのだろう。
僕達はいつから人間第一の考え方になってしまったのだろう。
大切なものやキレイなものは、いつだってその人の内側にあるはずなのに。
命が一番大切だという考え方は、決して人間だけのものではないはずなのに。

もっとシンプルに。
もっと身軽に。
もっと自然に。
沢山の植物や動物や物事と、競争ではなく共存できるように。

3.11以降掲げている僕のテーマである「全ての執着を愛着に」という言葉の意味を、ここリシケシュのアシュラムで深く深く実感している。
自分が幸せだと感じる心やその感覚を、僕はもっともっと豊かにして生きていきたい。

「グッバイ執着、ハロー愛着!」


13 リシケシュ2

2012年6月9日

リシケシュ最終日の朝に、二週間滞在したアシュラムからナマステ。

僕は今日リシケシュからオートリキシャーかバスに乗り、約一時間揺られてハリドワールという町に行く。
そしてそこで一泊して、次のデリーで二泊したら、このインドともお別れである、多分。
というのも、実は今帰国の飛行機(エアインディア)のパイロットがストライキを起こしていて、当日までどうなるか分からない状況であり、最悪の場合帰国が延期になることも考えられるのである。
僕は週末に横浜で開かれる友人の結婚式に出席する予定なので、それまでには何が何でも帰国したいのだけれど、果たしてどうなることやら…。
この旅は、本当に最初から最後までアクシデントだらけのインクレディブルな旅である 。
しかしまぁ、先のことを心配し過ぎて今を楽しめないのは嫌なので、後はもう当日のお楽しみということにして、残り僅か(?)なインド生活を満喫しようと思う。

このアシュラムでの二週間は、身も心も本当にリラックスして過ごすことが出来た。
沢山の植物や動物達に囲まれての規則正しい生活は、僕の心をシンプルで穏やかで軽いものにしてくれた。
そして前回も書いたように、今の僕の好奇心の矛先である僕自身についても、色々深く知ることが出来た(それについて詳しく書くととんでもない量の文字数になってしまうのでやめておく)。
しかし、だからといって自分自身を完全に理解したというものではなく、簡単に言ってしまえば「僕は今までもこれからも僕なんだ」という当たり前のことを改めて深く実感したということである。
僕の代わりは誰もいないし、あなたの代わりも誰もいないということである。
メディテーションやヨガの時の呼吸や、それらの前後や食事の前にするお祈りの声の響きやその雰囲気に、ふと自分の存在というものを実感したりするのである。

この国の人々は常に祈っている。
神、または自分の中にある大いなるものに。
僕は無宗教だけれど、人々が祈る全ての神の存在を信じているし、僕や僕以外の人が何を神や大いなるものと思うかなんて、はっきり言ってどうでもいいことであって(個人やその家庭の自由という意味)、例え別宗教だからといって差別や批判の対象にされるのはおかしいと思っている(人間的に明らかに間違った活動をしている宗教団体は別だけれど)。
人々の祈る姿というものは、宗教や国籍や老若男女問わず、純粋で神秘的で美しいものだと僕は感じている。
しかし、それは決して単純な見た目だけの話ではない。
祈る為に彼らがしている何らかの行動の結果が、祈る際にその人自身のトータルの雰囲気となって出てくるのである。

去年の3.11直後から日本国内外で「PRAY FOR JAPAN」というフレーズが多く出回っている。
PRAYとは祈りのことである。
僕も真っ先にこのフレーズを使って自分の想いやメッセージを発信したのだけれど、とんちんかんな僕はPRAYを間違えてPLAYと表記してしまったのだ。
周りから沢山指摘されて赤っ恥をかいたのだけれど、僕はその時あることに気が付いたのである。
PRAY(祈り)とはPLAY(行動)のことなのではないだろうか、ということである。
残念ながら、超能力者でない限り祈るだけでは物事は解決しない。
祈る気持ちを行動に移して、初めて物事は前に進むのである。
PRAY=PLAY。
だから僕はそれ以降「PRAY(PLAY) FOR JAPAN」と言い続け、行動している。

無宗教の人が多い日本では、祈るということの意味を深く知る人は少ない(と思う)。
もちろん僕もその一人であり、だからこそ、ここインドで彼らの祈る姿やその行動にはとても神秘的なものを感じるし、大切な何かに気付かせてもらったりしている。
それは、彼らの呼吸であり、一つの意思表示でもある。
そして今日も、彼らは祈り、行動するのである。

「祈りとは損得を超えた行動のことであり、
行動とは今を生きる確かな呼吸のことであり、
呼吸とは自分だけの小さな意思表示のことであり、
意思表示とは想いを込めた強い祈りのことである」

リシケシュの気持ち良い空気で沢山呼吸をして、僕はまた新しい町に向かって一歩を踏み出そうと思う。

PRAY(PLAY) FOR ME
PRAY(PLAY) FOR YOU
PRAY(PLAY) FOR GOD

and...

PROVE MYSELF
PROVE YOURSELF

今までもこれからも僕は僕だし、あなたはあなたなのである。


14 帰国

2012年6月14日

ナマステ&ただいま。

昨日の朝に、無事成田に着くことが出来た。
デリー出発当日まで詳細が分からなかったエアインディアのストライキは、まぁ想定内というか案の定続いていて、僕は駄々に駄々を重ねてこねまくり(でも僕は1%も悪くないので正確な駄々ではないけれど)、結局飛行機を二回変えてもらった結果、なんとJALの新型機ボーイング787に乗って帰国することが出来たのだった。
しかも僕の席はインド人がキャンセルした席だったので、機内食にベジタリアンフードが出て来て、これまたラッキーだったのである。
エアインディアとの飛行機の変更交渉は中々ハードだったのだけれど(スタッフによってやる気の度合いが違いすぎる等云々)、最後のご褒美にとても快適な空の旅をプレゼントしてもらえたので、まぁ全て良かったということにしようと思う。

成田に着き、そして自宅(実家)に着き、約二ヶ月のインド一人旅が終わった。
ありきたりな表現なのだけれど、この二ヶ月で本当に沢山のことを学び経験することが出来た。
なので、もう一度この二ヶ月を振り返ってみようと思い、写真や日記を何度も読み返したりしているのだけれど、何故か僕は上手く振り返ることが出来ないでいるのである。
インド滞在中はあれだけ振り返ることが出来たのに、一体どうしてなのだろうかと思っている。
確かに、最後にやってくるソワソワ感は少しはあったし、先のことを全く考えていなかったわけでもない。
しかし、感覚的に言ってそういう種類のものではない気がしているのである。
もちろんインドから気持ちが離れたとかそういうことではない。
僕はインドが本当に大好きになったし、また行きたい(来たい)とインドにいる時から思っていたくらいである。
もしかしたら好奇心のベクトルがまた違う方向を指しているのかもしれないし、振り返っている暇があったら旅を続けろということなのかもしれない。

それとは別に、今日本に二ヶ月振りに帰って来たわけだけれど、久しぶりという感覚が全くない。
どういうことかと言うと、"昨日も一昨日もここにいた"というような感覚なのである。
これは初めての経験だ。
自分の感覚や行動に違和感が全くない。
僕は今の日本の日常生活にすんなり入り込むことが出来た。
確かに気温差の面では少しビックリしたけれど、だからと言って僕の感覚がインドか日本のどちらかに偏っているというものではないのである。
旅に出て帰って来た時の違和感や、旅先と現実との対比癖などの経験者は、多分僕以外にも沢山いるはずである。
しかし今の僕は、自分自身の感覚に何の違和感もなく、そして自分自身のどこにも偏ってはいない気がしている。

あ、今書いていて気が付いた。
別に写真やブログや日記で過去を振り返らなくたっていいのだ。
過去を振り返るのに記憶を遡る必要はないのだ。
だって過去の経験やその記憶が今の僕なのだから。
今の僕を見れば過去のことなんてすぐに分かるはずなのである。
自分に素直に正直にそして全力で生きていれば、過去など振り返る必要などないのである。
今いる場所が僕の居場所であり、今までもこれからも僕は僕なのだから。

先日ロックな大先輩からある言葉を頂いた。
「旅は時間ではない 旅は距離ではない」
本当にその通りだと思う。
旅に"こうでなきゃならない"というものはないのである。
100人いたら100通りの旅のスタイルがあるのである。
実際、PABLOでの二年間、僕は一つの場所で旅をしていると自分にも周りにも言ってきた。
そういった意味ではもしかしたら"旅とは人生"なのかもしれない。
だから僕の旅はまだまだ終わらない。
まだまだずっと続くのである。

旅を続けるために呼吸を続けるんだ。
旅を続けるために心と身体で踊り続けるんだ。
羊男も言っていたじゃないか。
「オドルンダヨ、オンガクノツヅクカギリ」
でも羊男の言うように上手く踊る必要なんてない。
足が止まったって全然平気さ。
周りと比べる必要なんて全くないんだ。
自分のリズムで、自分のペースで。
他人に迷惑をかけなければ、どんな踊りだっていいんだ。
好きなように、やりたいように、踊ればいい。
好きなところで、やりたいところで、踊ればいい。
もし音楽が止まってしまっても踊り続けるんだ。
決して止まることのない魂のリズムを聞くんだ。
少し疲れたら眠ってしまったって構わない。
身体が止まっても心はいつだって動いているんだ。
その為には呼吸を止めてはいけない。
呼吸で心と身体を繋げていくんだ。
とにかく呼吸を続けよう。
とにかく心と身体で踊り続けよう。

全てを自分でイメージしてクリエイトするんだ。
目指すものと根差すものの間で自由になるんだ。
そうすれば、地に足を付けて空を飛ぶことだって出来るかもしれない。

とにかく旅を続けよう。
ワクワクとドキドキを沢山抱えて次のステージに行くんだ。
自分のオリジナルなスタイルで。
自分のオリジナルなスマイルで。
自分のオリジナルなハッピーのために。


常に新しい価値観と変わらぬ想いを
洗練された想像力と創造力を
オルタナティブとはこういうことさ


さて、僕もあなたも、これからどこで何をしようか。





最後まで読んでいただき、ありがとうございました😊

Everything's gonna be alright ♪


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