雑記(六七)

 作家の佐藤泰志は、一九四九年生まれ。一九九〇年に四十一歳でみずから命を絶った。代表作は「海炭市叙景」、「そこのみにて光輝く」など。

 昨年十月、月曜社から『光る道 佐藤泰志拾遺』が出た。全体は二部構成になっていて、「Ⅰ 小説」と「Ⅱ エッセイ 迷いは禁物」からなる。巻末の「初出および収録」には、「迷いは禁物」について、「『日刊アルバイトニュース』の「News Plaza」に一九八四年五月二三日から一九八五年七月二日まで五六回連載。唯一の連載エッセイである。本書収録にあたり、コピー原稿に記された修正指示によって初出と異動した箇所がある」とある。

 同書には「1 アメリカン」から「56 再び、「迷いは禁物」」まで五十六回分が収録されている。目次を眺めていると、「4 美少年対策」、「11 飛ぶなミホサンスカイ」、「13 机上航海」、「23 逆説睡眠」、「26 清潔恐怖症」、「26 全部、思想」、「53 ローマは一日にしてなる」などが目に留まる。それぞれの内容に興味を感じるというだけでなく、ひとつひとつの言葉に、寺山修司の語彙らしさを感じるのである。

 初めに載っている「アメリカン」の冒頭には、「今日から日本テレビで、「ミッキーマウスとドナルドダック」という新番組がはじまった」とある。そして、「僕はとても愉しみにしていて、夕食後、子供たちと一緒に観た。やっぱりよかった。僕はすっかり満足してしまった」とある。それから、「オバQやドラえもんの作者の藤子不二雄氏」も「手塚治虫氏」も、ディズニー作品を多く見てきたと書いていた、という。

 藤子・F・不二雄は一九三三年生まれ、藤子不二雄Aは一九三四年生まれ、手塚治虫は一九二八年生まれだから、佐藤とは二十年近い年齢差がある。三人の漫画家は敗戦時に十代だったのに対して、佐藤は敗戦後の生まれである。世代は異なると言っていい。

 それでも、ディズニー作品へのあこがれは共有している、ということなのだろうか、佐藤は「僕ぐらいの年齢の人ならすぐピンとくると思うが、昭和三十年頃には、ディズニーの短篇マンガは、普通の大人向け映画の合間に、二本とか三本、ふろくで上映したものだ」として、「僕もオヤジにねだってずいぶん映画に連れて行ってもらったが、合間にやるディズニーマンガが愉しみで、じつはこれが本命だった」と書いている。

 面白いのはその直後、佐藤なりのアメリカ観を披歴している箇所だ。「アメリカとは何かときかれたら、チューインガムとチョコレートと答える人もいるかもしれないが、僕ははっきりドナルドダックとミッキーマウスと答えることができる。それは今でも何かしら誇りのようなものに似ていて、こんな時代に子供だった、と胸を張っていえる性質のもののようだ」。さらにその後の部分で、「たまに批評家が、僕の小説をアメリカ小説の影響だ、などといったりするのを聞くと、そうじゃないんだ、じつはディズニーの短篇マンガさ、読んだ本から受ける影響なんかそれほど大切なものではない、といいたくなる」とも書いている。

 寺山修司が、たとえばその詩「アメリカ」(『寺山修司著作集1』クインテッセンス出版株式会社)で苦悶したような、アメリカという国家に対する愛憎半ばする感情は、もはやここには見られない。佐藤は、「日本の若者、水で割ったらアメリカン。別に皮肉やマゾ的な気持ちで書いたわけではない。それでいいと思っているからだ」ともいう。これが書かれたのは八十年代も半ば。三島が死んでから十余年。時代の明るさを感じずにはいられない。


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