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雑記(五〇)

 作家の古井由吉は、一九七一年一月に芥川賞を受賞した。そのころから古井は、初対面の人に会うことが増え、作品から想像される作家の容貌と、実際の本人のそれとの違いを、指摘されるようになったという(「駆出しの喘ぎ」『半自叙伝』)。

「もっと細面で、色が白くて神経質なタイプかと思ったら、という。あとは礼儀上口に出さぬのを本人がなり代って言えば、骨太の筋太の、闘牛型ではなくて牛型の、顔は腮が張って口は大きく、まず土手カボチャの部類、それも北から西の風の強そうな土手に属する、と。それは読めばわかりそうなものじゃないか、と私はそのつど思った。腕力があって不器用なのが彫るので、押しこんだ刀がまっすぐ抜けないので、ああいうふうに捩じくれるのではないか、物を書いていると腹がへるほうなんだ、と」。

「刀がまっすぐ抜けない」の「刀」は、その前に「彫る」とあるから、彫刻刀のことであろう。だが「刀」と書かれれば、日本刀を連想せざるをえない。ここから文章は、すこしずつ物騒になる。段落は変えず、次のように続く。「ある席である男が、ちょうどポロシャツなどを着る季節だったが、私の肩から腕のあたりをしげしげと眺めて言うことには、あんた、喧嘩したらけっこう強そうだね。冗談じゃない、私はまず人並みの体格で、細くはないが太くもない。喧嘩をすれば人並みに、弱いだろう。ところがあれらの作品の一見した細さからすると、本人と知り合って間もない人の目には、どうも許しがたい太さと映るものらしい」。

 筆致の自在さにそそられる。「人並みの体格で」、「喧嘩をすれば人並みに、弱いだろう」と、読点を有効に用いながら、読者の予期を微妙に裏切ってゆく展開が楽しい。以下、これに続く、この文章の最後の段落。
「しかしそのうちにまたおいおいと、先輩作家たちを見まわして、体格の貧しい小説家というものもないものだ、とわかってきた。一見華奢虚弱のようでも、よく見れば皆、大は大なり小は小なり、ゴリラみたいな体格をしている。ほら、ゴリラはあんがい陰気な顔をしているではないか、とあるとき同窓会の席で話したら、筆を握る大小のゴリラの像がよほど頓狂だったのか、旧友たちはげらげら笑い出した」。

 最後は笑い話になっているが、「ある男」が「私の肩から腕のあたりをしげしげと眺め」た、という話がやはり気になる。前後に「刀」、「ポロシャツ」、「ゴリラ」という言葉も出てくる。これらの言葉から想起される作家と言えば、まず、三島由紀夫しかありえないのではないか。

 東大全共闘と集会で対話した三島は、事前にポスターで「近代ゴリラ」と揶揄され、黒いポロシャツを着ていた。短編小説「剣」を書いたのは一九六三年。三島の「肩から腕のあたり」の筋肉は、映画『人斬り』で薩摩の田中新兵衛に扮したときの切腹の場面で、カラーで観られる。一九六九年の公開作だ。古井に声をかけたのは、三島だったのではないか。

 この「駆出しの喘ぎ」という文章は、最後まで、三島の影を曳いている。それは偶然だろうか。それとも、古井の周到な計算の結果だろうか。私は、まさか偶然ではなく、すくなくとも、古井の自覚しないところであっても、三島のことが、筆を執る手にまとわっていたのではないか、と思う。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。