『羊の木』の友情と断崖

隣人の経歴や出自を知らず、ときにはその顔さえまともに見たことがない、というのは現代の都市に暮らす者にとってはめずらしいことでもないだろう。向こう三軒両隣、の人間がこれまで何をしてきた人物なのか、知らずに安穏と暮らせている、というのは明らかに罠のような事態ではあるまいか。親しく関係をとりむすんだ者が、実は凶悪な殺人犯だったのかもしれないという恐怖と緊張感を濃密に描き出したのが『怒り』(16)だったとすれば、ここに六名の殺人犯がいる、新たな事件の犯人は誰か、という形式で観客に迫るのがこの『羊の木』である。一個の共同体の内部に構図をとった犯罪劇、という点ではたとえば『八つ墓村』(77)や『犬神家の一族』(76、06)も想起されるが、その内部にも断絶があり、模糊たる不安が揺曳するという点にきわめて現代的な味があるように思った。

過疎の傾向にある地方の港町、魚深(うおぶか)なる市に、受刑者の更生プログラムの一環として六名の殺人犯が送り込まれる。身柄の引き取り手がいなければ保釈が成立しない制度のために大量の受刑者を施設に抱え、そのぶんのコスト負担をしなければならない国と、人口減少や過疎に悩む地方自治体の利害が一致した結果として、自治体がその身柄の引き取り手として手をあげることができるようになった、という設定である。この極秘プロジェクトをすすめるため、魚深市の職員・月末(錦戸亮)は元受刑者たちの住居と雇用を斡旋し、生活の補助をしなければならないことになる。国にも地方自治体にも財政的な余裕のない昨今にあって、感覚的にはあながち荒唐無稽とも思われない条件である。また国と地方の双方に利のある計画に見えるものの、犯罪者の世話を国が地方に押しつけている、という動きであることも否定しえない。中央の論理に地方が翻弄され、犠牲になり、忘れられてゆく、という非対称的関係の悲劇は、原発の問題、沖縄の基地負担の問題とも決して無縁ではない。

刑期中に理容師の資格を取得した福元(水澤紳吾)は雨森(中村有志)の理髪店に就職し、顔に傷を持つ老練なやくざ風の大野(田中泯)は、内藤(安藤玉恵)のクリーニング店で働きはじめる。栗本(市川実日子)は薄暗いアパートに住みながら浜辺の清掃事業に参加し、宮腰(松田龍平)は運送のトラックを運転し、太田(優香)は介護施設で利用者の食事の世話などをしている。

映画は、月末がプログラムの対象となった六名を駅や空港に出迎え、市の名前が印字された小さなバンの助手席に元受刑者たちを乗せて市を案内し、食事をさせるところから始まる。住民の人柄と魚のおいしさを、全く同じ文言で律義に伝える月末の朴訥で誠実な人柄を印象づけ、観客たちはその視点に全幅の信頼を置いた地点から、この悲喜劇をながめることになる。六名のうち明らかに反省の色が薄く、月末に対してすら高圧的に振舞うのが杉山(北村一輝)である。屈強な肉体と力強い顔貌にたじろぎながら、毅然として使い走りを拒絶してみせる月末の表情がいい。そもそも錦戸亮の奥深い目元が、困った表情にはよく合うのだろう。

最初の見せ場は、土地に古くから伝わる「のろろ」と呼ばれる神を祭る夜の場面だ。六名の元受刑者たちはそれぞれ、自身と同様の立場の者が同じ市内に五名もいるということは知らず、またこの者たちを受け容れた職場などの人間たちもその出自を知らないことになっているのだが、受刑者たちが相互の存在を認知し、よからぬ企てを持たないように監視するのもこの月末の仕事だった。しかし祭の出足を気にした同僚が、自分でも極秘プロジェクトの内容をかぎつけていながら、六名を祭のテントに呼び出してしまうのである。

酒に酔って暴れる福元を大野が押さえようとしてはねのけられ、宮腰が表情も変えずに福元の背中を蹴りとばして格闘技の要領で後ろから締め上げる。栗本はそっと席を外し、それ以上の大事には至らないのだが、一触即発の緊張感はつよく余韻をのこす。その後、白い衣服に身を包んだ男たちは、仮面を被って「のろろ」なる神の役を演じる者とともに夜の町を練り歩くのだが、住民たちはその行列を見てはいけないしきたりになっている。人々は家に籠もって窓やカーテンを閉ざし、沿道の警備担当者たちも目を伏せている。このとき行列で横ならびになってしまうのが宮腰と杉山で、杉山は執拗に宮腰に話しかける。すでに酒席で福元に手をかけた宮腰と、月末に対してすら高圧的な杉山、しかもともに殺人犯である二人が、住民が誰も見ていない夜道で言葉を交わす。あくまでも静かに、ひそやかにせり上げられる緊張感は身震いを誘う。

月末は地元の仲間、須藤(松尾諭)と石田(木村文乃)の三名でバンドを組み、退勤後にあつまっては演奏の練習をしている。ドラムの須藤はすでに家庭を持っているが、かつて恋仲だった石田と月末の間柄は微妙で、堅調に拍子をとる松尾とベースの月末にかぶせて、悲鳴のようなギターをかき鳴らす石田は雄々しくも哀切に見える。彼女は東京で就職したのちに最近帰郷したことになっているのだが、その詳しい経緯は明かされない。この三名の演奏の様子を見つけた宮腰がギターを購入し、仲間にしてほしいと求めるあたりから、いよいよ月末の表情が曇りをましてゆく。やがて宮腰がギターの技術を石田に習ううち二人は親密になり交際を開始し、宮腰の来歴を明かすか否か、月末は迷うはめになる。各自の既知のことと未知のこととが入り乱れるこの機微も見事だ。

結局、宮腰は執拗に悪事を持ちかけようとする杉山を車ではねて殺害しまうし、その前にはかつて自身が殺してしまった被害者の遺族に詰め寄られ、その老人も殺してしまう。宮腰の過去を知った石田は車内で彼に襲われるが危うく難を逃れ、そのことを伝えに月末のもとへ向かう。まだそのことを知らない月末の家を訪れた宮腰は、月末を海の方へ連れ出し、一緒に死のうと提案する。月末はまだ宮腰の新たな凶行を知らず、この男の更生と純情、絶望の深みを信じはじめてしまっている。月末の真情と石田の不安が交差的に高潮する一夜の切なさが、手に汗を握らせる。

宮腰に手を曳かれてともに海に飛び込む月末は、海岸の巨大な神像の頭部が落下しその直撃を受けた宮腰の運命とは裏腹に、一命をとりとめる。気になるのは、この宮腰という異常性を抱える人間の末路に救いのないことである。宮腰の手で死に至らしめられた杉山を例外として、四名の殺人者たちは次第に平穏な日常へと溶け込んでゆく。それはあたかも、殺人の行為へとこの者たちを駆り立てた内面的な動機や衝動は、実は一過性のものでしかない、ということを示すかのようだ。この者たちの本質は平和な日常生活と親和するものであって、決して特別なものではない、という結論はたしかに希望を感じさせる。しかし、この救済の裏面に、どこまでも救われぬ宮腰の存在を、不気味に残して映画は終わってしまうのである。

『怒り』(16)の森山未來、『ヒメアノ〜ル』(16)の森田剛、あるいは『その夜の侍』(12)の山田孝之は、最終的に善悪の判断を周囲と共有できない存在として、それでいて害をもたらす、言わば災異のような存在として劇中の役割を終えてしまう。常軌を逸した行動に出てしまった者の内面に寄り添い、その行動へ至るまでの思考や葛藤にすこしでも共感可能な点を見出だしてゆこうとするのが、立場を超えた相互理解を実現させる、という芸術や文学のひとつの重大な役割だった時期も、たしかにあったと思う。しかし時代は、超えがたい他者との壁を、避ける方向を選んでいるように見える。それは絶えず発言をもとめられ、絶えず受信を求められる現今の状況による疲弊のせいとも言えるのではないか。

俳優陣の演技と顔貌は、そのすべてが目を離せぬ魅力に満ちていた。松田龍平の底知れぬ雰囲気には磨きがかかる。『青い春』(02)ではいっこうにギターに興味を示さない中学生だった松田が、失くした青春を取り戻すようにして錦戸、木村とともにギターを練習する姿には、やはり涙ぐましいところがあった。もっともこれは、余計なことではある。

2018年、吉田大八監督。

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