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あの頃23

夏合宿が始まった。
宿について、すぐに作品を読み始める。合評会は二日目と三日目の午前中。初日の夜は、発表されたばかりの芥川賞受賞作の読書会。
今期の受賞者は、吉行理恵「小さな貴婦人」猫の話である。私は面白かった。が、私を除く全員が否定に回った。あまつさえ、毎度毎度、こんな小説読むために「文藝春秋」を買うのは金の無駄だとなり、次回合宿からは芥川賞の読書会はなくなる結論となった。まあ、それは別にどうでもいいのだが、このあたりでようやく私はあることに気づきはじめる。
小説に求めるものが違いすぎる。
そう、目指す小説像が部員で違いすぎるのだ。

もう一度、好きな作家を並べてみる。

村上龍。筒井康隆。寺山修司。マラルメ。吉本隆明。大江健三郎。夢野久作。新井素子。山本周五郎。太宰治。そして現代詩。

違いすぎる。

純文学。エンターテイメント。実験小説。探偵小説。SF。大衆小説。オタク。私小説。現代詩。

全く違うジャンルの寄せ集めではないか。これで正当な評価を得るのは至難の業である。よほど圧倒的な読後感を残さないと評価は得られない。

と、後で思えばそうなのだが、当時は、そこまではっきりとは認識できてなかった。だから、私もみんなも自分の定規で、感想を言うしかなかった。

最初の犠牲者はE女史だった。百枚近い長編。樋口一葉と半井桃水の恋愛もの。そこに馬場胡蝶とかが絡んでくる。圧倒的な文学的知識、しかも資料の精読ができていないと書けない。
E女史の敬愛する作家は山本周五郎。山本が、小説には面白い小説とつまらない小説しかない、と言ったのは有名な話だが、どう考えても、山本周五郎は純文学ではない。大衆小説の人だ。それを目指して書かれたものを、例えば純文学の物差しで断罪する。起承転結の構成を予定調和と攻撃する。お門違いはこちらのほうである。これからE女史は書く度、作風をなんとか変えようとし、苦しみ、それでも書いた。そしてたぶん自分の才能に疑問を持ってしまった。罪なことである。卒業と同時にE女史は小説を書かなくなった。やがて違う分野で自分を生かす道を見つけ、彼女は大成した。私はそれを心から喜ぶ。

以下、1年の合評会の様子を私の感想を交えて書く。

Hの小説は相変わらずぱっとしない。だが、合評の時は、面白い視点で、いろいろ問題提起してくれる。鋭い意見も言う。やはり弁は立つ。

Wの小説は、これはもう面白がるもののチョイスがあまりにも私とかけ離れていた。ジュブナイル的なテーマなら、それに見合う文体が必要だと思った。「時をかける少女」
を石川達三が書いたみたいに見えた。

私のものは、評価してくれた人もいた。幻想を書くことと幻想に逃げることを、私同様取り違えたのかもしれない。ただSさんは、ガンとして認めなかった。4年のM Oさんも、なんか変な方向に行ってるかも、と言葉を濁す。

今回の問題作は、あに図らんや、 KOの小説だった。

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