見出し画像

奥泉光「清心館小伝」

奥泉光は企の人である。著書から見てもわかる。"石の来歴"から始まって、"「吾輩は猫である」殺人事件"、"グラント・ミステリー"、"ノヴァリースの引用"、"神器-軍艦「橿原」殺人事件"などなど、話題作問題作にことかかない。芥川賞をはじめ各種文芸誌の新人賞の審査員に軒並み名を連ね、R-18新人賞の審査までしそうな勢いである。これだけ審査員を行うのは、推察するに、新しい才能にいち早く触れ発見したいという文学的好奇心がことさら強いのだろう。近畿大学で後藤明生が作った文芸学部かなんかの教授もしている。まあ、なんと言うか、小説の可能性を探る、最前線の人である。

だから当然、本作も一筋縄ではいかない。江戸の三代道場の話から、「清心館」に移ると、きたぞきたぞ、と思う。記録が「新続近世畸人伝」に載ってると書かれたところで、あるんかそんな本、なんでも「新」つけりゃええと思うなよ、と心でぶつぶつ言いながら、ニヤニヤする。で、この道場の宗とする剣術の技が、曰く「卑怯」。敵は寄ってたかってやっつけろ。強いと思ったら土下座して隙を狙え。落とし穴も有効である、ときてゲラゲラ笑いながら読み進める。時折引かれる偽書からの引用がまた秀逸である。学がないと、こんな技はできない。結局、「清心館」は幕末の動乱に巻き込まれて、歴史の渦に消えていき、その発明の戦足袋だけが残るのであるが、これが「いだてん」金栗四三が履いた足袋シューズに繋がるのかと思ったが、そこはやりすぎと思ったのか、言及はない。
と、まあ、「武士道」の真逆をいく剣術流派、自然天真流清心館道場の盛衰記が本編であるのだが、ゲラゲラ笑って読んで済ませていいのか問題もある。

奥泉は何故にかような小説を書いたのか。清水義範のようにパスティーシュで読者を楽しませるためか。それもあるだろう。とかく精神性に傾きがちな、「武士道」とか「葉隠」などをやたら持ち出しありがたがるエセ文化人への当てつけか。それもあるだろう。合理性、功利主義でいけば、剣術とてこうなるものだという、現代の風潮への批判なのか。それも、それもあるだろう。まあ、この偽史からご自由にお考えなさい、というところなのだろうか。ワシにもわからん。

読んだら、各自でお考えください。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?