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今宵はブルームーン(前編)

「大事な話がある」と言われて、夜景の見えるレストランへ呼び出された。
胸を高鳴らせ、5年間付き合っている彼氏からのプロポーズをひたすら待った。
しかし、彼の口から出てきた言葉は「実は俺、結婚してるんだよね」だった。

【本日のお客様 河本香澄様 29歳 商社一般職勤務】

しばらく沈黙した後、わたくし、河本香澄は恐る恐る口火を切った。
香澄「えーと…二股してたってことだよね?」
私の20代を奪った男、土屋ヨシキ(29)はこう答えた。
土屋「二股…うーん、時々三股かなあ」
なんかもう、頭がクラクラしてきた。
香澄「…いつから結婚してたの?」
土屋「6年前」
香澄「私と付き合った時点で既婚者だったのか…」
度肝を抜かれすぎてリアクションするのにも疲れてきた。
土屋「まあでも俺はいつでも恋に本気だよ」
香澄「いやちょ…あのさあ、普通言わない?俺結婚してるくらいは初めに言うよね?」
土屋「何何?俺が悪いみたいな言い方さあ〜」
香澄「いや、なんで開き直ってんの」
土屋「でもこうやって今伝えたわけじゃん?だから、まあこれからもよろしく」
土屋は「カンパイ」と言うとワイングラスを持ち私のグラスに雑に打ちつけた。
明らかにおかしい状況だが、この土屋ワールドに飲み込まれると何が正しくて何が正しくないのか分からなくなる。

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私はフラフラと立ち上がるとそのまま店を後にした。
土屋が慌てて追いかけて、私の好きな熊のぬいぐるみを渡してきた。これさえ渡せば機嫌を直すとでも思っていたのだろうか。私はクマじゃなくて指輪を期待していたのに…。

しかも明日も仕事で土屋と顔を合わせなくてはならない。彼は我が社の営業なのだ。明日からどんな顔をして会社にいけばいいのだろう。
その時、土屋の言葉の刃が私にトドメを刺した。
土屋「俺、イスラーム入れば良かったわ」
香澄「は?」
土屋「そしたら重婚できるしさ。香澄を第二夫人にできるじゃん。まあ一番は奥さんなんだけど」
何か、お腹の奥底にあったものがプツンと切れて放たれた感覚がした。
香澄「……もう見たくない」
土屋「へ?」
香澄「私の前に二度と現れないで」
震える足を必死に動かし、早歩きで近くにいたタクシーに乗り込んだ。
しかし後ろから土屋の明るい声が追いかけてくる。
土屋「明日も現れるからな〜!じゃ会社でな!」
サイコパスかあいつは。なぜ罪悪感とか反省の色とかが全くないんだ…。
彼の心が理解できない。一体どういう気持ちで5年間私と一緒にいたのだろう。本当に理解ができない。そして気づかなかった私も愚かであった。

私はしばらく頭が回らなくて、なんだか呼吸もし辛くなって、タクシーの窓を開けてひたすら深呼吸を繰り返した。


落ち着いてきたら、すぐに連絡したのは仲良しの飲み友、西園寺優子(28)だった。
「今どこにいるの?」とラインがきたと思ったら、すぐに駆けつけてくれた。
優子の顔を見たらなんだかホッとして、私は照れ混じりに頭をかいた。

それからお馴染みのオイスターバーに行って飲み直しをした。
不思議と全く悲しい気持ちにはならなくて、むしろさっきまでの衝撃的な話はお酒の美味しい肴になった。
多分こういうのってショックが数日後にくるのだと思う。深い傷ほど頭が理解するのに時間がかかるのだ。今はきっとドーパミンが頭で空元気をぐるぐると振り回し、その発電ですごくハイテンションになっている。
優子はそんな私を見守るかのように笑いながら話を聞いてくれた。

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優子は外資系コンサルで働く、いわばエリートだ。
頭がよくて、美人で、仕事ができて、なんでも揃っているのに浮いた話は1つも聞いたことがない。
高嶺の花だからだろう。優子は恋人にしたい人を選びたい放題だが、私みたいな経理しかできないザ凡人には選ぶ権利などないのだ。

だから内心結婚に焦っていた。私には夢もなければ取り柄もない。今のうちに誰かに拾ってもらわないと「結婚」「出産」「子育て」の3大イベントを味わえないまま、定年するまで領収書を数えるだけの退屈で生産性のない人生を送ることになる。

何よりも後輩が結婚して退職していったり、SNSで同級生が赤ちゃんの写真をアップしているのを見たり、会社で遠回しに男性社員たちから「残り物扱い」されるのが辛かった。この日本社会の固定観念、というより周りの環境が敷いた大道のレールに乗らなければ、私のような「何もない人間」は惨めだと思われるのではないか。そういう強迫観念が心の奥に根付いていたのだった。だから私は彼に期待した。この現状から唯一打開してくれる希望だとすがってしまっていたのだ。

優子「人の生き方に、良い悪いなんてないのにね。人にすがるのも良し。自分でやりたいことをやるのもよし。誰かのために自分の時間を犠牲にする生き方もまた1つ。全部が正解だし、全部が尊いと私は思う」


優子はそう言うと、大好きなテキーラを飲み干し、いつの間にかもう一杯頼んでいた。
博学で、物事を斜めから見ることができる優子は、井の中で生きようとする私にいつも大海を見せてくれる。

優子「ただ、周りが敷いたレールなんて知るかよ。自分が掴みたい道を選んでいけばいい」

優子の言葉に何度救われたことか。                     ハイになっていた脳細胞が、少しずつ本来の姿を取り戻していく感覚がした。
香澄「そうだね。でも私が掴みたい道は、普通に家庭を持つことなんだ。私が生きてる意味ってもうそれだけだから」

少し酔ったのかとろんとした目で優子は私を見た。
優子「なんで香澄は自己肯定感が低いのかなあ」
香澄「え?」
優子「香澄にとって土屋といて居心地がよかったのは、そのせいだと思うんだけど」
香澄「…ち、違うよ」
優子「じゃあなんで付き合ってたの?」

香澄「…それは……」

優子はしばらく黙った後、真剣な目をして思いもよらぬ言葉を放った。
優子「あのさ、私ずっと香澄のこと好きだったんだよね」
香澄「…え?」
優子「付き合ってくれませんか?私女だけど」
香澄「ええ?」
優子「大丈夫。色々私が教えるし。土屋よりいいと思う」
香澄「えええ!?」

1日に大きな衝撃が2回もきて、もう何が何だか分からなくなってしまった。
脳がドーパミンばかりを醸造し、白い煙が立ち込める。
そして頭の判断センサーがバグを起こし、間違えて赤いレバーを引いてしまった。そしてそのシナプスは私の顔の筋肉へ伝わり、口を動かす。
香澄「え…あ、うん」

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*次回は来週月曜夜更新です!香澄と優子の交際がスタートするものの、土屋の本音と優子の気持ちが最悪のシナリオへ向かっていき…。


遅くなりましたがあけましておめでとうございました!また来週も飲みませう^^


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