141.リアル・アノニマスデザインから考える

2022.10/3.22:38
こんにちは。まきです。
よく非常識だと言われることがある。常識はなかなか難しいものである。今日の体育の授業後も、非常識な友達と一緒に「常識って難しいよね」と常識的な会話をした。

さて、つい最近「リアル・アノニマスデザイン(岡田栄造/山崎泰寛/藤村龍至=編著)」を読んだ。数多くの刺激的なデザイン関係者、建築関係者、メディア関係者が「アノニマスデザイン」をテーマに綴った原稿が収められた本だ。少しマニアックだけど、建築もデザインもよくわかっていない高校生が読んでもそれなりに楽しめる一冊だった気がする。というわけで、せっかく読み終えたので、読書感想文程度に考えたことを整理してみようと思う。


アノニマスデザインとは?
アノニマスは「作者不明の」「匿名の」という意味。 ここでは、デザイナーが特定できない、あるいは個人名を伏せられた状態で世に送り出されたデザインのことを指す。 インダストリアル・デザイナーの柳宗理が「アノニマウス・デザイン」として紹介したことにより広まった。

現代美術用語辞典ver.2.0

アノニマスデザインというワードは、もしかしたら聞き馴染みのないワードかもしれない。もちろん僕も「リアル・アノニマスデザイン」を読むまで見たことも聞いたこともなかった。アノニマスデザインってなんだろう?という疑問から出発すると、読み進めるにつれてなんとなく正体が分かってくる。例えば服についているようなボタンは、すごくアノニマスデザイン的だ。みんなが必ず使ったことがあるし身につけたことはあっても、それを生み出した作家の名前は誰も気にもとめない。あまりにも当たり前に存在するデザインは、作家性から切り離された別次元で、第二の自然として我々の日常に潜んでいる。
柳宗理的文脈が意味する「アノニマスデザイン」は、一人の作家がユーザーの意識から雲隠れするほど、用に忠実でかつ美しいデザインに生じるアノニマス性を意味しているらしい。
そのようにしてなんとなく概要を掴みながら読み進めると、一つの文章の前で立ち止まる。松川昌平の「ポリオニマス・デザインー匿名性と顕名性の間としての多名性」である。ポリオニマスとは、匿名性を表すアノニマスに対して、オニマス(名前)がポリ(スチレンモノマーを重合して作るポリスチレンの”ポリ”だ!)を伴った、「多名性」を表す言葉らしい。そこではあくまで建築的な文脈で話が進められていたが、少し希釈して扱いやすくすると、つまりは複数のプレイヤーが試行を繰り返しながら形作っていくデザインを、ポリオニマスデザインと呼ぶのだ。
一人の作家がサインしないことのアノニマスに対して、複数の作家が同じ紙にサインすることのアノニマスは、とても現代的な対比に感じられる。

「常識(common sense)」というアノニマスデザイン

考えてみれば、「常識」というのは究極のアノニマスデザインだ。誰が作ったのか誰も知らない、だけどみんなが同じように抱えて日々を過ごしている。またもっと言えば、「常識」はアノニマスでありながら、ポリオ二マスでもある。アノニマスだったものが不特定大多数によって慎重に上書きされていく「常識」の在りようがそれを示している。例えば、昔は「男子厨房に入らず」が常識だった。現代社会でそんなことを口走れば、一気にノンモラル野郎に身を落とし、地を這いつくばって生きることを強いられてしまう。今ぱっと思いついた例ではあるが、まさにこれはアノニマスがデザインした常識が、ポリオ二マス的に上書きされてきたことを意味している。
昔懐かしい「半年ROMってろ」という言い回しは、またまた2chで使われていたものだ。『「この場の空気や状況、ある程度のルールがわかるようになるまでは発言せずに見ているだけにしろ」という意味で、 あくまでも「出来ないならここから出ていけ」ではなく、「ROMってろ(見ていろ)」ということ(用語集-numanより)』を意味する半年ROMってろは、インターネットで常識が醸成されていくプロセスの存在を物語っている。

我々は何をデザインしているのだろうか。我々がデザインしている(らしい)「常識」とはなんだろうか。
常識は、英語でcommon sense と訳される。つまり常識とは均されたsense(感覚)のことだ。我々は無自覚に、デザインされた感覚の中で生きながら感覚をデザインしているのだ。アノニマスな常識を、無自覚に、ポリオニマス的に上書きしている。

感覚をデザインする。常識をデザインする。


ー常識ができるのはどういうときだろう?それは(テクノロジーに限らず)新たなイノベーションが生まれるときだ。ー

「リアル・アノニマスデザイン」をここまで読むと、ここで一つの文章に思い当たる。水野大二郎の「問いとしてのデザインー柔軟な未来の設計」だ。これは氏が、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのデザインインタラクション科教授であるアンソニー・ダンのについて論じたものだ。「プラシーボプロジェクト」は、新たなテクノロジーが社会に生み落とされたときに人々が示す拒否反応としての曖昧な懸念(電子レンジは体に悪い的な)をテーマとして扱った”デザイン”を発表することで議論を誘発する試みであったらしい。氏は、テクノロジーや経済や倫理が複雑に絡み合う課題にユーモラスに焦点を当てるダンの「問いとしてのデザイン」の可能性を我々に投げかけていた。*ユーザーと社会、社会とテクノロジー&イノベーション、テクノロジー&イノベーションとユーザーの間をとりもち、オルタナティブな未来の社会の可能態の一つを提示するデザイン、もっと簡単に言えば「ファシリテーターとしてのデザイン」「インターフェースとしてのデザイン」のようなものの可能性を示唆していた。いわば、社会、ユーザー、テクノロジーを、新たにデザインした常識(感覚)で接着する、それがファシリテーターとしてのデザインだ。
常識はアノニマスデザインで、かつポリオニマスデザインだ。マス(ポリ)の体験を一挙に担いながら、科学的根拠と心理によるアプローチで、ポリオニマスな常識の発生を促す。ファシリテーターとしてのデザインは、ネットワーク時代のアノニマスデザイン、「常識」のデザインの一つの可能性なのかもしれない。


*ユーザーと社会、社会とテクノロジー&イノベーション、テクノロジー&イノベーションとユーザーの間をとりもち、オルタナティブな未来の社会の可能態の一つ(リアル・アノニマスデザイン 問いとしてのデザインー柔軟な未来の設計より抜粋)
参考:リアル・アノニマスデザイン 岡田栄造/山崎泰寛/藤村龍至=編著 
学芸出版社

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