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意識が埋没していく感覚

8月も、もう終盤だ。夏休み全体で言うとBパートくらいだろうか。場合によっては、もうエンディングが流れている人も居るかもしれない。既に大方のイベントラッシュは終了し、花火大会、夏祭りなどを済ませている時期だ。今年はどのイベントにも参加していないので、僕だけ完全に夏に取り残されている。タチの悪いことに、僕は滅茶苦茶な地黒なので、夏を謳歌しまくっていると勘違いだけされてしまう。平成最後の夏は不完全燃焼のまま終わりそうだ。

そんな僕は今、車の免許を取るため、約2週間の合宿に参加している。このエッセイも宿泊先のホテルで書いている。恥ずかしい話、2週間以上も実家から離れたことがなかったので、どれだけホームシックになるかと心配していた。だけれど、特段寂しくなることもなく、むしろ心身共に安定しているようだ。よく考えれば、毎日早寝早起きをしているし、三食キッチリ食べている。先日、友人とビデオ通話した時「少し太った?」とまで言われてしまった。

それでもやはり、寂しい感情も押し寄せてくる。地元にいるというだけで安心感が桁違いだ。いつでも好きな友人と遊べるというのは、相当僕の心の拠り所であったらしい。けれども、孤独感も嫌いでは無い。むしろ好きと言ってもいい。相反している様に感じるかもしれないが、実際二つの感情は同時に存在している。

というのも、孤独であればあるほど、自分が存在しているという意識がクッキリ鮮明になっていくからだ。

「多くの人間は、集団の中では人が変わる」というのは、結構な人が認識している事柄ではないだろうか。大学生の僕でさえ味わっていることだから、社会人なんて日常的なことであるかもしれない。僕が感じているのはまだまだ序の口なはずだ。そしてこれは他人だけでなく、もちろん自分にも当てはまる。集団の中にいる期間が長ければ長いほど、自分という意識を失っていく。これが理由で、大人数でいるのが苦手、というタイプも存在するはずだ(少なくとも、僕の周りには実際にそのような人物がいる)。

この免許合宿を通して、つまり久しぶりの孤独感を通して、埋没しつつある僕の意識に気づいてしまった。自分が特別だったとか、そういうことを言いたいのではなく、服を選ぶにしても、どこに遊びに行くのかにしても、そこには確かに僕の意志による決定があったはずだった。

だけれど今、その意思は存在しない。空気感というか、何かそんな曖昧な何かが僕を動かしているようにしか思えない。そもそも何故そんなファッションを選んでいるのか?その時計を付けているのは何故なのか?そのネックレスはなんなのか?僕は全く答えることができなかった。そしてそれは、心底気持ちが悪い。

でも時間がたつと、また集団の中にいる安心感が欲しくなる。まだそういうのを調整する、距離感の測り方を知らない。

今はとりあえず、何かに操られていない自分の意識を認識することができる、この孤独は安心する。

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