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あー恥ずかし

振り返れば黒歴史しかない。小学校では実況動画をあげ、中学では生配信、高校では漫画。一年前の自分を振り返っても「痛てぇ~」と思ってしまう。もはや、黒歴史製造機だ。歩いてきた足跡が全て黒歴史と化してしまう。

僕は、エッセイを書くことも大変恥ずかしい事だと思っているので、今でも書き始める度に「よ~~~~~し、恥ずかしいこと始めるぞ~~~~~」と気合を入れてやっている。

一番楽なのは、衝動で書くことだ。一心不乱に、貪るように書く。恥ずかしさなんて一ミリも無いし、書いていてとんでもなく気持ちが良い。このタイプの書き方は、マスターベーションと近しいものがあると思っている。できれば理性的に、なおかつ情熱的に書ければ良いのだけれど、これは滅茶苦茶難しいのだ。所謂「文章との距離感を上手くとる」ということなのだろうが、本当に苦手だ。

話がずれてしまった。とにかく僕は、過去のことも、現在進行形で行っていることも全て「痛い」ことだと思っている。

ただ同時に、痛いことは人間的なことだとも思っている。

音楽、文芸活動..etc.これらをするに当たって、総じて「痛い」でくくる人も少なくない。でもこれらは、至って健康な状態だ。「痛いこと」には、ボウボウと燃え盛る、情熱が詰っている。そして年齢を重ねるほど、「痛い」に見向きもしなくなる。これはむしろ、人間味を失っているのではないだろうか。

僕の友人に、小説家を目指していたやつがいた。「目指していた」というのは、現在はもう諦めているからだ。諦めたあと、彼から

「正直、俺のことめっちゃ痛いと思ってたやろ?ごめんな、妄言に付き合わせて」

みたいなことを言われた。
僕は胸が苦しくなるのを感じた。僕は彼を滅茶苦茶に尊敬していたし、夢を語っている彼もすごく魅力的だった。夢に向かって真剣な彼の姿勢に、勝手に励まされていた部分もある。だけれど、世間では(僕自身はそうは思っていないが)「バカなこと」や「痛いこと」と言われてしまう様なことを、真剣にやっていた姿を、例え、会話の些細な自虐ネタだったとしても、馬鹿にして欲しくは無かった。

おそらく僕は「痛いこと」に対する価値観を、唯一共有できている友人だと勝手に思っていたのだろう。そしてその価値観を、これまた勝手に「否定された・・・」と感じてしまったのだろう。

今改めてこの話を振り返ると、僕が勝手に期待して、裏切られたと思っている愚かな奴だ。でも、それぐらい「痛いこと」に対する価値観を僕は大切にしていた。そして今も、それは変わっていない。

年を経るにつれ、「痛いこと」から遠ざかってしまうのは目に見えている。だからこそ、できるだけ今はこの価値観を手放したくない。

「痛いこと」は、人間味に溢れていて、一番血の通っている物だと、僕は信じている。なので今日も、「痛い」がたくさん詰まったこのエッセイを、投稿することにする。


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