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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第115回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載115回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。

三菱グループと無関係の三菱鉛筆

 ファッション関連からいうと少し外れるかもしれないが、洒落者には必携の小道具、筆記用具の話を二、三しよう。どんなに日常のビジネスではスマートフォンやタブレットといった電子機器を活用していても、最後の正式な署名にはクラシックな万年筆、というのはなかなか粋ではないか。
我々が日常、なにげなく使う鉛筆の原型は英北部カンブリア(ウェールズ)で発見された石墨(グラファイト)が筆記に使われるようになった十七世紀に遡る。一七六一年、ドイツのカスパル・ファーバーが鉛筆製造を開始、一八五一年にロタール・フォン・ファーバー男爵が六角形の鉛筆を開発した。なにげないアイデアだが、机上で転がりにくい鉛筆というのは画期的な思い付きだった。一八九八年に男爵令嬢ロッテリー・フォン・ファーバーと、アレクザンダー・ツー・カステル・リューデンハウゼン伯爵が結婚し、両家を合わせてファーバー・カステル伯爵家が成立、同時に社名もファーバー・カステルとなった。このような経緯を見ても、鉛筆の世界では唯一無二の名門中の名門である。
日本の鉛筆では一八八七年に真崎仁六が東京・四谷で創業した真崎鉛筆製造所が老舗であろう。といってもピンとこない人が多いだろうが、一九〇三年に商標登録した三菱鉛筆のことである。あの三菱財閥が登録したのより十年以上も前のことで、だから今日に至るまで三菱鉛筆は三菱グループとは無関係である。また、鉛筆と切っても切れない消しゴムの原理は十八世紀の科学者ジョセフ・プリーストリーなどに発見されていたが、これが一般向け商品となったきっかけは、本書でもたびたび言及したチャールズ・グッドイヤーのゴム製造技術の普及である。

保険契約の失敗が万年筆を生んだ

一方、実用品としてはすっかりボールペンにお株を奪われたものの、近年になってお洒落の小道具と見なされ復権しつつある万年筆は、ずっと時代が下って登場した。羽ペンが金属ペンになったのが一七四八年、英国のヨハン・ジャンセンの考案と伝わり、万年筆の原理は一八〇九年、やはり英国のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュの発明という。彼が九月二十三日に特許を取ったので、この日が万年筆の日とされる。
その後の発展史の逸話でよく知られているのが、ルイス・エドソン・ウォーターマン(一八三七~一九〇一)の「屈辱の契約書」だ。一八八三年、ニューヨークの保険ブローカーだったウォーターマンは、当時最新式の万年筆を携えて、ある大口契約に臨んだ。発明から半世紀以上たち、それまでのつけペンに代わる新時代の筆記用具として普及し始めていた時期である。
ところが、いざ署名というときにインクが逆流して噴きこぼれ、契約書が台無しになってしまった。慌てたウォーターマンは事務所に戻って新しい契約書を作り直し、とんぼ返りしたのだが、そこは生き馬の目を抜くニューヨークのビジネスである、わずかの隙を狙って他の同業者がアタックをかけ、まんまと契約を横取りしてしまった後だった……。
この屈辱に憤ったウォーターマンが開発したのが、液体の毛管現象を利用してインク供給機構を改良した毛管式万年筆である。彼は八四年に特許を取りウォーターマン万年筆の創業者となった。塞翁が馬の典型のような話である。
同じ頃、米ジェーンズビルで電信学校の講師をしていたジョージ・サフォード・パーカー(一八六三~一九三七)は、教え子たちから筆記具の信頼性に対する不満の声を聞き、ペン芯の改良に取り組んでいた。確実な速記が求められる電信員にとって、筆記具の性能は死活問題だったのである。八八年に、未使用時のインクをタンクに戻す機構を開発、九二年にパーカー万年筆を設立した。
もう一社、万年筆の技術開発に忘れてならないのが英国のデ・ラ・ルー社である。一八八〇年代に切手のスタンプ製造で起業したトーマス・デ・ラ・ルー社は一九〇五年、発明家ジョージ・スイッツァーが開発したプランジャー吸入方式、つまりポンプやエンジンに使われる確実な液体供給法を使ってオノト万年筆を製造した。オノトは世界中どこでも発音しやすいことを狙った造語で、当初から世界戦略を意識したネーミングだった。はたしてオノト万年筆はヒットし、日本でも〇七年に丸善が取り扱いを開始。文豪・夏目漱石がオノトを愛用したのは有名で、彼の後期の代表作はすべて、オノトを用いてセピア色のインクで書かれた。丸善の顧問だった評論家・内田魯庵の薦めでオノトを使用したのだという。
ドイツの万年筆ブランドといえば、まずペリカンであろう。一八三二年にカール・ホーネマンがハノーバーで創業したが、このころは絵の具メーカーだった。その後はインクの製造者として名を高め、七八年にときの経営者ギュンター・ワグナーが自身の家の家紋に由来するペリカンの商標を登録。一九二九年に万年筆製造に参入した。
そしてもう一つの雄がモンブランである。クラウス・ヨハネス・フォス、アルフレート・ネヘマイアス、アウグスト・エベルシュタインが一九〇六年にハンブルク近郊で設立したジンプロ・フィラー・ペン会社が源流で、一三年に白い六角形の星のトレードマークを採用した。モンブラン山の万年雪にあやかるもので、社名も三四年にモンブラン・ジンプロ社に変更している。欧米では、ユダヤ系であったエベルシュタインがユダヤの象徴である六角形のダビデの星を万年筆につけ、それを独裁者ヒトラーに使用させることであてこすったのだ、という説があるそうだが、もちろんこの経緯で分かるとおり、一九一三年といえばヒトラーはまだウィーンで放浪生活をしており、その後も第一次大戦でドイツ軍の無名の兵卒だったに過ぎず、まったくの俗説である。モンブランは七七年にダンヒル傘下に、そして現在はリシュモン・グループに加わっており、万年筆のみならず腕時計や小物でも独自の上質な製品を送り出している。


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