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【つながる旅行記#29】in函館 立待岬と思いきや岡田健蔵の話になる回

雪に覆われた函館を歩く。
目的地、立待岬(たちまちみさき)へ向かって。

な、なんか閉まってるけど……?

でも鍵がかかってるわけではないな。
じゃあ入ってもOKか……?

周囲はお墓である。
今回目指す立待岬へは、何故かこんな道を通る必要があるのだ。

立待岬は函館山の南東にある崖。
偶然GoogleMapで見つけたので試しに行ってみることにした。
(正直ここに来るまでにちょっと道に迷っている)

キツネか?

函館山にはキツネが居る。
この足跡もキツネだろうか?

ただ、稚内と違って函館の街中ではまだキツネを見たことがない。
たまたま会わなかっただけなのか、函館のキツネは山の中で夜を過ごすのか……真相は不明だ。

振り返る
謎の消波ブロック?

ズームカメラで遊びつつ雪の積もった坂を延々登っていくと、
思いもよらないものが出現した。

石川啄木一族の墓

「石川啄木一族の墓」である。

石川啄木といえば生活が楽にならない歌を詠んだ人ということと、岩手の盛岡で学校に通っていた頃に報恩寺に訪れていたこと(#23参照)しか知らないが、まさかそのお墓が函館にあるとは思わなかった。

経緯を調べてみると以下のようなものがあった。

「死ぬ時は函館で死ぬ」。石川啄木は、義弟の宮崎郁雨へ宛てた手紙の一節にこう書き残しています。26歳だった1912(明治45)年に、東京で病死した啄木。彼を慕う郁雨と、市立函館図書館の初代館長・岡田健蔵は、函館を啄木の永眠の地にすることで悲願を叶えます。

啄木の死を受け、岡田健蔵は啄木の妻・節子の名代と称して上京。啄木、その長男・真一、母・カツの遺骨を、預けていた寺院から引き取ります。函館に戻った後、函館図書館に3人の仏を仮安置するうち、間もなく節子が死去。節子の四十九日にあたる日に、現在地よりやや下方の場所に木製の墓標を建て、4人分の遺骨を埋葬します。1926(大正15)年に現在地に墓碑が建て替えられて以降、1931(昭和6)年に啄木の長女・京子の夫・石川正雄によって、京子、次女の房江、啄木の父・一禎、そして1968(昭和43)には正雄の遺骨が追葬され、一族8人が眠る墓となっています。

ふむ……。

なんというか、違和感のある話ではある。
そもそもなぜ東京で亡くなった啄木の遺骨を、言い方はアレだが啄木ファンの男達が引き取り、函館まで持ってこれたのだろうか?

石川啄木のWikipediaを見てみる。

……なんというかこう、色々難があった人という印象に変わった。
26歳という短い人生の中で、盛岡に始まり北海道各地(函館、小樽、釧路、札幌)から東京まであれこれ渡り歩き、浪費癖と女癖の悪さなどはなかなか凄いものがある人物である。

そしてどうやら啄木が函館にいたのは、
明治40年(1907年)5月から9月までという短い期間らしい。

順当に考えれば岩手の実家に葬られて当然に思える啄木の骨。

「一族の墓」の建立に関わった岡田健蔵のWikipediaも見てみよう。

(※岡田健蔵の人生があまりにもすごかったので、ここから盛大に脱線します)


幼い頃に父を亡くし、弥生尋常高等小学校を中退後、見習い奉公に出されて商売の基礎を学んだ岡田健蔵
その後、海外の原料頼りの西洋式ろうそくを日本の材料のみで作ろうと会社を立ち上げるも、参考になる資料が一冊という驚愕の事態に遭遇。
(しかもその資料での製造も失敗)

これにより参考文献収集の重要性に気づき、図書館設立を決意。

もうこの時点で掴みが良すぎる。
不遇な幼少期からの挑戦と失敗。
そもそも1冊しか資料ないのによく会社作ったな……。

だがこの後も凄い。

色々な人の協力により、自分の店舗兼図書館というレベルの小さなものではあったが本を貸し出せる状況は作れた岡田。
月の利用者は30人に満たなかったが、次第に市民にも知られる存在になってきた。

しかし同時期に函館を大火災が襲う。

岡田の店舗は消失。もちろん蔵書も大半が失われた。
岡田は落胆するが、大火災に耐えうる図書館を作るという考えが生まれるきっかけとなった。

せっかく造った店&図書館を火災で失う岡田。
神が試練を与えすぎ
である。

このあと岡田は図書館の視察を委ねられて北海道を離れ、耐火構造の帝国図書館(国立国会図書館)など、東北や東京の図書館を視察して回る。その期間、実に一ヶ月。
その間、岡田の熱心さに感動した早稲田大学図書館の館員らが日本図書館協会に岡田を推薦し、岡田は道内会員1号となった。

帰郷後、岡田は速攻で図書館創立委員会を結成。
入会の問い合わせや本の寄贈などの連絡が押し寄せる。
消失した店舗の再建は済んでいた岡田だったが、図書館関連業務優先のため、妹に会社を譲って自分は図書館のために奔走する。

どんだけ図書館のために生きるんだこの人。

そして1909年、地元の有力者達の協力と岡田の頑張りもあり、
市立函館図書館函館公園内に開館。

えっ、函館公園に!?

函館公園

GoogleMapを見ると確かにあった。これか?

函館公園はちょっと坂を上った先にある公園で、
小さな遊園地や動物園、かなり古い博物館がある場所だ。
函館山に登るときについでによく寄っていた。
まさかこんな歴史的建造物を完全にスルーしていたとは……。


それはそれとして、この図書館、閲覧室を閉鎖するレベルで子どもたちが集まるほど大人気なのだが、全然儲からない。
運営には図書閲覧料と図書館の維持会員(月額で支えてくれる人)の納入金に頼っていたが、文化的なことに理解のある人というのは限られていたようだ。

図書館の経営者は函館毎日新聞の関係者や市内の有志で、岡田は図書館主事兼事務主管として実務に専念した。
しかし妹に家業を任せて、図書館経営に私財まで投じていたため、家業は1912年に廃業することになる。
図書館に尽くし過ぎである。

岡田の収入は図書館会員費からのわずか10円。米1升(1.5kg)が17銭とのことなので、現代換算で米1kg500円とすると月収4万5000円といったところか?
一人暮らしすら厳しそうだ。
その状況で7歳年下の嫁を貰い、その後6人の子どもを作っているんだから今の少子化にあえぐ日本のメンタリティとは明らかに違う。

1914年に第一次世界大戦が起き、物価上昇が起きたことによって生活は更に困難を極めた。
図書館の宿直室に夫妻で住み込み、その後は図書館の館員を雇う金もなくなったので、家族総出どころか親戚まで借り出して経営を行う。
この貧困と多忙の中で子ども3人が幼くして病死、母とも死別する。

こりゃ壮絶な人生だ……。


そんな中、岡田はまた帝国図書館を視察。
案内役の司書から、
これから図書館を作るなら耐火構造ですよ。蔵書を守る事が一番大事です」と強く助言される。
自分の経験からも岡田は「めっちゃわかる」と思ったことだろう。
岡田は現状に甘んじず、耐火構造の図書館建造を目指すことになる。

ある日、相馬哲平という人物と街中で遭遇。
相馬は耐火構造の図書館を目指す岡田の思いに感銘を受け、
その場で手持ちの1000円を渡す。

いやいや、ヤバすぎるよ相馬哲平!

1000円は今の価値だと500万くらい
それをポンと渡しちゃう男である。
どういう感覚だ。

しかも相馬はその後も「皇太子嘉仁(後の大正天皇)に拝謁した記念」ということで建築費用3000円の寄付を約束してくれたり、物価の高騰によって建築費用が当初の3倍に膨れ上がった際にも支援し続け、
最終的に9000円ほど寄付をする。

なんだこの神……。

これによって1916年、鉄筋コンクリート造の5階建ての書庫が完成する。
これは北海道最初の鉄筋コンクリート造の建造物で、北海道中の注目を集めた。
しかも設計は東京駅や日本銀行でおなじみの辰野金吾である。

1918年には、個人的に毎月80円(現在の35万くらい?)を図書館に寄付し、そのうち70円を岡田の収入に当てるという第二の神平出喜三郎が登場するが、これも岡田が自分の生活を削ってでも図書館を維持していたことに心打たれたからだろう。
平出喜三郎はその後相当な期間に渡って岡田を支え続ける。

岡田の人生を見ていると、世の中の為に投資できるお金持ち達が世界を変えていくんだなあと思えてくる。
こんな金持ちになりたいものだ。


その後、大正天皇の即位に伴い、
函館で公立図書館を作ろうという動きが起こる。
岡田のもとにも「蔵書を公立図書館に寄贈して欲しい」という申し出があったのだが、岡田はそれに対し「図書館が耐火構造ならいいよ」という条件を出した。

一度自分の店兼図書館が焼かれているせいなのもあるだろうが、
そもそも函館はめちゃくちゃ火事が起きている。
店を焼かれた大火以前にも、函館は焼失戸数が1000戸以上の大火が5回も起きているのだ。この条件は当然とも言える。

しかし函館市は木造の図書館を作ろうとしていることを岡田は知る。

「これを覆すには……議員になるしかない!!」

岡田は鉄筋図書館建造を公約に掲げ、市会議員に出馬
そして区民からの支持を受けて見事当選する。

図書館が関わったときの行動力がエグい。

しかし議員になったからといってそううまくはいかなかった。
なにしろ元々は木造で行こうとしていた人間の集まりである。
岡田がいくら説得しようと話は平行線のまま、10年が経過する。10年!!!

そして市会の圧力により、岡田の市立図書館の維持会員も200人から7人に激減する。市会怖すぎるだろ……。

この状況を見て、長年岡田を金銭面で支え続けてくれている神、平出喜三郎が仲介に入り、「鉄筋図書館にするよう説得するから、俺に任せてくれ」と岡田を説得。
岡田は今まで支えてくれた平出を信じ、図書館問題を託すことに。

平出は大正天皇の病状が思わしくなかったことを理由に、
「大正天皇の記念事業として始められた公立図書館設立は、天皇の存命中に着手するべき!」と主張。
膠着状態は終わり、ようやく計画は動き出す。
天皇パワーである。

そして、平出の尽力や地元の名主、小熊幸一郎の多額の寄付(5万円!?)もあり、1928年に函館市立函館図書館(後の函館市中央図書館)が完成した。
これも函館公園に作られたらしい。
(公園内に残っているのはこの時期に作られた物ということだろうか?)

岡田との約束を守り、平出は3階建ての鉄筋コンクリート構造の図書館にすることに見事成功した。
岡田もこれならOKということで、市立図書館にある3万冊の蔵書などを全て寄付。
中には日本で1冊しかない古書が何千冊と含まれており、今の価値で数十億になるとかいう話もある。

その後、市民たちの声により岡田は館長に就任
市議会議員にも当選していたが、図書館業務に専念するために引退。
図書館の横に岡田の公宅も設けられたが、岡田は図書館内にベッドを持ち込んで住み込み、妻に食事を運ばせて生活し続けた。

いやどんだけ図書館好きなんだよとツッコミたいところだが、今までの人生を考えたらこうなるのもわかる気がする。まさしく図書館にかけた人生だった。そりゃベッド持ち込んで住むよ

だがそんな岡田に災厄が訪れる。

そう、函館といえば……火災だ。

1934年、今までで最大規模の大火災が函館を襲う。

函館は江戸時代から栄えた港町であったが、しばしば大火に襲われ、市内の至る場所が火災の被害に遭っており、中でも1934年(昭和9年)3月21日の火災は最大規模となった。

当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風に見舞われていた。早春の日が落ちて間もない18時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった。さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。

時間の経過とともに風向きは南から南西、そしへ西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の3分の1が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者(917名)、また溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。

函館大火の範囲

実際に図で見ると凄まじい範囲に広がったことがわかる。
GoogleMapと合わせてみると……。

被災状況

もはや函館山とのトンボロ部分が半分以上燃えたと言っていい状況だ。
規模がでかすぎる。
そして函館公園も燃えた範囲に入っている。

そう、図書館のある函館公園は燃えているのである。

1934年3月、世界の火災史に残るほどの大火災である函館大火が発生し、函館図書館も火災に見舞われた。

このとき岡田は妻イネと共に、閲覧中であった蔵書類をすべて書庫へ戻し、水をかけた敷物で書庫への火を遮り、蔵書類を守った。
さらにイネを避難させた後、自らは図書館内にただ1人残り、避難を呼びかける部下の声に耳を貸すことなく、消火に奮闘した。書庫の前に仁王立ちになった岡田は、目や鼻が煙に襲われ、髪が焼け焦げることにも構わず、バケツを振るって水を撒き続けた。

もう確実に歴史に残る偉人の行動である。

な、なんだか目から水が……。

この岡田の活躍、そして図書館の鉄筋建築が功を奏し、函館の街の半分以上を焼き尽くした大火災にもかかわらず、図書館の蔵書類は一切焼失することがなかった

しかし岡田の公宅は焼失したため、岡田と家族は着のみ着のままとなってしまった。

火災から守られた図書館は、火災後には閲覧室などが避難所として活用された。岡田の長女である岡田弘子の小学4年生当時の作文によれば、図書館のどの部屋も多くの避難者がおり、まだ寒い時期の北海道でも、室内は昼夜ともに暖房で夏のように暖められ、多くの慰問品や食料が届いたことで、避難者たちは元気を取り戻したという。

岡田は家を失った。
しかし火災に耐えた図書館の閲覧室は避難者を受け入れる場所として機能し、多くの人々を救うこととなった。

この大火の翌年、小樽市の郷土史家である越崎宗一は函館赴任にあたって岡田への挨拶に訪れ、その時の印象をこう語った。

驚いたことに図書館を囲む樹々には生々しい焼け焦げの爪跡が残っており、附属していた館長官舎は焼け跡だけが残って姿がない。
公園附近の人家も殆ど焼失して、バラックがボツボツ建ち始めている。

暴風下の……模様を伺うと、到底助かるような状勢ではなかったそうであるが、館長は中にいて、必死に、窓の戸締りを厳にし、防火につとめた甲斐あって、鉄筋不燃質の館と書庫が奇蹟的に焔の侵入を免れ助かったという。
命をかけてつくりあげた館を、死守せねばならぬという館長の至誠、天に通じたと考うるより他ないと、私には思えた。

岡田健蔵伝 北日本が生んだ稀有の図書館人

大火の後、岡田は復興の資材調達のため、北海道内外の建築・土木業界に呼びかけ、実に100社以上がそれに応じてくれた。
図書館ではそれら建築資材の企画展を開催するなど、市の復興にも貢献した。

また、岡田は被災した子どもたちの心を癒やすため、全国に児童書の寄付を呼びかけた。日本各地から岡田のもとに児童書が贈られ、その数は12万冊にもなった。

2011年に発生した東日本大震災の際には、函館からの恩返しとして、震災で被災した子どもたちに絵本を贈る「被災地の子どもたちへ絵本を送ろう 函館プロジェクト」が開始されるなど、岡田の活動は未来に繋がったのだ。


そして岡田の功績は、国にも評価されることとなった。

岡田は函館市の文化向上のために尽くした功績により、
高等官七等待遇となり、従七位に叙せられた。
翌1940年(昭和15年)には社会教育事業功労者として文部大臣からの表彰を受けた。
1942年(昭和17年)には高等官六等待遇となり、正七位に叙せられた。

位階についてはよくわからないが、とにかく凄いことになったようだ。

でも色々と岡田健蔵について知ったあとでは、これも納得である。

岡田健蔵、間違いなく函館……いや、日本が誇る偉人であった。

-完-


いやー……素晴らしい人生を見せられてしまった。
もう何度涙が溢れたやらだ。

……え? 啄木?

いやもういいんじゃない?

そもそも岡田健蔵が鉄筋コンクリート造の図書館を造っていたおかげで、「啄木日記」などの重要な資料が火災からも守られ、後世に知られることになったのだ。
(まあ啄木は「日記は焼けよ!!絶対だぞ!!」と言ってたらしいが)

それに、どうも状況を見るに、
岡田が遺骨を持ち去ったとかいう言い方は違う気もする。

1913年に岡田は、前述した2度目の帝国図書館視察の際、節子夫人や宮崎郁雨の依頼のもと、啄木と彼の一族の遺骨を引き取り、函館へ持ち帰った。
これは啄木が宮崎に宛てた手紙に「死ぬときは函館で死にたい」とあったことが理由とされる。
岡田は遺骨を節子に引き渡したものの、改めて節子から遺骨の保管を依頼されたため、周囲から「気持ち悪い」と言われることも構わずに、図書館内に遺骨を保存していた。

啄木の妻の節子は入院中であり、岡田に頼んだのは自然な流れとも思える。

まあ前述した市議会で木造か鉄骨かで揉めていた頃も、啄木の墓碑の建設に向けて動いていたし、啄木の忌日には毎年啄木追想の行事をしてるところを見るに、岡田の啄木への想いが普通ではないものを感じる気がしないでもないが……。

それに、岡田は啄木の父である石川一禎に遺骨の取り扱いについて意向を伺ったという話もある。「適当に処理してくれ」という父の回答に岡田が憤慨し、「絶対函館に墓建てるわ!!」という決意を新たにしたとも。

ただ、啄木の妹の光子が函館に墓を建てた件について極めて否定的な意見を述べているという事実もある。
「岡田は盲信的な啄木ファンで分からずやである」
「さすがに石川家にもっと相談してよ」
と。
……まあ、確かに。

果たして啄木はどこに葬られたかったのだろうか。

本人の考えはわからない。

岡田が建てた墓からは函館の街と函館山ロープウェイが見える。
良い墓だと個人的には思う。
広い空も見えるし。


……いやどんだけ目的が逸れてんだよという話だ。

今日の目的地は立待岬!!

坂道を歩いて行く。
ああ、正面に海が見えた。

到着。

これが立待岬。

岩の上で魚を待ち伏せして、ヤスで獲る場所」という意味のアイヌ語である「ピウス」を当て字ではなく、意味から取って名前をつけたものだ。

魚が来るのを待ってる場所だから立ち待ちというわけだ。

すごい
ハマナス(冬のすがた)
はまなす(店のすがた)

やはり高いところから海を見るのは良い。

イカ

なんだか岡田健蔵のことについて語っただけの記事になってしまった。
このあとはどうしようか。

背後にあるのは函館山

そういえばまだ冬の函館山には登ったことがなかった。

ここからでも行けないことはないようだ。
せっかくだ。行ってみよう。

登山道は左。

もはや車の跡すらない道へと歩き出す。

登山の準備は大丈夫か?


しかし、すごい人物だったなあ……。


※講談があったので載せときます


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