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日記109:「おいしそうな本は不味い」

食わない。

本を読むと、どこか食事をしている気持ちになる。本をめくる手は魚をさばく手、文字を拾う目は伸ばされる箸、脳内で声色の存在しない声で再生される言葉は味蕾の躍動。
まあ、魚などさばいた経験はないのだが、それはさておいて…本を読むとそういう気持ちになるのは、読めば読むだけ自分の中に蠢いている口と舌みたいなものが育つような気がするし、読んだ本の文体がうつったり学習されたりするところがあるからだ。けれどももうひとつあるのは、大事なのは、その動きを食事みたいだとかと捉えても嫌な気持ちにならない理由が前提としてあってくれるからである。

私は食事が苦手だ。苦手というか、嫌いだ。
そのくせ好きな味覚は多くて、けれど健啖家揃いの身内とは違って消化能力が弱いらしいということに、最近気が付いた。日記でも確か書いた気がする。だから味わいを求めて食するのだけれど、それでも食べたくない、食べたくない、これ以上太りたくもないし、嘔吐恐怖による発作を起こしたくない…という気持ちで、結局なにも食べたくなくなる。うまいのに。
だから胃に溜まる満腹感を生じさせない、その行為が好きだった。食事しても怖くないからだった。

今月はあと2冊読むとひと月に10冊読んだことになるみたいで、さて9冊目はなににするかと本棚を吟味した。少し前から机の壁へ向かわす形で積読を何冊か並べていて、そこに隙間がいくらか生じたのを思い出して、その本棚から何冊か手に取って、また並べた。
気持ちがよかった。
満ちた。
しかしそこに、手にしたはずのない1冊が紛れ込んでいることに気付かされる。たぶん魅力的なものたちに挟まって移り住んできたのであろうその1冊は「サンドイッチは銀座で/平松洋子」で、去年くらいに買ったやつだった。
本棚に戻しに行くのも億劫だった。日本人は無神論者のわりに縁とかいう概念をなぜか飲み込みやすい傾向らしく、ならばこれは、腐った縁、腐れ縁か…と誤用をかましながら、億劫という感情をどかす作業をして開いてみると、初めの方で栞がひとつ挟まれているのがわかった。それを引き抜く。冷たい紙の感覚がなんだかがちがちしたものに思えた。
試しに初めから読んでみる。5分も経たぬうちに閉じた。栞は戻さなかった。

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