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胸騒ぎ

「ねぇ、今度京都行こうよ」
 夕食で使った食器をキッチンに持っていくタイミングで楓は呟くように言った。今日は僕が当番なのにと思ったけど、そのことには触れずに「いいね、京都」と答えるボクはきっと幸せ者だ。
「本当に? じゃあ、桜が綺麗に咲く時期に行こ。絶対だからね、約束だよ」
 キッチンの向こうから無邪気な声が聞こえる。水道が流れ落ちる音も聞こえたから、どうやら今日の洗い物は免除らしい。意図しているのか、天然なのかは未だに捉えきれないけれど、手持無沙汰になったボクはテレビの電源を入れた。
 画面に映し出されたのは、平日昼間に見なくなったサングラスを掛けた芸人と落ち着いた表情で番組進行を行なっている女性アナウンサーだった。この情報だけで、金曜日の二十時台と分かるくらい、この音楽番組は国民的な番組だ。子供の頃から、どんなに忙しくても、好きなアーティストが出ている時は欠かさず観ていた。青春時代を彩った音楽の多くを教えてもらったし、翌日学校の話題にもなっていた。今ではネットが発展して、探そうと思えば時間が経ってからでも見ることができるから、生放送ということを忘れがちになってしまうけど、生放送だからこその魅力は健在だった。そんな思いれのある番組の時間帯が変わるニュース記事を読んだのは少し前。未だに信じられないけれど、これも時代なんだと飲み込めるくらいには大人になっていた。
「翼君らしくない番組見てる」
 コーヒーカップを二つ持った楓がキッチンから戻ってきた。当たり前のように、僕の座るソファーの横に腰かけて、青いカップを僕に差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 カップの中にはコーヒーとミルクが混ざったカフェオレが丁度良い量で注がれている。少し息を吹きかけてから、口へと運んだ。甘さが口の中に広がっていく。楓は両手でカップを包んでいる。思わず可愛いなと思ってしまったのは、惚れた男の性のようなものだろうか。
「どうしたの?」
 楓は不思議そうな表情を浮かべて尋ねた。
「いや、なんか可愛いなって思って」
 本音を言うか誤魔化すか一瞬迷って、前者を選んだ。
「そういうことは、もっと言ってほしいな」
 甘えた口調で呟いた楓は僕の左肩に甘えるようにちょこんと頭を乗せた。髪の毛から漂うシャンプーの香りが、不意に胸を高鳴らせる。条件反射のようにキスしたいと思った。
「洗い物、ありがとう」
「うん。でも今日は、私の当番だから当然のことだよ」
「やっぱり」
 僕は思わず笑ってしまった。テレビのスピーカーからは、アイドルグループのキャッチーなメロディが流れ、テンポの速いダンスを舞っている。毎回アイドルの歌っている映像を見ると、踊りながら歌うという離れ業を平然と行なっていることに感心してしまう。カメラが向けば、ウインクなどのファンサービスも怠らないあたり、相当な努力をしているのだろうとなと素直に凄いと思う純朴さは残っていた。
「何、急に笑い始めて。ねぇ怖いんですけど?」
「今日の当番はボクだよ。気付いてないのかなって思ってたら、本当に気付いてなくて笑っちゃった、ゴメン」
「もう言ってくれればいいのに意地悪。明日と明後日は翼君が洗い物当番だからね。絶対だよ。サボったら怒るからね」
 全然怖くない楓の強迫に笑みを浮かべながら、黙って頷いた。
「同棲してからボクが当番をサボったことあったっけ?」
「ないから信用しているよ。それに私の方がサボってるし」
「確かにそうだ。一年半の間に楓と当番を何度変わったことか」
「それは言わないでよ。私だって働いてるし、疲れることもあるんだから」
「知ってるよ。無理して当番やるくらいならさ、変わるからね」
「うん、ありがとう。ユウ君は優しいし、約束を守る人だから甘えちゃうかもしれないけど、私もあんまりサボらないようにするね」
 約束を守る人。楓の言葉に引っ掛かった。確かに間違ってはいない。今までの人生の中で、止む負えない事情を覗いて約束を破ったことは一回しかない。その一回があるからこそ、より約束という単語に敏感になっていることは想像に容易だった。たまに思い出すあの瞬間、約束を守る準備を本気でしていれば、と後悔することもある。寝る前、夢の中、一人でタバコを吸っている時。不意にやってくる後悔は、ある意味ボクの核であり、日常に般化されたものでもあった。
 楓に視線を移す。彼女は上目使いで僕を見つめていた。肩に頭が乗っているから普段よりも至近距離で、その破壊力は未だに言語化できない。ボクは慣れた手つきで左手で髪の毛を撫でる。この距離感は、僕らが付き合って三年、同居して一年半の関係性を表している。恋愛経験が乏しかった僕には、恋人の当たり前とされている行為や行動が当たり前にならなくて、いつだって試合開始時に受け取る真新しいボールのような綺麗さを含んでいる。それが浮かれない要因だと自己分析する気持ち悪い側面もまた変わらないままだったけれど、それでもいいと時間は掛かったけれど飲み込めた。
「好きなアーティスト出るの?」
 甘い雰囲気が流れる部屋の中で、唐突に楓は訊いた。キスしようと画策していたボクは、彼女の質問を聞いて一時的に断念した。感情に従って行動を起こす積極性は、身に付けきれていないようだ。
「そういう訳じゃないんだけど、テレビ付けたら流れててさ。なんか懐かしいなとか思ったら、チャンネル変えられなくなっちゃった。あとゴメン、タバコ吸うね」
 頭の中を整理するために、テーブルの上に置いたラークに手を伸ばし、ジッポーで火を付けた。煙が立ち昇る。頭がクラッとした。楓はボクの肩に預けた頭を戻し、立ち上がって窓際まで歩いた。
「そっか。センチメンタルなお年頃?」なんて言いながら、窓を開けてから再び座っていた場所に戻った。
「センチメンタルって、もうそんな年齢でもないだろ? お互いにさ」
「私ね、よく観てたんだ。ミスチルとかポルノとかハマったのもこれきっかけだし。今だとYouTubeとかで簡単に見れるけど、昔はそうじゃなかったから凄く大事な番組だった。紅白とかと一緒で欠かさず観てたかも」
「ボクも一緒だよ」
「同い年だもんね」
 楓が笑ってカップを口に運ぶと同時にアイドルの曲は終わり、ボクは短くなったラークを灰皿に押し付けて完全に火を消した。そのタイミングでトークへと画面が切り替わる。他のチャンネルを変えようとリモコンを手に取り画面に向けた瞬間、全身が硬直する感覚が襲ってきた。
「それではオーバードライブで『醒めない夢』」
 ダサい名前だなと毒づく。しかし、画面に映し出された映像を見た瞬間、えっ、と動揺した声が口からこぼれてしまった。そして目を疑った。画面の向こう側に、見たことのある立ち姿が映っていたせいだ。まるで体内の神経系への指示が途絶えたかのように、指一本すら動かせなくなった。金縛りとは違う硬直。原因はテレビの向こう側にあると理解するまで、時間が掛かってしまった。数秒で身体の硬直が解けたボクは、気持ちを落ち着かせるために再びラークに火を付けた。頭が重くなった感覚が巡ってきて、余計に状況を把握するのに時間が掛かった。他人の空似である可能性は否めず、防犯カメラの映像を検証する警察捜査官のように映像を見つめた。
 ギターの音で演奏が始まると同時に、暗かった舞台に照明の光が差した。明るくなった中心にアイツに似た男が立っていた。シンプルな舞台の上、ドラムとベース、キーボードという編成の中心で構えるボーカル・ギタースタイル。右手で弦を押さえ、左手で弾き始めるボーカルの姿を映し出す。曲が始めると顔がアップになり、左耳で光るピアスが目に入った。そのどれも見覚えがあった。背中に冷たいものが走り、再び動きが止まる。左手に持ったラークはゆっくりと燃え、灰の量が増えていく。自然と意識は、酒が無くても熱くなれるものに視野狭窄になっていた淡い想いが詰まった過去へと飛んでいきそうになる。だが必死に堪えた。親友かもしれない男が晴れ舞台に立っているのだ。見逃すわけにはいかない。でも腑に落ちずに他人の空似の疑いは拭えない。ボクの知っているアイツであれば、決して取ることのない選択肢だったからだ。
「オレはオレにしかできない音楽を貫きたい」
 高校生だった彼はバンドを組むことを拒み、ギター一本で路上に立っていた。そして自分の音楽だけで世界と向き合い、全力で戦っていたからだ。
 仮に目の前に映る男がアイツであるとして、男の演奏は大学生最後の日に新宿の路上で歌っていた時よりも上手くなっていた。確かに学生時代から歌唱力には定評があったことは知っている。勿論、同級生やライブを見た見知らぬ人たちの感想だ。プロの目から見れば違った印象を受けるのかもしれないけれど、それでもバンドを組んでいた同い年くらいの奴らと比べれば頭一つ、いや三つくらいは飛び抜けて巧かった。 
 その歌声の代償と思ってしまうくらい音楽を始めた頃のギターはひどかった。ろくにメロディを刻めず頭を悩まして、弱音を吐いていた記憶は今でも覚えている。しかし画面に映る男のギターの音色は、あの頃の面影は全くない。むしろ同一人物とは思えない程上達している。素人のボクでも分かるくらいに。会わなくなった期間に彼が積み上げてきた努力の成果なのかもしれない。だとすれば時間の使い方や密度の違いを見せつけられた気がした。でも聞けば聞くほど他人のような気もするボクは、冷静は判断ができなくなっていた。
 ダセーバンド名だな、なんてバンド名を見た時に抱いた邪なことなど忘れ、気付けば叫ぶように歌う姿に見惚れていた。言葉にできない違和感を胸に抱えながら。
 何かを話していた楓の声が耳に入らないほど、ボクはテレビ画面を見つめていた。雰囲気や顔つきに年相応の変化はあった。でも間違いない。直感と言えば、恐らくそれであるけれど、正確には長年肩を並べてきた親友の姿に反応するスイッチみたいなものが知らぬ間に埋め込まれているのかもしれない。
 音楽を生業にする人が出演したいと口にする音楽番組にアイツが出ている。嬉しいけれど、素直に喜べない複雑な感情が胸を染めていく。心の中で呟いた声には嫉妬心が混ざっていた。そして無理矢理押し殺した一つの感情が、溢れだそうとしていた。
「ねぇ、翼君?」
 楓がボクの肩を揺らしたことで、我に返った。
「あっ、ゴメン」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「いや何でもないよ。あのさ、このアーティスト知ってる?」
 ボクは画面を指さして問い掛けた。すると楓は不思議そうな表情をしながら頷いた。
「知ってるよ。最近、よく深夜の音楽番組とかフェスとかにも出てるよ。この前行ったフジロックにも出演してたから聴いたよ。凄くカッコいいバンドで、多分これから今以上に有名になると思ってるバンドの一つなんだよね。どうしてそんなこと聞くの? あんまりバンドとかに興味がないのに」
「いや、単純にカッコいいなって思ってね」
「今度ライブ会ったら行こうよ。でもその前に京都で桜を見に行くのが先だけどね」
「うん、そうだね」
 この瞬間、楓が横にいてくれて良かったと改めて思った。手に入れられなかったガキの絵空事の代償で失った幸せの断片は、一定期間影を落とし続けていた。レントゲンや超音波検査といった医療技術でも発見することのできない穴が胸の辺りにできた気がした。決して目には見えない大きな穴だ。でも塞ぐ術を知らなくて、自然治癒を期待するかのように開きぱなしのまま放置していた。その期間は、過敏になり過ぎていて治っていないキズみたいに掛ける消毒液みたい色々な感情が染みて不甲斐ない自分を責め続けた。そんな壊れかけていたボクを救い、心にできた穴を埋めてくれた彼女という新しいピース。手に届く幸せのおかげで、ボクはなんとか立っていられる気がした。
 楓。ボクは無意識に彼女の名前を口にしていた。楓は普段と変わらない笑顔をして、まっすぐボクを見つめた。楓を左手で引き寄せて静かに顔を近付ける。何をするのか悟ったのか、何も言わずに目を瞑ってくれた。楓の優しさに甘え、自分勝手なキスをした。唇の柔らかさと温かさに涙がこぼれそうになった。
 同時に頭の中でこだまする声が響いた。
「幸せって、自分の好きなことを感情に純粋にやることだと思うんだ」
 果たして本当にボクは幸せなんだろうか。計ることのできない感情への疑問符を抱きながら、楓の温かく柔らかな身体を抱きしめた。

文責 朝比奈ケイスケ 

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