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いじめの種は誰でも心の中にある【音声と文章】

山田ゆり
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小中高の写真の中の私はいつも笑っていた。


それはその時、楽しかったのではなく、友達がなく寂しかったが、「後に残るもの」である写真に対して、精いっぱいの配慮をしていたのである。
だから、当時の写真の笑顔はほとんど偽りの笑顔である。



私は小6の時に番長的立場の男子に一年間いじめられた。
彼が先頭になり、何も知らない下級生までもが彼の真似をして私をいじめた。

だから、1年生や2年生からも
「わーい!臭い、臭い。あっち行けー」などと言葉の暴力を受けていた。


「お前たちに何が分かる!」
と、還暦を過ぎた今の私だったら思えるが当時の私は、下級生にまで馬鹿にされて、ただただ、下を向いて歩くしかなかった。

心無い暴言は直接叩かれるのとは違う身体の奥底にナイフを差すような痛みがあった。


いじめはどこにでもある。
誰でも遭遇する。


いじめをされた人はいじめを絶対しない、とは限らない。

立場が逆になることは簡単に起こりえる。

私がそうだったから。


同居の父は年を重ねる内に行動が遅くなり反応が鈍くなっていった。車の運転能力も激減し、危うく事故になりかねないことも多くなってきていた。

腕に力こぶがある筋骨隆々のイメージが強い昔の父と私はつい比べてしまい、「高齢者」になっていく父の姿を私は受け入れたくなかったのだと思う。

だから、いつも私は父を叱咤激励していた。いや、けなしていたが適切だった。
昔はできたのに、今はできなくなってきたことに対して私は厳しい批評家になっていた。


「どうしてそうなの!昔はそうではなかったじゃない!しっかりして!」


私は言葉の暴力を父に毎日浴びせていた。
そんなばか娘の言葉に父は反論することもなく、白く淀んだ目をしながら父は生きていた。


今思い返すと、私は本当に悪いことをしていたと思う。
当時も、その言葉を言わなくてもいいと分かっているのに、言わないと気が済まなかった。

そして言った後に、必ず後悔して、また父をけなしてしまったという自己嫌悪を感じ、自分を否定していた毎日だった。


「これではいけない。明日こそは父に優しくしよう。」
そう決心して床に就くが、翌朝、父に会うとまた、つい、父に対して小言を言っていた。


本当にバカな娘である。



そんな私にバチが当たった。
父が急逝し、「明日こそは優しくしよう」と思っていた私は、それをできずに終わってしまった。

そして、神様からの罰はそれだけではなかった。

父が亡くなったその夜から母の奇行が始まり、やがてアルツハイマー型認知症と母は診断され、私は介護という行いで父への償いをすることになった。



10年と10日間、母の介護をし、この期間は、これまで行ってきた私の行動の反省をすることができた。

また、父は急に亡くなったが、母に対しては「親はいつかは亡くなる」という当たり前のことだが、それを意識しながら「親孝行は今しかない」という思いで接することができた。


つまり、父のお陰で10年かけて母の看取りの心の準備をすることができたのである。


酷い言葉を浴びせられた父からは、その姿かたちがなくなった後も、愛情を降り注げられたのである。



いじめの種は誰でも心の中にある。


そう自覚しながら残された人生を生きる。







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