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コンセプト・ブックシェルフ 2話『梅雨空に、赤蜻蛉(とんぼ)』(6月)


 赤とんぼの歌を聴くたびにいつも、味気ないなと思う。
 現実の街の様子と、その響きにギャップがあるように思えた。だって今は秋ではない。
 視界に映る街はそんなに素敵ではなかった。音は右耳に入ったら左耳に抜けていくようだった。そのうちチャイムの放送が終わった。
 遠くにある市のスピーカーが、午後4時半になったことを告げた。俺は学校からの帰り道だった。
 どしゃ降りの中を、折りたたみ傘ひとつで進んでいた。蒸し暑かった。ローファーの中がぐしょ濡れで、制服が張り付いた。カバンが水を吸いすぎてもはや弾くようになった。重くて暑くて濡れて不快で、苦痛で仕方がなかった。
 街はくたくたに濡れきったどぶねずみ色だった。塀ぞいに咲く紫陽花も、コンクリートの地面なのに立ち上る土のにおいも、空も地上も青から赤に変わり始める魔法の時間も、どうでもいいと思えた。早く家につきたかった。休みたかった。

「ただいま」

 やっと自宅の扉に手をかけた。これで雨をしのげる。安堵のせいか、体が鉛みたいに重くなった。
 玄関に入ってすぐに、ずぶ濡れの学校指定バッグを土間の隅に投げた。ソファに行って寝転がりたいのを我慢して風呂場に行く。着ているものすべて、洗濯カゴに放った。
 シャワーを出した。しばらく体操座りになって浴びた。冷えすぎた肌には、36度にセットしたお湯ですら熱かった。
 苛立ちが体内から過ぎていくのを感じる。
 頃合をはかって風呂を出た。折りたたまれたバスタオルとパンツが、揺れている洗濯機のふたの上に置かれていた。
 パンツを履いてから気づいた。……シャツはないのか?

「あ、高志おかえり。外すごい降ってるよね。すぐシャワー浴びたの正解だと思うよ~」

 リビングに向かうと、ソファには姉ちゃんがいた。雑誌を読んでいた。

「これ出してくれたの姉ちゃん?」
「ん。感謝してくれるんだ♡」

 雑誌を持ちつつこっちに振り向いた。

「いやこれ見て気づかないのか? パンツはないのかよ?」

 パンツを指差す。言っていることとやっていることが変な気がしたが、疲れていたからもうどうでもよかった。

「やだ。高志、裸じゃん」
「だから! パンツはないのかよ!」
「え? あ、あ~。シャツね? 自分でとりに行きなよ~」

 姉ちゃんはソファに、仰向けにくたっともたれた。けど、何か思い立ったように、雑誌をローテーブルに伏せて立ち上がった。ぱたぱたと走っていく。
 入れ替わりに俺が、姉ちゃんの座っていた席に座る。
 ふかっと沈んだ。腰に来る。快適。眠れる、これは。気を抜くと一気に意識を持っていかれそうだ……。
 けど寝るのは、せめてシャツは着てからにしたい。
 見開きで伏せられた雑誌を拾った。さっきまで姉ちゃんが見ていたページが現れた。
 ウェディングドレスの特集。
 興味なかった。ぺらぺらとめくる。指輪。式場。招待状の書き方。なんじゃこりゃ。

「あ、このウェディングドレス素敵~!」

 耳元でやかましい声がした。姉ちゃんがソファの裏から覗き込んでいた。

「ほら見て! これすごく素敵じゃない!?」
「うるせえよ! シャツは?」
「あげるっ」

 ばさっと顔に放られた。目を瞑った。感触をやり過ごしてから下を向くと、トランクスパンツが足元に落ちていた。許せん。

「ほら~やっぱり白がいいよねぇ。青く見えちゃうくらい真っ白なのがいい! わたしももっと痩せないとな~。あ、このドレスもかわいい!」

 パンツを拾うためにソファから腰をあげると、姉ちゃんが横からするりと入ってきた。占領された。

「高志甘いね~」

 軽口には反応しない。

「……すごいかもしんないけど、結婚しなきゃ着られないじゃん?」

 放られた新しいパンツの近くに、白Tシャツも落ちていたからそれを拾った。

「え。すごいって何が?」

 姉ちゃんがきょとんとした顔をしたから、シャツを着ながら言った。

「ウェディングドレスだよ。すごいじゃん」
「え、すごいの? どこが?」
「何かひらひらが、豪華でさ」
「あ~そういう見方もあるんだ。へえ」

 ウェディングドレスで騒いでいた姉ちゃんなのに、こんな反応は意外だった。

「わたしは、ちょっと違うな。結婚したい!」

 ソファに座り、手も脚も大の字に広げた姉ちゃんが言った。

「……は? 結婚?」
「したいもんはしたいの!」
「まさか結婚したいって言ってるの?」
「うん。したい!」
「なんで?」

 愕然とした。
 そんなことを言うのは早過ぎないか? 姉ちゃんまだ17だろ。

「わけわかんない」

 思ったままを呟いた。

「え~。わかんない?」
「わかんない」
「男の子にはわかんないかなぁ~」

 ため息交じりなのに、どことなく楽しそうに言う姉ちゃんにイラッとする。
 何か反論してやろうと言葉を探る。そのとき台所から、とつ、とつ、とスリッパの足音がする。

「ま、相手次第だけどね。結婚は早くしとくに限るわよ」

 母さんだった。湯のみを乗せたお盆を持っていた。

「お母さんこのドレス素敵だって思わない!?」

 姉ちゃんが身を乗り出して、雑誌を指差した。

「あらいいじゃない。この青く見えるぐらいの純白がいいのよね~」
「やっぱお母さんわかる~♡」

 ふたりでうなずきあった。姉ちゃんに最強の味方ができてしまった。こうなると勝ち目がない。
 姉ちゃんの向かい側のソファに行った。乱暴に座ったが、ふかっとしなくて硬い。父さん専用のソファが、この家ではいちばんいい場所だった。
 レモンの香りがした。その香りが、俺に近づいた。
 熱い湯気が左頬にかかった。

「ほら、飲みなさい高志。シャワーだけじゃ風邪引くわよ?」

 差し出されたのはレモンティーだった。
 大きな湯のみにレモンティーというのが、いかにも我が母らしかった。
 ……息で冷まして飲むと、悪くなかった。

「お母さんの結婚記念日は七夕だもんね?」

 姉ちゃんが母さんに向いて言った。

「そうだけど。どうかしたの?」
「ロマンチック〜。すごい素敵! ねえ、それって狙ったんだよね!」
「さあ。どうだったかしら」
「わたしもぜったい、結婚記念日は七夕にする!」️

 両手を組んでうっとりと言ったら、すぐにこぶしを握って叫び出す。姉ちゃんはコロコロと表情を変えた。

「お母さんも、わたしも。将来のわたしの子どもも! 親子代々、七夕は記念日にする! それよくない!?」

 母さんは苦笑しているだろう。気が早過ぎることを言ってもしょうがないのに。紅茶をすすりながら母さんを見た。
 ローテーブルを力なく見つめた、陰りのある表情をしていた。

「ねっ、お母さん!」

 姉ちゃんがやかましく言った。母さんは顔を上げた。

「記念日を気にするなんてね、女の子だけよ。あんたの子が男の子だったらどうするの?」

 母さんは笑った。さっきまでの陰りはなかった。……どうしたんだろう。

「ぜったい女の子だし! 女の子産む! でも、男の子もいいなぁ。たくさんの子どもに囲まれたい!」

 ほんと、……気が早過ぎて、くらっときた。
 俺からしたらぞっとする。もう自分の未来を、完全に決定してしまうのかよ。

「何で姉ちゃんさ、結婚でそんなに盛り上がれるの?」

 くたくたで、腰が重くて、まぶたも重くて、もう眠って休みたいくらいなんだけど。
 姉ちゃんの話が本気で理解できなかったから、聞いた。

「何よ高志。嫉妬?」
「俺が何に嫉妬するんだよ?」
「話についてけないから嫉妬してるんだ~♡」
「勝手に言ってろ……」

 尋ねたことを後悔した。さらに頭が痛くなったが、言葉を続けた。

「結婚するったってよ、早くても24歳とか、まあ20前半なわけだろ? 今からそんなの話したところでさ」
「まさか!」

 姉ちゃんは大声で言った。

「そんなに待たないよわたし。できるなら、今すぐにしたい!」

 ……極論だ! 話にならない。
 恋に恋してるみたいに、結婚に浮かれてるのか?

「いい人がいるんだったら、明日にでも嫁入りしてほしいけどね。ただね、結婚は慎重になさいよ? いい相手を見つけること。いいわね」
「母さんまで……」
「見つけたら紹介するのよ?」
「は~い♡」

 疲れと、理解しがたさが相まって、めまいがするやら頭痛いやら。
結婚って、重荷だろ。よっぽど決意しなかったら、できないことなんじゃないのか。

「本当にいいのかよ母さん? 姉ちゃんも、何でそんなに結婚したいんだ?」
「だって若いママって言われたいじゃん!」

 姉ちゃんが力強く答えた。
 ただでさえ大きな瞳をもっと開いた。
 本気でそれを望んでるかのような表情だ。

「……さっぱりわかんないよ」

 そんなに目をきらきらさせている理由が。

「え~なんでよ。ほら、子供の授業参観とかでさ? 若いって言われたいじゃん!」
「子育ては、体力も気力もいるからね。若いうちにしたほうがいいわよ」

 母さんが姉ちゃんを見て言った。
 姉ちゃんと打って変わって、その目は、遠くを見つめているみたいだった。
 ニコニコしていた。姉ちゃんは母さんに、輝いた目を向けた。けれど視線を交える母さんは、姉ちゃんとは、別のものを見ているようだった。

「そだよね! 子どもが産まれたらさ~」

 母さんと姉ちゃんの、きゃいきゃいした会話を耳にしながら、その場を立った。
 自分の部屋に行くために、リビングの窓辺を通った。
 見たら、庭はものすごい豪雨に見舞われてぐっしょりしていた。なのに、蝉の音が聞こえていた。

 ラブレターを渡された。
 いや、これが実際にラブレターかどうかはわからない。差し出されているのは、横長の白い封筒だった。
 表面に『FOR YOU』と大きく書かれていた。だから、胸の秘めたる思いを打ち明けるような内容なのだと思った。
 俺に差し出されている。じきじきに、目の前の奴から、頭を下げられている。
 そいつは、男だった。

「これ、町田先輩に渡しといてくれ!」

 ……呆れて声もでなかった。
 姉ちゃん宛のラブレターをよこしたのだった。
 仕方なく受け取った。
 こういうことは初めてじゃなかった。というか、俺が学校に通い出してから、わりかし遭遇した。

「姉ちゃんこういうの見ないぞ」
「知ってるっつの。だから弟さんに渡してるんだろ!」

 忠告してやってんのに、苛立った口調で反論された。ラブレターを俺に託すような軟弱者は、決まって俺の言うことなんて聞く耳を持たない。
 姉ちゃんは、興味のない人間にはとことんドライなんだ。俺にこれを渡したからといって保証はできない。
 外はざあざあの雨が降っていた。廊下の窓に雨粒が叩き付けられて、パチパチ弾けた音がしていた。どこか気持ちを不安にさせた。二日連続の天候だった。
 俺はどしゃ降りの中を帰るのがたまらなくイヤだから、学校に残っていた。何をするわけでもなく廊下をぶらぶらしていた。そしたら捕まった。

「絶対渡しとけよ!」

 ……姉ちゃんに思いを伝えるってのに、俺の名前は調べないんだ。
 もし、仮に、思いが成就して、姉ちゃんと恋仲になったなら。必ず俺とも関わりがあるだろうに。
 ラブレターを、肩にかけていた学校指定バッグに入れた。できる限り帰宅は伸ばすつもりだ。けど、きっと天気は変わらない。昨日みたいに濡れるだろう。
 濡れてぐしゃぐしゃになって、開封するどころじゃなくなった手紙を、渡すわけだ。
 俺に頼むからだ。
 悩んだ。
 出した結論は、いつも通りだった。

 廊下を歩いた。つきあたりで階段にぶつかる。降りていく。運動部の喧騒が徐々に響いてくる。薄暗く狭い階段は、地上1階で、開けた光景に変わった。肌寒い渡り廊下を進む。
 体育館の扉を開けたら、振動と、大音量と、熱気が、ぶわっと俺の体に押し寄せた。
 すし詰めだった。チア部。バレー部。剣道部。バト部。隅では野球部が筋トレをしている。
 掛け声やらブザーやらBGMやらで、体育館はすごいことになっていた。騒音の大部分は壇上にあった。
 ぐるっと、ニスのかかった床の端を回って、壇上に向かった。チア部がそこで練習に勤しんでいた。

「お、高志」

 バトンを回していた姉ちゃんが手を止めた。階段を下りてきた。

「どしたの? 借り物?」

 BGMは鳴り響いていたが、姉ちゃんの声はよく聞こえた。壇上ではチア部の人たちが踊ったままだった。彼女たちから視線を感じた。

「違うよ」
「ひょっとしてわたしの練習見に来てくれた?」
「そうだよ」

 姉ちゃんは両手を胸の前で組んで、きゃーっ、と、あからさまな甘い声をあげた。

「やだ~もう! 何それ~! 今日は通常練習だから特別のじゃないし! ていうか来るなら事前に言ってよ! 高志わたしのこと好き過ぎでしょ! も~!」

 近寄ってきた姉ちゃんにバシバシ肩を叩かれた。バトンの端が当たって痛む。引き寄られて、ぎゅっと抱きしめられた。
 カバンに手を伸ばして、取り出す。

「でもって、これ」

 至近距離で封筒を渡した。
 姉ちゃんは一目で察したらしかった。きゃいきゃいしてたのが、急に静まった。

「家で渡してくれればいいのに。てか、人前~」

 抱きしめられた耳元で、そっと言われる。
 基本的に、こういう渡された物品に関しては、渡す責務だけは果たそうと思った。
 渡したやつのためじゃなくて、姉ちゃんにとって、いい縁の可能性が少しでもあるなら、とは思うから。

「そんなのずぶ濡れになるだろ。その場で読んでくれよ」
「読まないって決めてるんだけどなぁ~」

 姉ちゃんはそう言いながら俺から離れた。手紙を持って壇上に登った。降りている幕の裏へ行く。

 BGMは止んでいた。壇上からのチラチラした視線が、さっきよりも強く、確実に、俺に積み重なっていた。

 顔をそっと横にして、うかがい見た。バトンを両手に持って、俺を見つめていた。

 居づらかった。いくら何でも、踊っている最中に寄ったのはまずかった。足早にその場を去る

「あ。町田くん行っちゃうよ?」
「いいのエカ?」
「だって急だし……」

 そんな会話が聞こえたのは、BGMがなくなって体育館の騒音のレベルが下がったからだった。
 一瞬立ち止まろうか考えたが、何か用があるなら、姉ちゃんを通して言われることだろう。
 外のざあざあと滴る雨の音が入れ替わりに聞こえた。急速に耳と首筋が冷やされた。扉を閉めると、今の喧騒が嘘だったみたいだ。
 火照りと涼しさがちょうどよくて気持ちいい。
 チャイムが響いた。これは学校のじゃない。
 遠くからの赤とんぼの歌が、沁み入るように聞こえる。
 丸い電子音。ぼやけている。なのに、ひとつひとつの音程を確実にそろえている。ぼんやりと空に拡散する。
 よく耳を済ませると、赤とんぼの旋律はひとつだけではなかった。その内側に追いかけるようにひとつ、さらに内側にひとつと、輪唱のようになっていた。
 遠くにある多数のスピーカーは、一斉に音を出しているわけじゃなく、ずれているのだと思った。
 音が鳴り終わると、学校は、街は、ひときわ寂しくなったような気がする。
 午後4時半になった。雨足は変わっていなかった。

 赤とんぼの歌を目にしたのは、次の日だった。
 現在、午後4時。学校にいた。
 今日も用事があるわけじゃなかった。だからと言って、廊下をぶらついて昨日みたいに絡まれるのは勘弁だった。
 誰もいなくなった教室に残って、ひとり席に座っていた。肌寒さを感じながら、頬杖をついてぼんやりしていた。窓越しの光景はよくはなかった。グラウンドはまるで川が氾濫した姿のようだった。
 昨日よりはぜんぜんマシな天候だけれど、それでも雨が続いている。
 おととい、昨日と、結局びしょぬれだ。もう夏服に切り替わっていたから、替えがきかないのはズボンだけだけれど。2着しかズボンがないから、今日はまだ湿ったままのを履いてきた有様だ。
 3時の下校時から粘っていた。けど、あまりにやることがなくて暇すぎた。
 置き勉している教科書を取り出した。ぱらぱらとめくった。
 国語。数学。社会。いろいろ開いて、すぐにしまう。次の教科書は音楽。
 ……童謡のページがあった。滝廉太郎の春。マルセリーノのうた。
 外から赤とんぼが響いてきた。
 低い音から始まり、膨らむように音が高くなる。無機質。味気ない。
なのに、胸の奥をきゅっとつままれる。
 喉の奥が詰まるような、もの悲しい旋律。
 時計を見た。
 4時半だ。
 ……赤とんぼの旋律が、やたら耳に残った。
 俺はろくに、田舎の風景というものを見たことがなかった。実家も祖父母も、わりと栄えているこの地域にいるから。
 なのにこうも景色を想像させるのはどうしてだろう。赤い町並み。黄金色の田んぼ。逆光で影になった民家。稲の青いにおい。
 寂しかった。寂しいのに、その心苦しさが心地よかった。
 不思議だ。

 手元に開いた童謡のページをよく調べた。
 やっぱり赤とんぼの項目あった。
 歌詞をのぞいた。
『十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた』
 急に胸が痛くなった。
 やめてほしかった。
 俺が望んでいるのはこういう苦しさじゃなかった。
 そんな歌詞あったな、と、思った。
 姉ちゃんが、誰かのお嫁さんとなるのは別にいいんだ。
 お里の便りも絶えはてたっていうのがたまらなくイヤだった。
 結婚なんて信じられない。
 重荷だ。
 子どもが欲しくないなら、結婚なんて、絶対にしないほうがいいと思う。
 子どもだって、育てるなんてどのくらい苦労するんだ。
 どうして自分の子どもが欲しいって思うのだろう。
 理解できない。
 そんな理解できないことのために、姉ちゃんと、縁が切れてしまう。

 俺は、自分の頬を、両手で叩いた。
 焦りすぎだ、と思った。
 結婚が別になんだ。
 今の時代、ラインだってあるし。その気になれば交通機関を利用して会いにいける。
 焦ることはないじゃないか。
 けれども、俺の不安をピンポイントでうがつ、この赤とんぼの歌詞は、いじわるだった。
 15で結婚。……早いな。
 早過ぎるよ。
 どうしてそんなに早く結婚したいのか、わからない。
 姉ちゃんは、機会があったら、ヤゴから羽化したトンボのように、飛んで行ってしまうのだろうか。

 ……姐(ねえ)や。
 変な漢字だ。
 姉じゃないのか。昔の漢字だとこうなるのだろうけど。
 調べてみようか。

 姉ちゃんの「ただいま~」の声が聞こえてきた。
 だから自分の部屋から出た。玄関にいた姉ちゃんを迎えて、そのまま一緒にリビングに来た。

「高志めずらしいじゃん。どしたの?」

 きょとんとした顔を向けてきた。俺と姉ちゃんはリビングでふたりきりだった。
 母さんはまだ買出しに行っていた。それもそのはずで、今の時間は午後3時だった。今日は日曜日だった。
 だからカバンを持つことも、弁当箱を水に漬けることもなかった。

「たまには顔見たくてな」
「いつも顔合わせてるじゃない? てか学校で何度も見かけるし」

 ダメだ。ほかの事を言おうとしてもボロが出る。
 回りくどいやり方は、俺らしくないなと思った。

「姉ちゃん、何でそんなに結婚に興味あるの?」

 俺が聞いたら、リビングはしばらく無音になった。
 しとしとと屋根に積もる雨の音が響いた。
 しつこかったかな、と、不安になった。
 不思議そうな顔をしていた姉ちゃんは、にっと笑った。

「だって、いち早く結婚したい!」
「なんで早くしたいんだよ?」
「憧れるもん。それ以外に理由はないよ~」
「なら別に、焦って結婚するこたないだろ?」
「早く子供つくりたいし〜」
「なんで早く子供を作りたいのさ?」

 ここだ。
 俺がつっかかっていた、理解しがたい部分。
 何で子どもを? 子育てって、大変だろ?
 姉ちゃんはにんまりとはにかんだ。

「ヤンママがいいの!」

 ……まじかよ。

「ヤンキーな人が好みだったのか……」
「いやいや若いママだから」
「ああ、なんだ。ヤングママ?」

 姉ちゃんは、深く息を吸った。

「だってさ。若いままでママになれたら、子どもと年齢が近いんだよ? 子どもの目線に近くて、子どもといろんなこと共有できるの。だからわたし、若いママがいいの!」

 ……姉ちゃん、考えてるんだな。

「それにさ、若いママだったら、ほら授業参観とか何かにつけてさ。若い〜って羨ましがられるでしょ? それがいい! 子どもだって、若いママで羨ましがられてさ、誇りに思うでしょ。いいこと尽くめ!」
「それはぜんぜんよくわかんない」
「女子はそういうもんなの!」

 たしなめられた。

「これから先のさ、20歳の成人式の時にさ。ほら、再会したみんなからさ。もう結婚してるんだ? って言われたい!」

 きゃーっと、声をあげた。
 その部分だけ切り取ると、なんだか自分本位だな、と思わなくもなかった。子どもを自分のダシにしてるような。
 けどきっと違った。本質は、子どものためだ。
 子どものいる生活のために、早く、若いうちに結婚したいんだなって。
 ……そんな気がした。
 そう考えたら、俺も、ほんの少しだけ、早く結婚するの、アリかなって思えた。
 姉ちゃんが結婚したら、を考えた。
 ――赤とんぼのメロディが、ありありと頭の中で響いてきた。

 十五で姐やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた。
 ……ここで言う『姐や』は、姉ちゃん、って意味ではなかった。
 家政婦さんだった。昔は、住み込みの家政婦さんって若かった。
 赤とんぼを作詞した人は、5歳のころに両親の離婚があった。それからは、祖父母の家で育てられた。
 一方で、元の実家の家政婦さんは、変わらずそこで働いていた。
 便りを定期的に送ってもらっていたらしい。その便りを読んで、故郷の様子を知っていたのだという。
 家政婦さんとはいえ、作詞者にとっては、姉同然だったのかな。
 けれども。家政婦さんが15歳になったときか、作詞者が15歳になったときか。
 嫁に出た。……便りは、少なくとも、故郷から発ったものではなくなった。
 作詞した人は、故郷を知るすべがなくなってしまった。

 別に、深く調べたわけじゃなかった。音楽の教科書に、そのまま載っていた。
 赤とんぼの作詞者は、三木露風さんと言う。
 昔の人は、早くから結婚していたんだなって、漠然と思っていた。
 ひょっとして。当時から、若くして結婚したいという望みがあったのかもしれないな。

「ねえ、高志?」

 姉ちゃんに呼ばれた。

「何だよ」
「わたしがいなくなったら、寂しい?」

 その声が、悲しくて、あまりに切ないものだったから。

「……好きにしなよ。応援する」

 そっぽを向いた。
 話はもう終わりだった。
 応援する。こう言うしか、形容できなかった。
 本音とは違かった。けど、これ以外の言葉で、しっくりくるものもなかった。
 視界の端に見える、姉ちゃんの足が近づいてきた。とす、と感触があった。抱きしめられた。

「無理に言わないでいいよ」

 姉ちゃんしか使わない、シャンプーの桃のにおいがしていた。
俺たちは、そのまましばらくじっとしていた。

 姉ちゃんが早くに家を出てしまったら。
 この家は広くなってしまうなと思われた。
 父さんのソファだって、日中は俺が占領できるわけだ。
 姉ちゃんのことだから、その気になれば、本当に早く出て行けそうだ。
 姉ちゃんなら、たぶん、どこに行っても、誰が相手でも、要領よくやっていけるだろう。
 ソファは占領しなくてぜんぜん構わなかった。
 この雨は、ずっと降っててもらっても構わなかった。

 次の日の庭はぴかぴかに輝いていた。
 黄色い朝日だった。緑が映えていた。水滴が反射して水玉が浮いていた。随所にできた薄い影まで、きらびやかだった。
 ひどくがっかりした。晴れてしまったことで俺の心は曇った。つい1週間前の天気予報では、まだまだ雨は続くと言っていた。
 なのに今朝の天気予報では前線が去ったと報道された。
 出された朝飯を残してしまった。食パンと目玉焼きとウインナーにレタスのサラダ。サラダに至っては、ひと口食べたらギブだっだ。

「高志あんた、調子悪いの?」

 母さんに言われた。別に体そのものは、悲しいくらいに快調だった。眠くもないしだるくもなかった。
 隣の席で朝飯を食べ終えた姉ちゃんが、立ち上がって皿を片付けた。戻ってきたら、肩を叩かれた。

「ほら学校いくぞ!」

 姉ちゃんの顔を見た。
 にっこりしてた。
 まだ姉ちゃんと一緒に居られる時間を感じた。

「今食うから待って!」

 落ち込んでいた心が、少しだけ元気になった。


 姉ちゃんの「その時」が来たら。
 俺が出す答えについては、まだ焦らなくていいか。
「遅い~」とごねながらも玄関で待っててくれた姉ちゃんに追いついて、一緒に家を出た。



 赤とんぼ 完

 7月のコンセプト・ブックシェルフは、7月25日に投稿します。