見出し画像

小机城址① 鶴見川遺跡紀行(5)

中世の堅城・小机城と太田道灌の戦い

前回からの続き。

シリーズ全体は、こちらから ↓


鶴見川中流域2

さて、大倉山を後にして鶴見川を遡ると…

画像1

新羽ポンプ場から港北水再生センターへ伸びる汚水圧送管橋。その奥ににプリンスホテルが見えてきました。

画像2

堤防遊歩道を進むと…ん?川が急カーブ!?

画像33

地理院地図で見るとこの通り。牢尻台付近も直角カーブだったけど、ここはもっと屈曲してる!

画像4

カーブの頂点で鳥山川(左)が鶴見川に合流。さらにその先で大熊川が合流しているので、この地域は豪雨時かなり増水します。

その危険を少しでも軽減するために…

鶴見川多目的遊水地

画像3

鳥山川沿いにさらに進んで、日産スタジアムとフットボール場にやって来ました。
左の緑の土手は遊歩道。先程の地図で見ると、スタジアム周辺の細い黄緑色の縁取りにあたり、緊急時には堤防の役割を果します。

画像7

こちらは鶴見川沿いに広がる新横浜公園。野球場、運動場、テニスコート、スケート場なども完備され、市民の憩いの場になっています。

日産スタジアムと新横浜公園を含んだ広大な地域が、鶴見川多目的遊水地。台風や豪雨で鶴見川が増水した時、川の水をスタジアムの地下空間や周辺の運動施設に越水させて川の水位を下げ、下流域での浸水被害を防ぐ防災システムです。
【ご参考】

鶴見川多目的遊水地 (国交省・京浜河川事務所:pdf7ページ)

21回の台風・豪雨災害で活躍!

画像16

記者発表資料「鶴見川多目的遊水地で台風19号の洪水を貯留~運用開始以降、3番目の洪水量を貯留~」より

2003年に運用を始めて以来、21回の洪水を貯留。
令和元年の台風19号では約94万㎥の水を貯留し、隣接する亀の子橋観測所の水位を約30cm減少させました。遊水地がなければ氾濫危険水位を超えていたと推定されます。
翌日、何事もなかったようにラグビーW杯を開催できたのは驚きでした。


遊水地管理センター

画像8

現在はコロナ禍で開館日が限られていますが、鶴見川の水質や自然・生き物、防災などいろいろな展示があり、夏休みの自由研究にピッタリです。


小机付近の地形と地名

新横浜駅からわずか1駅、日産スタジアムの最寄り駅ですが、スタジアム側の駅前は閑静な感じで周りには畑も多く見られます。

この辺りは鶴見川の後背湿地(自然堤防の内側で水が溜まりやすい)で、昔は池土腐(ちどぶ)、中土腐(なかどぶ)と呼ばれていました。土腐は泥田を意味するそうです。そのためか、土地を1mほど嵩上げしているお宅も見かけました。

【ご参考】


小机城址市民の森

さて、本日のメインイベント。

画像24

横浜線の踏切近くの標識。矢印に従って進むと線路沿いの道に、町会掲示板の所で右折し、坂道を登ると…小机城址市民の森の入り口です。

画像25

!注意!駐車場なし。トイレは有りますが、女性用は使えないと思って下さい。駅や日産スタジアムのきれいなトイレをおすすめします。


小机城の歴史

築城者や築城年は不明。室町時代の地方豪族の小机氏が関わっていたとの説もある。地名の由来は、この小机氏からとも、地形が文机に似ているからとも言われているが、定かではない。

画像13

小机大橋の手前の対岸から見た写真。(確かに机っぽい)

歴史に登場したのは1478年。長尾景春の乱で景春の味方をした豊嶋泰経(豊島区の由来となった氏族)が、小机城主・矢野兵庫助と共に立てこもり、敵対する扇谷上杉方の太田道灌によって滅ぼされたとの記録がある。
しばらく廃城となっていたが、その後この地を支配下に加えた後北条氏の城となる。北条氏腹心の笠原氏が城代となり武士団小机衆を組織、小机城を拠点として地域を治めた。
しかし、北条氏滅亡とともに再び廃城、現在に至る。


太田道灌の亀の甲山城陣址

戦上手で有名な道灌は、鶴見川対岸の亀の甲山(現・港北区新羽)に陣を構えたが、小机城攻略に2か月を要したという。怖気付いた味方に対し「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と詠んで鼓舞した言い伝えが残る。
意訳:小机城攻略なんざ、子どもが(文机=小机で)手習いを始めるくらいに簡単よ。「いろはにほへと」で散り散りさ!

陣址の立地図

こせんじょう1

両軍とも見晴らしの良い高台に対峙し、兵の動きは丸見え。さらに、鶴見川とその氾濫原はぬかるんでいて、小机城にたどり着くだけでひと苦労。

現在の亀の甲山
実際に行って来ました。
グーグルマップが教えてくれた亀甲山城陣址。

画像14

高台なのだけれど、小机方面に建物や林があってが見えない。少し下ると正面が開けてきたが…

画像15

こちらは都筑区の方面。(高さだけ感じて…)

画像16

さらに坂を下がったら、ようやく建物の隙間から小机城址が見えた!

画像18

いや、なんなら亀の甲橋からでも十分見えてるし。


小机城・古城

当時の小机城は、今の城址より横浜線を越えて南側にある、金剛寺付近の裏山にあったらしい。

画像17

金剛寺の裏山に古城と呼ばれていた場所があるそうです。

画像19

今昔マップさんの地図に加筆。(下図でも使用しております)


道灌の戦略や如何に?

残念ながら、道灌がどのように戦ったのか伝承されていない。
しかし、矢野氏は神奈川湊を治めている在地武士の一族であり、戦況が悪化した時は神奈川区方面に逃げることは想像に難くない。道灌が件の歌を詠んだ場所と言われる硯松が、小机城の南に2.5km離れた神奈川区羽沢町に残っていることから想像すると…

①わざと小机城の後ろに兵を置かず、逃げ道を作っておく。
②正面から多くの兵で攻め倒し、敵が逃げるように仕向ける。
③敵が飯田道に沿って尾根を2つ越えた所を待ち構えて…

画像17

飯田街道のご参考 神奈川の脇街道

逃げ切った安心感と尾根越えの疲労感…緊張が緩み油断した所を狙われたら、もう絶望感しかない。道灌恐ろしすぎる…


それから…

この戦いで平安時代から続く豊嶋氏宗家は滅亡。矢野兵庫助は討ち取られた。

勝者のはずの太田道灌、その最期は壮絶。疑心暗鬼に駆られた主君の扇谷上杉定正の騙し討ちに遭い無念の落命。

その扇谷上杉氏は北条氏によって北に押しやられ、日本三代奇襲の一つとされる河越夜戦にて滅亡。

そして、関東一帯に勢力を誇った北条氏は、圧倒的な財力をもった豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡する。

****************

諸行無常、強者必衰、因果応報…廻る廻るよ、時代は廻る。
残された中世の城址は、私たちに何か伝えているのだろうか?

次回は、武士団「小机衆」と狼煙について考えます。




オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。