2月

2月はあっというまに終わった。
自分の音楽はもちろんだけど、人の音楽をたくさん見た気がする。
だからこそ、やはり人がつくった音楽がとても好きだ。

旅をしていた時と今の自分はまるっきり違う。その旅をアイデンティティにせず今を生きれていることは不幸中の幸いな気がする。旅していたときから、手段にこだわるのではなく結果的に音楽をしるために赴いていたり、探し回っていたから旅していたという側面がつよかった気がする。今思えばいい思い出だけど、それを看板にするにはよくない気がする。
留まらないのだ。音楽も人も。執着しないのではなく、執着できないだけで土地にも人の気持ちにも一時的な感情の起伏をみせるのは、心も耳を長年かけて時間をつかってきた人々には通用しない。わかるもんなんだよな。

そういう意味の凝り固まりたくないってのを常々思っている。
それでも俺は歌を歌うことを選んでいる。歌詞を書く、メロディをのせる、うまくいかないことのほうが多い。ボツになることのほうが多い、かっこ悪いものは聞かせれないとスタジオのなかで寿命を終える音楽たち。

でも、もっとだしたい。音楽を。

これから先、もしかしたら歌声が衰えていくのだろうか。っと考えたら、ちっとは身体のことを考えなければいけないよなとおもった。煙草やめよっかな、と思いながらまだ吸っている。先のことをもっと具体的に考えるようになった。治らない頭痛、鼻を啜りながら健康かどうかわからない食べ物を毎日食べている。自分が人間で、人間の身体は衰えるということを実感している。楽屋や駅の待合室で寝泊まりしていたホームレスみたいな旅芸人時代にはもう戻れないとおもう理由のひとつ。身体の疲れがとれない、甘えんなってはなしだけど移動だけでどっと疲れる時がある。

もちろん全然無理はできるけど、無理をしないといけなくなっている。それが多分、衰えのはじまりなんだと思う。騙し騙しやってもいずれやってくる。人は死ぬ、案外あっけなく。死ぬのが怖いというよりも衰えることが怖いとおもった。それなら少しずつ見直さないといけないなとおもった。少しずつはじめなきゃ。まずは朝は歩いてみるところからはじめようかな


もとからそうだったけど、人生の最大重要要素が恋愛ではなかった。優先順位がいつもなにかより低くて、それでなんだか傷つけてしまったことってあったよなって思う。仲間のミュージシャンが素直に愛を歌っているとき、それはちゃんと素直にうけとめて素直に相手に伝えていたからだとおもう。俺はそうじゃなかった、恥ずかしさもありながら心のどこかで捻くれて受け取ったり伝えたり。今もそれはあるかもしれない、それがもどかしい。だから身体でとてもおおきく身体をうごかしてどうにか伝えてみようとする。わかりやすく愛していることを伝えてみる(LOVEもLIKEも)。

でも勝手にからぶりしているなって考えちゃう。
これをうまく自分のなかでまとめなきゃ、次にすすめない。
今日も着地点を探している。

京都のNo Fanが凄まじかった。
希望や、無常、生きるや死ぬ、悲しみも孤独も運命を受け入れるも争うも、平和も本気で思っている人の強要することなき刹那を目の当たりにして人は心を揺さぶられると確信した。シュウさんの言葉が身体を突き抜ける、音ひとつひとつが言葉と重なり合う。バンドはこの時代クラシックなものなのかもしれないけど、俺はやっぱりバンドが好きだ。人が人と音を合わせひとつになろうとする瞬間は美しい。バンドが好きだ。


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